なぜ原発反対運動をするか
 
   1992年春、私はそれまで勤めていた本州のワイン会社を退職し、有機農業を始めました。北海道で果樹栽培をする長年の夢を実現するため、この地を選び入植したのです。農業(自給的有機農業)・芸術(オーケストラ)・宗教(イエスの愛と解放の思想)の3つを融合させた場を作ることが目標でした。そのために、有機農業の仲間とつながり、94年からは全道の仲間と農民オーケストラを作り活動し、現在は「農民芸術学校」を構想中です。そのような矢先、3.11東日本大震災によって起きた史上最悪の大惨事、福島第一原発の事故は私の生活を一変させました。ここから30kmに満たない所に北海道唯一の原発である泊発電所があるからです。
 もし、福島と同じような事故が泊でも起きたら、ここで農業をやり続けることなどできません。今まで農薬や化学肥料を使わず大地を汚さないようにしてきたことも一瞬で水泡に帰し、何百年も農業ができない死の土地になり、ふるさとを失うことになります。ここで私が描いていた農業を基本にして豊かな自給社会を建設するという夢は、目に見えない放射能によって暴力的に破壊されてしまうのです。そのようなことを想像すると、いてもたってもいられませんでした。早速、 有機農業の仲間や音楽仲間などに広く呼びかけ「泊原発を止める会」を立ち上げ、泊原発のお膝元で反対活動を地道に続けてきた斉藤武一さんの講演会を開催し、町内外から400名以上の住民が集まりました。その後も、署名、デモ、裁判への参加、町議会へ意見書採択を求める要請など、泊原発を止めるため、ありとあらゆる活動をしています。
 入植当時、泊原発が積丹半島の反対側にあることを余り快くは思っていませんでしたが、福島のような事故が起こることなどは想像もしていませんでした。しかし、福島の事故が起きて分かったことは、日本の原発は優秀でチェルノブイリのようなことには決してならないと言われていた安全神話が全くのウソっぱちであり、ひとたび事故が起きたら全く制御不能の余りにもひどい代物だったということです。今回の事故で身に染みたことは、「無知ほど恐ろしいことはない」ということと、「無関心ほど罪深いことはない」ということでした。
 今回の大地震は、千年に一度という想定外のものでした。本当は想定していなければいけなかったのですが、できませんでした。福島原発において、30年以内に大地震の起こる確率は0.1%未満とされていました。しかし、決してゼロではありません。想定外のことは、いつか必ず起きるのです。そして、想定外のことが起きたときに、破滅的な事故を引き起こしてしまう原発というものを、果たして建設・運転することが、許されるのでしょうか。原発は、エネルギー・環境問題を考えたときに必要だという意見があります。私は全くそう思いませんが、もしそうだとしても、このような事故を引き起こす可能性があるのであれば、それは使ってはいけない技術ではないでしょうか。他にどんな方法もないのであれば仕方ないかもしれませんが、発電方法など他にいくらでもあるのです。現に日本で稼動している原発を全部止めても、十分需要をまかなう発電能力があるのです。そうであれば、今すぐ全国すべての原発を止めるべきでしょう。
 泊原発の近くには、活断層がないとされていましたが、最近になって大きな活断層が近くにあると分かりました。そして、その近辺は長らく地震が起きていない空白地域です。ここも大陸プレートの境界近くであり、歪みのエネルギーが蓄積されていて、ひとたび地震がおきれば想定外の大きなものとなり大津波に襲われるる可能性も非常に高いのです。泊原発は、全くそのような想定をして建設されてはいません。設備的にも、沢山の不備が指摘されています。来年春からより危険の大きなプルサーマル発電を行なうことが予定されている3号機の建設当初の試運転時には、重大な問題のある検査結果をごまかしていたことが、元検査員から内部告発されました。私は心配で心配でおちおち寝てもいられなくなり、先日は、大地震で泊原発が爆発する夢まで見てしまいました。
 政府や電力会社やマスコミは一体となって、 原発は火力発電に比べればクリーンでエコで温暖化防止にもなり、コストが安く安全で、資源のないわが国ではメリットの大きい発電方法で、3割は原子力にたよらざるを得ないという宣伝を繰り返してきました。しかし、どれもこれも完全にウソでした。仮にそれらがすべて本当であったとしても、過酷事故の可能性が皆無ではないという一点で、決して容認はできません。
