宗教論争その6(掲示板 2007. 4. 24.〜4. 30. + 5. 8.web only)
 
     この論戦は結局、平行線のまま閉じられた。この後、掲示板の内容は、なかむら氏との憲法論議に変わっていくが、最後にこの論戦について数日後に振り返っての感想を述べたものを追加して、一応のまとめとする。世の中には色々な考え方や意見の対立があるわけで、こと宗教となれば激しいものにならざるを得ないのかもしれない。しかし、これがテーラワーダ仏教ではなく、浄土真宗だったらば、結構歩み寄っていたかもしれないとも思う。  いずれにしても、9・11以降、キリスト教のイメージは明らかに悪くなっているし、何をやっても偽善的行為と、とらえられかねない。論戦で勝とうが負けようが、信仰が正しいものかどうかは、実践でしか示す他はない。

唯一絶対の横暴
投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月24日(火)18時35分

 >キリスト教が、すべて排他的なものと考えるのは間違っています。神を認めるかどうかということは、救いの条件ではないのです。

 だれがヤハウェに救ってもらいたいと言ったというのですか? 仏教はだれかに救ってもらう宗教ではありません。仏教は祈らない宗教だと説明したのを忘れましたか? 自分の基準で他の人を推しはからないでください。そういうことをするから、いつまでたっても傲慢だと言われるのです。
  聖書には、復讐は神がおこなうもので、人間がしてはいけないと書いてありますが、現実のキリスト教では、僧侶=聖職者による復讐は神による復讐である、という解釈(つまり、地震や洪水と同じと見なすのです)で、暴力行為がおこなわれていたのです。聖書の言葉など、解釈次第でどうにでも、すき勝手に運用できるのです。
  マッキーさんは、キリスト教徒は異教徒に対して寛容だと言うけれども、現実にはものすごく不寛容です。わたしは、キリスト教国に住んでいたことがあるので、そのことが身にしみてわかります。建て前では平等と言うけれども、唯一絶対というのは、文字どおり唯一絶対で、本音では本当に、他の宗教を頑として認めませんからね。泣きたくなります。
  日本ではキリスト教徒が少ないので、おとなしくしているだけの話で、たとえばアメリカのように多数派を占めると、排他的・暴力的な本性が表れてきます。「911」以降、アメリカ国内のイスラム教徒に対する差別や、アメリカの小中学校でおこなわれている「忠誠の誓い」が政教分離の原則に反すると裁判を起こした人への脅迫など、異教徒や無宗教者に対する憎悪の感情というのは、恐ろしいものです。
  マッキーさんが、いくらキリスト教徒は異教徒に対して寛容だと言っても、わたしは絶対に信用しません。オオカミがヒツジに向かって、「おれさまは、やさしいオオカミなんだよ、絶対におまえさんを食ったりはしないよ」と言っているようなものです。
  キリスト教の「唯一絶対の神」という基本原理が、不寛容を生むことについては、4月23日の「唯一絶対という傲慢」で説明したとおりですので(マッキーさんが、まともに答えられなかったところです!)、繰り返しません。異教徒であるから、原爆も落とせたし、枯葉剤も降らせられたし、劣化ウラン弾も打ち込めたのです。異教徒は人間扱いされないことを忘れてはいけません。
  キリスト教徒にしてみれば、キリスト教世界が全世界を飲み込んで、世界中の人が唯一絶対の神の下に平等にならべば、すべての問題は解決すると思っているのかもしれませんが、わたしには、そのような世界は、悪夢以外の何ものでもありません。
  わたしは、個々人が、地域地域が、国ぐにが、それぞれ固有の宗教・文化・社会体制を保つことができる、多様な世界が存続できることを心から願っています。
  釈尊を源流とするインドの仏教は、一神教のイスラム勢力にほろぼされました。仏教徒は何も悪いことはしていませんでしたし、武力ではむかったのでもありません。それなのに、イスラム勢力は、徹底的に弾圧をして、仏教をほろぼしました。唯一絶対の神を信じる人たちには、それ以外の宗教があることが許せないのです。何せ、唯一絶対ですから。
  キリスト教は、唯一絶対の神を信奉するだけではなくて、一定の地域内から出て、外へ外へと拡張・侵略していく性質があるので、なおさら危険です。
  神の下の平等なんて、理想でも何でもなくて、単に、神を頂点に置いた独裁体制であるにすぎません。
  マッキーさんは、アナーキストを自称されています。そういえば、暴力的なごろつき・チンピラのことをさげすんで「アナーキスト」と呼ぶことがありますね。大きな権威を後ろ盾にして、小さな権威に当り散らしていると、「アナーキスト」と呼ばれることがあるのかもしれませんが、一切の権威に従わない、という正しい意味でのアナーキストをさすのであれば、唯一絶対の権威に従っているマッキーさんは、絶対にアナーキストではありません。フランスのアナーキスト、ポール・ルクリュも、キリスト教徒でアナーキストであることはできないと言っています。
  コミュニストかそのシンパだというのならば、納得できますが。

