「芸術とは何か?」・・・先月号に引続き、農民芸術学校設立準備委員会について・・
 
   先月号での私の提案には、5名ほどの方から賛意を表していただきました。5名で学校を作るのは、まだまだ難しいと思いますが、3名集まればやると宣言しましたので、まずこのメンバーだけでもスタートしてみようと思います。連絡を下さったのは、いずれも余市からそう遠くはない地域の方々なので、とりあえず、このメンバーで集まって話し合う機会を作りたいと思います。しかしながら、一年で最も忙しい収穫の季節到来というわけで、収穫が一段落ついた11月頃に第1回の会議を開催しようと思います。今からでも、この話に興味のある方は、ぜひご連絡ください。
 ある方からは、NPO法人にしてはどうかという意見もいただきました。事務量が格段に増える懸念はありますが、検討に値すると思っています。NPO法人化による金銭的なメリットは余りなさそうですが、社会的な認知度は高まりますし、活動はしやすくなるのではないでしょうか。
 宮澤賢治が作った羅須地人協会は、1926年に宮澤家実家の別荘を利用して始まり、地元の新聞などでも紹介され、参加した農家からは「農民芸術学校」と呼ばれていたようです。農民オーケストラを目指してアンサンブルの練習も何回か行われました。しかし、そうした活動も、わずか2年足らずで休止してしまいました。その理由は賢治の健康問題など、いくつか考えられますが、当局より社会主義的であるとして目をつけられ、周囲の農家からの理解も余り得られなかったことが、一つの大きな原因のようです。、当時とは、社会情勢も全く違うわけですが、農村社会の保守性という点では意外に変わっていない面もあります。
 この時代にとって、一体何が必要なのでしょうか? 宮澤賢治は、80年早く始めてしまったのかもしれません。彼の時代にはできなかったことでも、今では容易にできることもあるでしょう。農民オーケストラは、すでに15年の実績があります。えこふぁーむでは農業研修生も随時受け入れ、現在も一名が農業を学びながら余市室内楽協会で一緒にアンサンブルもやっていますし、私が求めている農民芸術学校の活動はすでに始まっていると言ってよいかもしれません。ないのは器だけだと言えなくもないのです。80年前と最も大きく異なるのは、農家が全くの少数者になってしまったことです。少数者が担っている農業というものは、機械化されて大規模になっていますが、農家がやっていることの本質は、何も変わってはいません。
 農業は、人間が生きていくために必要な、いつの時代にも最も基本的な営みです。現代日本では、これが余りにも、ないがしろにされてしまっています。お金で何でも買えるみたいな風潮が蔓延しています。お金がどんなにあろうと、実際に土を耕す労働がなければ、人は生きて行くことができないことが忘れられています。
 一方で、芸術なんかなくても人間は生きていくことができるのかもしれませんが、それで生きていく価値はあるのでしょうか。ただ生きるのではなく、何のために生きるかを考えた時には、人間にとって芸術はとても大切なものであると思います。芸術というものは、私の考えでは余暇でやるものではないのです。人間的に生きるために、絶対必要なものなのです。日常生活のすべてが、住居や衣服、日常使う道具から料理に至るまで、芸術であるべきです。農業そのものだってつきつめれば芸術です。私のやっている農業も、果樹や野菜の栽培が中心で、これは農業の中でも園芸という範疇です。芸という言葉は本来、作物を育てるという意味です。
 芸術とは何か、これはトルストイが語ったところによれば、人間の正しい自覚を感情に移す道具であって、その目的は(ここが大事です)神の国を建設することです。この神の国というのは、もちろん日本の某元首相が言ったような意味とはまったく違い、暴力を排除した人類の生活の理想の姿という意味です。
 つまり、新約聖書においてイエスは、そのような社会の理想を語るときに「神の国」はこのようなものだと語ったので、トルストイもそれを「神の国」と言っているだけのことです。難しく考える必要はありません。暴力のない理想的な社会を志向する感情を生じさせるもの、それが芸術なのです。芸術というものの高みを求める姿勢を、生きて行くために必要な営みとともに、失わずに持ち続けて行きたいと思うのです・・・

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