 北電や国は、福島のような事故を2度と起こさないように、安全対策を見直し強固にすると言っています。しかし、どんなに安全対策を施したところで、完璧ではありません。原発がある限り、いつか事故は起こります。莫大な追加投資をしたところで完璧な対策はできないのですし、対策がなされる前に大きな地震が起きないという保障もありません。それなのに運転を続けていることは、許しがたいことに思えます。
   一旦事故を起こしたら、とりかえしのつかないことになる原子力発電は、人間の手に負えるものではなく、やめるしかないのです。それが、人類の英知というものです。ましてや、必要な安全対策や廃棄物の処理までコストに計算すれば経済的に成り立たず、万一の事故保障など含めれば天文学的な費用となり完全に破綻します。高レベル放射性廃棄物の処理方法にも全くめどが立たっていない状況のまま原発を運転し続けることなど、どう考えても正常なことではありません。さらには、通常運転中にも微量放射能は放出され、半径100km以内では乳ガンや白血病のリスクが高まるというデータもあります。また、ウラン採掘から原発運転、廃棄物の処理に至るまで、必ず多くの被爆労働者を生み出す問題もあります。何万年も管理し続けなくてはならない放射能廃棄物という負の遺産を子々孫々に負わせ、金の力にまかせて下請け労働者の命を削り、過疎の村に危険をおしつけ、そうしてまで巨大なエネルギーをもてあそぶ原発は、事故が起こらずとも、存在すること自体が、社会をむしばむ癌のようなものです。
   原子力は、もともと核兵器として研究開発されたものでした。大量殺戮に最も効果を発揮する技術なのです。原子力発電は、戦争が終わり必要なくなった核兵器の原料である濃縮ウランの新たな使途として、核の平和利用という名目で始まりました。戦争は勝つことだけに目的があり、あとは野となれなのです。戦争がなくなっても、独占資本による利益追求のシェア争いで同じことが行われ、安全や環境は二の次とされ、あとは野となれ式競争がガン死の増加や環境破壊を招いているのです。原子力は、もともと発電などに向いた技術ではないのです。発電すればするほど放射性廃棄物がたまりますが、その処理方法は全く未解決のままです。核燃料サイクルなど、全くのまやかしです。原発の建設、安全な運転、寿命を終えてからの廃炉および放射性廃棄物の処理までトータルに考えると、経済的にペイしないだけでなく、おそらく生み出すエネルギーよりも消費するエネルギーの方が多いのです。 しかも、一旦事故を起こしたら、経済的にも環境的にも、到底とり返しのつかない危険きわまりないものなのです。
  私は、なぜあの時にもっと一生懸命に反対しなかったのだろうかなどと後悔したくはありません。このまま泊原発の運転を許して、この世界一美しい北海道の大地が、放射能で死の大地になってしまたら、悔やんでも悔やみきれないでしょう。だからこそ、泊原発を止めるまで運動をやめないことを決意しました。農業や観光が重要な産業である北海道にとっては、事故がなくとも、原発や放射性廃棄物の処理施設があるということ自体が、マイナスなのです。自然に恵まれ食糧も十分に自給できる北海道は、率先して永続的で等身大の社会・文化を築くことが可能であり、自然の恵みを豊かに生かした 地域として世界にアピールするべきだと思います。そのためには、原子力は絶対に排除しなくてはなりません。
   幸いにして、泊原発を3号機まで全て停止したとしても、他の火力発電所、水力発電所などを全て運転すれば、電力が直ちに不足に陥ることはないと考えられます。原発は即刻停止させ、それに関連する開発研究を中止して、再生可能な自然エネルギーなどの活用を推進し、また省エネルギー技術や地域分散型の自給シス テムなどの研究に力を注ぐべきでしょう。核と人類は共存できません。原子力や遺伝子組み換え、これら自然の仕組みの根本に関わる技術は、ひとたび間違いを 冒したら二度と取り返しのつかない技術であって、人類いや全生命を滅亡させることも可能なテクノロジーです。これらは神の領域というべきものであって、ま だまだ分からないことの方が多く、必ずミスを犯す人間が決してやってはいけないことであり、人間は人間の領分をわきまえて、自然の摂理に従うべきでしょう。

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