唯一絶対の傲慢(再投稿)
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月24日(火)19時14分

(※ マッキーさんにお答えいただけなかったので、ミスタイプをなおして、再投稿します。)
  わたしたちは、同じ一つの地球の上で生きているのだ、ということを、忘れないでください。争いはしたくありません。平和に暮らしたいのです。それには、それぞれの国家・民族が、お互いの生き方を尊重して、干渉しないようにしなければなりません。自分にとって気に入らないからと言って、別の国・民族がやっていることをじゃまするのは、よくありません。
  このことは、宗教についても、言えます。どの宗教が優れていて、どの宗教が劣っている、ということはありません。それぞれの宗教が尊重されなくてはいけません。別の宗教を信じている人に強引に改宗を迫ったり、改宗に従わない人を殺したりするのは、間違っています。
  さて、それでは、唯一絶対とは、どういう意味でしょうか。
  唯一というのは、ただ一つ、それ以外にない、という意味です。唯一の神、と言えば、ただ一つの神であって、それ以外に神はない、ということです。現実に他の神があるにもかかわらず、自分が信じる神だけが神だ、と主張するということは、とりもなおさず、他の神を否定することです。
  絶対というのは、比較することができないぐらいに確実なことを意味します。絶対の神と言えば、他の神は比較することもできないぐらいに、無限大対ゼロぐらいに、に確実な神だ、という主張になります。このことは、とりもなおさず、他の神を否定することです。
  自分が信じる神が否定されることがどれほどつらいか、ということが分からない人は、立場を逆転してみるといいと思います。つまり、たとえば、ある女神だけが唯一絶対だと信じる人がとなりにいたら、どんな気持ちになるか、想像してみればいいのだと思います。男の神を唯一絶対だと主張することは、たとえば、アフロディテ(ビーナス)に捧げものをする信者を傷つけることになることに、気づかなくてはなりません。
  ある神を否定する、ということが、どれ程残酷なことか、考えてみてください。その神を信じている人を殺すことがないとしても、自分が信じる神を否定されるということは、自分が殺されるのと同じか、それ以上に苦しいことであることがあります。
  キリスト教は、他の宗教を信じる人に改宗を迫って、従わない人を殺す、ということを、長年にわたってやってきました。また、現代の戦争や、経済侵略では、非キリスト教国の人びとに対して、非常に残酷な仕打ちをしています。そのような宗教を信じている人が、どんなに「唯一絶対」ということは、他の宗教を否定することではない、と主張しても、信用されないのは当然です。信用されないどころか、「唯一絶対」という言葉を使うだけでも、脅迫行為になると考えられます。
  マッキーさんは、神は手段ではない、とおっしゃいました。神は爆弾でも、麻薬でもありません。そうであれば、「唯一絶対」であることが、何か大きなことをする勇気を与えてくれるから必要なのだ、という言い訳は、許されることではありません。強がるのはやめていただきたいと思います。
  人類全体が平等を目指す、という幻想が、キリスト教的なものであることは、すでに述べました。人類全体が平等(イコール)である必要はありません。多様(=不平等)であることが、力強く生きることができていい、という価値観もあるのです。そして、多神教の世界は、実際に多様さの中に生きているのです。もちろん、神を信じない人もいますし、神に興味を持たない人もいます。いろいろなあり方があっていいと、わたしは思います。
  「世界にはいろいろな人がいて、それぞれいろいろな神を信じています。わたしは、ヤハウェという神を信じています」ということでは、なぜいけないのでしょうか。他の神の存在を対等に認められるようになっていただきたいし、それができないのであれば、あなたが恐れられ、きらわれるのは、仕方がないと思います。

