キリスト教は排他的で独善か?
 
  民主党の小沢幹事長が11月10日、高野山金剛峯寺を訪ね、全日本仏教会会長の松長真言宗管長と会談した中で、表記のようなことを述べた。早速、日本キリスト教協議会は抗議の表明をしたようだが、確かに小沢氏の発言は余りに軽率だし、キリスト教の多様性というものを全く理解してはいない。しかし、その発言は、必ずしも間違いとばかりは言えないだろう。
 今、私のホームページにある掲示板で、死刑についての論議が再燃して、私は以下のようなことを書いた。これは何も、キリスト教会に限った問題ではない。しかし、100匹の羊をおいても1匹の迷える子羊を助けに行く、というイエスの教えを実践すべきキリスト教会が、このようになってしまっているのであれば、小沢氏に抗議することなどできはしないだろう。

(以下、「えこふぁーむ・農民芸術学校」掲示板 09.11.21)
  憎しみの感情は理解できるし、それは余りにも人間的な正当な感情に他なりません。しかし、死刑そのものは、人権の否定に他ならないし、生きる価値のない 人間というものがあることを認めることに他なりません。憎しみは、乗り越えるしかないのであって、犯罪被害者にとって、犯罪者の死によって償われることのできるものなど、何もないのだと思います。

  本年、私の所属する日本聖公会というキリスト教教団において、150年の歴史で初めて教会自身による審判廷というものが行われ、児童に対して長期にわたり悪質な性的虐待をおこなっていた司祭に対し、終身停職の判決が今週やっと出されました。私は直接その事件に何の係わりもないのですが、自ら申し出てその審判廷の申立人3名のうちの一人になりました。
  下された判決は、一応勝訴なのですが、しかし全く被害者の心を癒すものではありませんでした。この問題は、まだ全く解決していません。被害者(とその唯一の身内である父親)が未だに許していないのは、その加害者であるエロ司祭ではありません。
  事件の発覚から、もう8年が経っています。被害者は、ずっとPTSDに苦しみ続け自殺未遂も起していました。事件そのものは20年も前のことなのです。 被害者は、あることをきっかけに勇気を出して教会に訴えました。この時点で、教会が彼女を守れば、きっと癒されていたことでしょう。ところがところがです! 教会が、一向に司祭を処分しないので、被害者の父親が、業を煮やして裁判所に訴えました。ところが、あろうことか、教会は、自殺未遂までして苦しんでいた被害者を守るどころか、裁判において彼女に対して虚言癖があるなど様々な虚偽の攻撃をし、さらなる精神的虐待を加えて、一切罪を認めない加害者司祭の方を守ろうとしたのです(この司祭、一端は罪を認めて被害者にも謝りましたが、裁判でそれを覆しました、実に卑怯な奴です)。4年前にこの裁判は、最高裁が被告とそれを弁護した教会の主張を一切認めず、有罪が確定しました。残念ながら刑事事件としては時効になっていたので、その行為は非常に卑劣なものでしたが、実刑は慰謝料のみです。それなのに、教会はその司祭を停職にしなかったどころか、幼稚園の園長としての退職金を支払い、それで慰謝料を支払わせたのです。しかも、さらなる被害者が次々と名乗りを上げるまで、最高裁の判決は不当な冤罪であると主張して、加害司祭を守ろうとし続けたのです。こんなことが、許されていいものでしょうか。これらのことについて、この審判廷においても、教会(日本聖公会京都教区)は、未だにその罪を素直に認めず、悔い改めの姿勢を全く見せていません。

  犯罪の被害にあったものが癒されることがあるとすれば、それは再び犯罪が起きることのないような状態に生まれ変わる時だけです。それは、犯罪を犯したものを抹殺することでは解決できません。癌細胞を取り除いても、癌になる根本原因を直さない限り、次々に癌細胞は生まれるのです。日本聖公会という教団は、 今かなり深刻な癌に冒されていると言えるでしょう。一刻も早く治癒することを、祈るばかりです。
  この事件についての詳細と、教会のどこに問題があるかは、被害者側代理人司祭によるホームページ
http://www.m-fumio.com/index.html に詳しく書かれていますので、ぜひご覧ください。

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