信じるということ
 
    私は、神の存在を信じているし、戦争はなくなると信じている。悪い人間などいない、悪いことをするのは神を見失っているからなのだと思っている。こういう私のことを、お人好しで世間知らずなのだと思う人も多いだろう。
 ただ、この「信じる」ということにも単純に白か黒かとは言えないような色々な信じ方があって、盲目的、熱狂的な信じ方もあれば、やや懐疑的な思いを抱きながらも信じる、そういう信じ方もあるだろう。私は、何を信じるにしても、常に疑問は持ち続けている。近頃の天気予報よろしく「神のいる確率90%」みたいな感じだろうか。優柔不断と言ってしまえばその通りであるが、間違ったものを信じることだけはしたくないのである。
 私は自分をクリスチャンであると名乗っているが、それは、イエスという一人の男の生き方に惚れたということだけであって、それ以上のことではない。聖書を信じているわけではないし、キリスト教神学を信じているわけでもない。もちろん、洗礼を受けたとき(今から35年くらい前12歳の時)には、聖書も神も信じますと言ったが、それは過去の話である。今は、とても恥ずかしくてそんなことは言えない。今、私が信じているのは、現実の世界と人間だけである。神はいると思っているが、神を信じるべきだとは全く思わないし、天国なんか全く信じてもいない。
  私は、オカルトが嫌いである。占いの類には一切興味がない。だからといって、科学を万能とも思わない。科学を信じることは、神を信じることよりも危険だ。科学的思考は非常に大切なことであるが、科学は信じるものではなく、疑うものであるからだ。もしかしたら、神もそうかもしれない。信じるべきものではなく、疑うべきものではないのか。しかし、疑ってもなお、否定しきれないものがあるとすれば、それは、否定してはいけないのである。それこそが、科学的な思考というものだろう。だから私は、決して無神論者にはならずに、不可知論者なのである。
  ではなぜ、それでもクリスチャンであり続けようとするのか? それは理想を現実にするためだ。それ以外の理由は一つもない。この世に神の国(=理想社会)を実現するため闘い続けるのがクリスチャンであると私は理解している。正しいことは、どれほどの困難があっても必ず実現しなければならないのであるし、神が存在すれば実現しないはずはないのである。理想が実現しないとすれば、神がいないか、理想が間違っているか、そのどちらかである。

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