何のための論争なのか!
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月24日(火)21時37分

   田中さん、あなた少し冷静になった方がいいですよ。今回のコメント(2つ下の「唯一絶対の横暴」)は、とても仏教徒のものとは思えません。怒ることが悪いと言っておきながら、キリスト教に対して怒りをあらわにしているとしか思えません。あなたはかたくななまでに、唯一絶対の神というものを自分勝手にイメージして作り上げ、それを信じる者は暴力を振るう側で、そのような神を信じない自分は暴力を受けてきた側だという風に、規定している。キリスト教のことを、虐げられた弱者の怨念のこもった宗教だから暴力的なるとか言っておきながら、弱者の怨念のこもった言葉を投げかけているのは、あなたの方ではないですか。あなたのような考え方こそ、横暴と言うべきです。
   「唯一絶対の傲慢」(再投稿)については、私はちゃんとお答えしています。あなたがその答えを理解できなかっただけです。今までまじめに論争に付き合ってきたのが、馬鹿馬鹿しくなってきました。田中さん、冷静になれないようでしたら、もうこれ以上論争するのは無駄ですから、やめましょう。私は言いたいことはもう十分語りました。これ以上あなたに反論するつもりはありません。もう一度よく、私の言っていることを考えてみてください。どうしても理解できないようでしたら、これ以上論争するのは無駄です。

論争は戦争につながるのか?
 投稿者:なかむら  投稿日: 4月25日(水)04時44分

 客観的には、双方の意見にそれぞれの正当性があるように思います。無茶苦茶な議論ではない。しかし、やはり異なる宗教同士が理解しあうのは難しい、いや、無理なのでしょうか?私は再びジョン・レノンの『イマジン』に帰ってみます。
 大切なところにお邪魔しました。失礼しました。ただ、お二人の議論は、私にとっては、本当に勉強になり、考えさせられるいい機会でした。(余談ながら、アルバム『イマジン』にはレノンの極端な二面性、あるいは人間味が現れていて面白いです。ほんとに余談でした。失礼します。)

答えが出たようですね
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月25日(水)06時45分

 わたしは、キリスト教に関しては、すきでも、きらいでもありません。ただ、それが苦しみをもたらすのであれば、それが生起する原因とプロセスを理解することによって、それを滅しようとするだけです。マインドコントロールを解くのと同じことです。わたしは、事実だけしか言ってなくで、それも冷静に言っていることは、読んでもらえばだれにでも分かると思います。最後にマッキーさんのほうが答えられなくなって、拒絶した、というのが結論でしょうかね。唯一絶対を主張することは危険で、迷惑である、ということですね。

堂々巡りの論争はやめて、建設的な話にしましょう。
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月25日(水)08時10分

  私は、唯一絶対の神を信じなければならないと、一言も言ってはいないし、救われたくもない者に対して救ってやろうなんて、傲慢なことを言っているのではありません。唯一絶対の神を信じるということは、自己を相対化し、他者との正しい関係を把握するためのものです。それができないのならば、唯一絶対の神など信じない方がいいに決まっています。

  田中さんは、唯一絶対の神を権威にして、歴史上様々な暴力が行なわれてきたということを、主張しています。私は、そのようなことは、唯一絶対の神を本当に信じていれば、できないことだと主張しました。もうここで、論争が続かなくなりました。堂々巡りをしています。
   なぜ論争が続かないかというと、ここですでに「唯一絶対の神」というものが、「唯一絶対」ではなくなっているからです。暴力を認める「唯一絶対の神」と、暴力を認めない「唯一絶対の神」がいるからです。私は、前者の「唯一絶対の神」はにせものだと断言します。田中さんは、私のこのような論法を、逃げているといつも仰います。しかし、真実の「唯一絶対の神」とは、そのようにして偽物を切り捨てて行ったところにだけ存在する「神」です。私は、聖書から「神」というものは、そのようなものであると理解するに至りました。キリスト教の「神」とは、単に形而上学的な、人間以上の存在というだけではありません。「唯一絶対の存在」でなくてはならないのです。色々な神々の中の一つであるということでは、キリスト教は成り立ちません。「唯一絶対」ということは、多様なものを否定するとか、専制君主のようなものではないのですが、そのことは田中さんには理解してもらえないようです。
   この論争はもうおしまいにして、仏教では何を教えているのかを、教えていただければと思います。私には、まだほとんど仏教が何であるか、分かりませんので。本当の仏教は、宗教ではあるけれど、信仰ではないようですね。哲学みたいなものですか?

