宮澤賢治「銀河鉄道の夜」におけるキリスト教
 
   この賢治の有名な作品が、その犠牲的精神においてキリスト教的イメージに満ちていることは疑いがないし、主人公のジョヴァンニとは、新約聖書に出てくるヨハネのイタリア名である。宮澤賢治は法華経を信奉した熱心な仏教徒であるが、キリスト教にも少なからず好感を抱き、特にその犠牲的な愛(アガペー)という 仏教にはない思想に魅力を感じていたのではないだろうか。賢治は、実家の宗教であった浄土真宗に対する反発もあり、法華経に魅せられ国柱会という右翼的 ファナティックな日蓮系の新興宗教のメンバーとなったが、彼自身は他の宗教に決して排他的ではなかったし、宣教師のいるキリスト教会に通ったり、無教会派 のクリスチャンと親交を深めたりしている。しかし、一方でキリスト教徒にありがちな偽善性・独善性に対する耐え難い不信感のような気持ちもあったとみら れ、それは銀河鉄道の夜において主人公が「ほんたうの神」に関して激しく議論をするところを読んでも感じとることができる。
  キリスト教に対するこの2つのイメージは、現代一般の日本人にとっても、キリスト教を遠ざけている大きな要因となっていると言えるだろう。マザーテレサ や三浦綾子の「塩狩峠」の主人公にみられるような、深い信仰をもったクリスチャンの自己犠牲を顧みない無償の愛、その行為自体に対して感動し賞賛はするけ れど、それを決して自己に重ね合わせてみることは出来ない。そして一方では、唯一絶対の価値観を主張し、他の一切の価値概念を否定し消し去ろうとする暴君 的な性格もったキリスト教会の歴史も知っている。十字軍や魔女裁判、異端審問のようなおぞましい歴史は、現代のイラク戦争を見ると、決して過去のものだと も思えない。もちろん、キリスト教を信じるものだけが終末において救われるという思想に基づいてイラク戦争を肯定しているのは、一部の過激な原理主義的宗派に過ぎないのであるが、そういう思想がキリスト教会に少なからずあることは否定できない。非キリスト教徒にとって、そのような思想に対しては拒否反応し か起こらないだろう。そういったキリスト教のマイナス・イメージは、現代においても抜きがたくあるが、それはキリスト教に対する誤解というよりは、新約聖 書の成立と共にあった正統的キリスト教神学(カトリックの成立とともに生まれ、プロテスタントによっても継承されている神学思想)による正当な評価だと言 わなくてはならない。新約聖書、特にパウロ等の自己犠牲を厭わない熱心な宣教の姿勢には、仏教などに比べると相当に闘争的なところがあるが、私はそれがキリスト教の大きな欠点となっていると思えるのだ。
  私自身は、新約聖書成立以前の初期キリスト教、さらにイエス自身の信仰は、かなり違うものではなかったかと考えているし、イエスは十字架刑という自己犠 牲を厭わず闘ったが、それは圧政をふるう強大な政治権力や宗教権力に対するものであって、決して無知蒙昧な民衆に対する闘いなどではない。そこのところを、原理主義(ファンダメンタル)諸派はもとより、福音主義的な正統的キリスト教会すべてに誤った認識があるように思えてならないのだ。そういう意味で、 パウロはイエスを大きく誤解していると言うべきだろう。生前のイエスに会ったこともないのに、勝手なイエス像を作り上げ、正統的キリスト教会は、そのパウロ神学を基本に築き上げられている。私は、そのような正統的神学は、問い直されなければならないと考える。
  そのような意味で、私はキリスト教会においては、いわゆる福音派から「社会派」とやや軽蔑的に呼ばれる教会こそ、イエスの精神に最も近い教会であると思 うし、宣教とはキリスト教を広めることではなく、キリストの精神を実行することでなくてはならないと思う。そういう意味では、権力と結びついたキリスト教 会は、常にキリストの精神に反するものであるし、常に最も底辺に下ることでしか、イエスと共にあることはできない。
  自己犠牲は決して目的ではなく、イエスは底辺の者たちと、屈託なく交わり、飲んで食って大いに楽しんでいたのだ。しかし、権力がそれを許さなかった。だからイエスは、世と闘ったのだ。闘うこと自体が、目的なのではない。目的は、楽しく生きることである。決して、手段を目的にしてはいけないのである。

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