「立体農業」と、独立自営農民の神としての聖書の神
 
  3月3日〜4日にかけて日本キリスト教団野幌教会にて開催された第13回農業と食べ物を考える会(北海道農民キリスト者の集い)において、「立体農業」がテーマに取り上げられ、2日目に行われた日本キリスト教団厚別教会牧師の安部一徳氏による「立体農業の聖書的意味」という講義の内容に、私なりの意見を加えてまとめてみたのが以下の文章である。また、この安部牧師の話のベースは、下田洋一氏の「農の神学」という論文とのことである。
 まず「立体農業」というものを簡単に説明すると、賀川豊彦が昭和8年にアメリカのラッセル・スミスの書いた「Tree Crops」という本を「立体農業の研究」と翻訳したことから始まった農法であり、農民福音学校というものによって賀川や弟子の藤崎らによって全国で推進され、現在でも国内に実践者が点在するが、あまり知られてはいない。現代においては、有機農業とか複合経営とかいう言葉に相当する農法と言える。しかし、単に有機農業という場合と違うのは、そこには「神の国」の理想というものがある点であろう。
  マルコ伝に「人はパンのみで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものである。」という有名なイエスの言葉があるが、これはパンより神の言葉の方が重要だと言っているのではない。この言葉は、元々旧約聖書の申命記8章3節に書いてあるものだ。申命記は、神とイスラエル民族との契約について書かれたものである。それは、ヤーウェの神がイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放し、モーセによって約束の土地である乳と蜜の流れるカナンに呼び戻し、パン=食糧を保障したということであり、それに対してイスラエルの民は十戒という神の言葉である律法を守るという契約を交わしたということなのである。つまり、パンそのものが、神から約束された非常に重要なものなのであって、神の言葉と無関係な、価値の低いものなのではないのである。
  そして、聖書におけるヤーウェの神というものは、独立自営農民の神であるということを、旧約聖書の列王記において預言者エリヤは示している。その一つは列王記上21章において、農民ナボトのブドウ園を北王国アハズ王が略奪し、そのためにナボトを殺害する物語である。ここでナボトは、神から与えられた農地を守るために王に背いたが、エリヤは時の権力者であるアハズ王を神に裁かれる者として呪っている。そしてもう一つは、列王記上18章に記された、バアル神の預言者450名とエリヤの戦いである。サマリアを襲った旱魃による飢饉において、エリヤはバアルの預言者たちに勝利し、ヤーウェの神の正当性を証明するのである。バアル神とは、イスラエル民族がエジプトから戻ったとき既にカナンに定住していた人々の神であり、豊穣多産をもたらす自然神であった。そして都市国家を形成していたカナン定住民は肥沃な土地で灌漑農業を行っていた。そこには大土地所有者がいて、農奴を使って兵役につかせたり公共事業に従事させたりしていたが、酒とセックスという快楽を与えることによって、彼らを懐柔していた。そのことに、バアル宗教は利用されていたのである。古代イスラエル民族の多くは、定住民の耕していない高地の荒野を開拓したが、低地に入ろうとすれば水の利権がからみ、バアル宗教と関わらざるを得なかった。それは、日本における天皇制と完全に通じることである。しかし、イスラエル民族の神であり、キリスト教の神でもあるヤーウェは、このような宗教と妥協することは一切許さないのである。
  しかし、イスラエル民族も部族連合から王政となり、さらにローマの傀儡政権となるなどして、本来の「神の国」の姿から遠ざかってしまった。キリスト教は、そのようなユダヤ教の過ちを省み、「神の国」を取り戻すものとして誕生したはずなのだが、ローマ帝国の国教となって以来、常に権力に利用されて来た。改めて独立自営農民の神であったヤーウェの神の原点に、帰る必要があるだろう。  

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