先に進むのは、問題が片付いてから
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月25日(水)08時51分

> 私は、唯一絶対の神を信じなければならないと、一言も言ってはいないし、救われたくもない者に対して救ってやろうなんて、傲慢なことを言っているのではありません。

 ありがとうございます。マッキーさんは、えこふぁーむ・にゅーすでも、

>釈迦もイエスも、既存の宗教を批判し、救いに至る真の教えについて説いたということは共通しているのである。

 と言っていますよ。「救う」というのは他動詞で、目的語を必要とするのです。救われる側から言えば、救ってくれるものを必要とする言葉なのです。ブッダに祈ると、彼が救ってくれるのですか? そういう仏教も、探せばあるのかもしれませんが、わたしが理解している仏教は、そういうのではありません。

> 唯一絶対の神を信じるということは、自己を相対化し、他者との正しい関係を把握するためのものです。

 よく分からないので、ていねいに説明してください。 > それができないのならば、唯一絶対の神など信じない方がいいに決まっています。

 当然です。

> 田中さんは、唯一絶対の神を権威にして、歴史上様々な暴力が行なわれてきたということを、主張しています。私は、そのようなことは、唯一絶対の神を本当に信じていれば、できないことだと主張しました。もうここで、論争が続かなくなりました。堂々巡りをしています。

 一つは、現実のキリスト教が暴力的で、マッキーさんご自身がキリスト教徒でありつづけているのに、マッキーさんが現実のキリスト教を擁護するのが、間違っています。別の宗教が同じような暴力行為をしていたら、マッキーさんならば、黙っていないはずです。もう一つは、唯一絶対の神という考え方が暴力を生んでいるというわたしの理論に対して、正当な反論がされていません。この2点をクリアした上で、「唯一絶対の神を本当に信じていれば、暴力行為はおこなえない」ということを、誰もが納得できる論拠を示しながら、主張なさってください。

> なぜ論争が続かないかというと、ここですでに「唯一絶対の神」というものが、「唯一絶対」ではなくなっているからです。暴力を認める「唯一絶対の神」と、暴力を認めない「唯一絶対の神」がいるからです。私は、前者の「唯一絶対の神」はにせものだと断言します。田中さんは、私のこのような論法を、逃げているといつも仰います。しかし、真実の「唯一絶対の神」とは、そのようにして偽物を切り捨てて行ったところにだけ存在する「神」です。私は、聖書から「神」というものは、そのようなものであると理解するに至りました。キリスト教の「神」とは、単に形而上学的な、人間以上の存在というだけではありません。「唯一絶対の存在」でなくてはならないのです。色々な神々の中の一つであるということでは、キリスト教は成り立ちません。「唯一絶対」ということは、多様なものを否定するとか、専制君主のようなものではないのですが、そのことは田中さんには理解してもらえないようです。

 「聖書を読めば分かる」では分からないから聞いているのです。分かりやすく説明するのは、マッキーさんがしなくてはいけないことです。説明抜きで結論だけ言われても、押し付けているとしか思えません。どうぞ、分かりやすく説明してみてください。

> この論争はもうおしまいにして、仏教では何を教えているのかを、教えていただければと思います。

 マッキーさんにも説明できないのですか。それとも、マッキーさんには説明できるけれども、たなかのほうに、それを理解する能力がないというのですか。

 > 私には、まだほとんど仏教が何であるか、分かりませんので。本当の仏教は、宗教ではあるけれど、信仰ではないようですね。哲学みたいなものですか? 

 唯一絶対のことが片付いて、それからまだ、まだ片付いていないテーマもありますから、順を追って整理していきましょう。そのあとで、また聞いてください。

  個人的な意見
 投稿者:ootomo  投稿日: 4月25日(水)10時35分

 怒られるかもしれませんが、ぼくは本当の仏教も本当のキリスト教も地球の本当の姿から見たら一部的なものかもしれないと思います。地球にたとえれば、海と大地というところでしょうか。地球という全体の基本構造の上に海や大地がその個性を持って共に協力し合いながら地球の命を支えている。その海や大地がお互いに神としてみているのは全体としての地球です。もしそう考えられるとしたらどうでしょうか。(無理があるかな…)
 地球が神なら海も大地も神の一部だし神そのものでもあります。
 そうするといろいろな個性を持った神々がいても間違いじゃないかなと思ったりします。
 いずれにしても神の全体の姿を感じることが出来ないなかでは、違いゆえに対立することになりますが。
 ここでひとつ、お互いの神を地球として仮定してみたらどうでしょうか。
 地球は常に調和の中にあってすべてを無償で生かしてくれますから、神の愛の現れと言っても過言ではないと思いますので。
 ちんぷんかんぷんで的外れだったらごめんなさい。

