無農薬でなければならない理由

     最近、環境ホルモンという言葉がマスコミでも取り上げられるようになってきた。人間が造り出した様々な化学物質が、自然界に残留して体内にある性ホルモンの作用を狂わせ、子孫を残せないような状況になってきているということらしい。私などは、世界で人口が爆発的に増えているような状況で、そのこと自体はかえって結構なことじゃないかとさえ思ったりする。炭酸ガスによる地球温暖化の問題だってそうだ。これから地球が氷河期を迎えて人間も他の生物も住みにくくなるくらいならば、2〜3度暖かくなれば北海道なんかまことに住みやすくて結構じゃないか、なぜ騒がなくてはならないのかと。
 しかし、このような問題のとらえ方はもちろん間違っているだろう。なぜならば、環境ホルモンの問題も、地球温暖化の問題も、人間男子の精液の濃度が薄くなっているとか、気温が少々上がるとかいうことだけが問題なのではなく、そんなことよりもっと重大な問題をはらんでいるからこそ、騒ぐべきなのである。しかしマスコミなどは、あまりこういった環境問題について、正確に報道しているとは思えない。
 環境ホルモンについては、私はまだ読んでいないのだが米国の学者が書いた邦訳名「奪われし未来」(翔泳社刊)によって、一躍注目されるようになった。しかし、もうすでに1962年にレイチェル・カーソン女史の「沈黙の春(サイレント・スプリング)」(新潮社刊)において、農薬がたとえ微量であっても食物連鎖により生体濃縮されて野生生物や人間に多大なる悪影響を及ぼすことは、指摘されてきたことだ。塩素系殺虫剤のDDTが精子の能力を減退させることも、「沈黙の春」に書かれていた。そのことの重大性が、40年近くたった今もなお十分理解されていなかったことが、残念でならない。
 先日の北海道新聞で、北極圏のアザラシが、もうすでに20年以上も生産されていないPCBを高濃度に蓄積していて大量死したり、現在インドで使用されている塩素系殺虫剤HCHによっても高濃度に汚染されていることを報道していた。濃度が低ければ安全だとか、自分のところだけ使わなければ大丈夫などという問題ではないのである。
 そんなわけで、最近はやりの輸入オーガニック食品というやつには、怒りを覚えるのである。自分だけ安全な食物を食べられればよいという消費者エゴ丸出しではないか。流通業者も行政側も、一般の農産物が農薬や化学肥料なしではできなくなっている現状は温存しておき、だからこそ無農薬のものが付加価値をつけて高く売ることもできるのだというような、単なるブランドとして有機農産物を考えているようにしかみえない。そんなものは、あさましいだけで有機農業という名に値しない特殊栽培でしかない。
 今こそ地球上のすべての生物を守るために、農薬を使うべきではないことがはっきりしてきたのである。そのためになすべきことは何か。国は農薬会社や流通資本の利益を守る政策をやめて、命と環境を守る政治に転換しなければならないし、我々一人一人は生活を変えなければならないのである。車でスーパーに買い物に行き、世界中の食品が何でも手に入るなんていう生活はやめなくちゃならない。最近、余市にも大型店舗が増えて、生協も広い駐車場のある店に建て替えたのだが、リンゴの産地でありながら、余市のリンゴは店頭になく、青森や長野のリンゴしかないのである。地元の農家はリンゴが売れず安すぎてみんな困っているというのに、なんで余市生協が青森のリンゴ売るんですか。なぜ、アメリカのブドウやサクランボまで売るんですか。わかっている人は、もう農家から直接買いますけど、生協がそんなことするんですから、利益優先のスーパーなら何をか言わんやです。はっきり言って、消費者が農家から直接生産物を買ってくれれば、農家は農薬を使わなくてすむのです。


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