さわやかでいいですね♪
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月25日(水)11時42分

ootommoさん、
ちんぷんかんぷんですけど、軽くて、明るくて、そよ風のようにさわやかで、いい感じです。いろいろな考え方が出てこないと、独りよがりになってしまいますから、どうぞこれからも、感じたことを、どんどん聞かせてください。

神を簡単に説明なんかできない
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月25日(水)20時49分

  私は、教会に小学生高学年の頃から通い始めて、高校卒業までは、ほぼ毎週日曜日に牧師の説教を聴きました。大学に入ってからは、日曜日が丸一日オーケストラの練習だったので、礼拝には余り出席しませんでしたが、教会の寮に住んだので、毎週聖書研究会というものをやっていました。この寮にはクリスチャンでない学生もたくさんいて、ここでの学びは、非常に大きなものでした。また、当時たまたま教会内での民族差別事件というのものがあって、私にとってキリスト教を根本から問い直すような大きな機会も得ました。今は、日々の生活に追われて、日曜礼拝を守ることができず、クリスマスとイースターの他には、年に2、3回しか教会には足を運ばないダメな信者ですが、今でもキリスト教の本は結構読んでいます。恥ずかしながら、聖書は最初から最後までを完全に読んだことがありませんが、キリスト教関係の書物は、数十冊読んでいます。それでも、まだキリスト教の神というものを、簡単に説明はできません。田中さんに、分かりやすく説明しろと言われても、はっきり言って、そんなに分かりやすく説明するのは無理です。何十年もかけて私の中で育ってきた信仰を、たったこの掲示板の4000千字以内で説明するなんて到底できません。もうこの1ヶ月で、10万字をはるかに超えていますが、全然分かってもらえないようですし、100万字使っても、田中さんを納得させることができるかどうかは分かりません。
  でも、ootomoさんのように、一瞬にして神を信じることができる人もいます。(ootomoさん、もしそうでなかったら御免なさい) 私は、自分自身の直感を、一番信じます。直感こそ、神から与えられた賜物であると思います。また、自分の中にある良心こそ、神の声であると思います。自然の偉大さにうたれる時、それを創造した神を感じます。本当に小さな野の花にも、神の愛が注がれていることを感じます。そのような感性が人間には必要なのだと、常に思います。
  一方、歴史の中に神を感じることは、容易ではありませんが、イエスがキリストとされて復活したということに、歴史を動かす神の力を感じることが出来ます。これは、信じなければできないことです。神はいない、神は死んだと思えば、キリストは復活できなかったわけですから。死んだ肉体が蘇るのは不可能なのですから、不可能を可能にするのがキリスト教の信仰というわけです。キリスト教は、愛の宗教であり、希望の宗教なのです。おしつけだ、迷惑だ、という人もいるかもしれませんが、私は別におしつけられたわけではなく、キリスト教が好きなのです。嫌いになったら、去ればいいだけです。神は何一つおしつけては来ません。人間は、神から自由な意志を与えられているのですから、神を裏切ってもいいし、去ってもいいのです。でも、私は神に従って生きたいと思うだけです。
  聖書から学べることは、ごくわずかです。聖書は、ヒントを与えてくれるに過ぎません。実際に、社会の中での人との関わりや、自然との格闘でもある農業の営みの中で、神というものを実感することができます。神というものを想定しなくても、生活はできるかもしれません。でも、神を信じることで、私はとても充実した生を送ることができるようになりました。神を疑うことは、もう私には考えられません。私は、神を信じることはすばらしいことだと言いたいですが、おしつけはしません。嫌いならば信じなければいいだけです。好きでも嫌いでもないのならば、ぜひ好きになってもらいたいと願うだけです。

説明していただけなくて、残念です
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月25日(水)22時23分

> 唯一絶対の神を信じるということは、自己を相対化し、他者との正しい関係を把握するためのものです。

 ここ↑だけでも、説明してほしかったのですが、できない、と言われてしまっては、どうしようもありませんね。
 マッキーさんの理想はどうであれ、現実のキリスト教は、暴力的・侵略的であることは事実ですので、昔から「さわらぬ神にたたりなし」といいますし、わたしとしては、これからもキリスト教には距離を置いて、あまりお近づきにならないようにして、油断しないで用心していたいと思います。
 それでは、3つめの質問に移ります。「神の国」についてです。

(たなか)
 「神の国」が何なのか、抽象的すぎて、分かりません。よく分からないものを実現させようとしている気持ちも、分かりません。また、それを実現させる方法も、分かりません。
 仏教では、苦しみをもたらす諸問題を、一つ一つ解決していく、ということだけを考えます。すべての問題を一気に解決することなど、できないと思います。やれることをこつこつとやっていく、という現実性が、仏教にはあります。
(マッキー)
  最も小さいものが最も尊重されるという「神の国」の原理こそ、「民主主義」の本当の意味です。「多数決」が「民主主義」なのではありません。どんなに少数派であろうとも、多数派に従わなければならないことはないのです。少数派が多数派を従わせることは、当然民主主義ではありませんが、「小さいもの」とは少数なだけではなく、弱い存在ということです。つまり「神の国」とは、すべての人格が等しく尊重される社会ということであり、強いものや多数派が力を持っている現実社会においては、最も弱く少数なものを最も尊重するというパラドックスを語らざるを得ないのです。イエスの言葉は、いつもパラドックスのようなものでした。
  仏教はキリスト教より現実的路線ということはあるでしょう。しかし、シャカの言葉にも、パラドックスがたくさんあると私は思います。それは、不条理な現実を乗り越えて問題を解決して行くためには必要なことです。キリスト教は、一気に問題が解決できると言っているのではありません。価値観を一気に変えろと言っているだけです。それによって、一気に問題を解決する場合もあります。もちろん、解決されない場合もありますし、間違った信仰を持つ危険がないとも言えませんが、危険を恐れてこつこつやることだけが最善の道だとも言えないと思います。キリスト教に向いた人と、仏教に向いた人がいるかもしれません。キリスト教の教えこそが絶対正しいと言うつもりは全くありませんが、少なくとも私には合っていました。

 民主主義といえば、アメリカ。1620年のメイフラワー号あたりから、ヨーロッパから移住してくる人がふえてきます。移住者の特徴として、軍隊と教会が社会の中心的機能として位置づけられていました。彼らは、「神の国」を建設する、という情熱を持って、アメリカにやってきたと、言われています。アメリカの政治家たちが残した言葉を読むと、非常に進歩的なことを言っているので、驚かされることがあります。そして彼らが、進歩的な発言と同時にやっていたことは、先住民を駆逐して、アフリカから奴隷を連れてきて、綿花畑で働かせることでした。
 神の国というと、わたしはアメリカを連想するのですが、あの当時の人々が夢見ていたようなものが神の国だと、考えていいでしょうか。
 うちの近所に、80代後半の女性が住んでいるのですが、よく、「おらぁ、結婚なんかしねぇで、満州へ行きたかっただぁ」と話します。神の国も、アメリカや満州のような、ここではないどこか、夢の国、ユートピア、といったイメージなのでしょうか。
 マッキーさんご自身は、神の国を、どのようなものと想像なさっていますか。具体的なイメージがあれば、教えてください。また、そのような理想を実現するための方法としては、どのようなことを考えていらっしゃるのでしょうか。
 上の、マッキーさんのお答えの、問題解決をこつこつやるか、一気にやるかということは、マッキーさんご自身もおっしゃっているように、多分に性格に由来する向き・不向きということがありましょうから、どちらがどうとは、一概に言えないのかもしれません。わたしとしては、なるべく周囲に迷惑をかけたくないと思うので(そう思っていても、迷惑はかけてしまうのですが)、こつこつ派ですね。ギャンブルはしません。

少しずつ説明します
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月26日(木)00時14分

  唯一絶対の神を信じなくとも、かなりの努力をすれば、自己の相対化や、他者との正しい関係を築くことは可能かもしれません。しかし、自己の絶対化や、他者への支配を肯定するような思想を、否定する根拠がなくなってしまうのでは、と私には思えます。また、絶対的な神がもし存在しないとすれば、世の中を乱さないことだけを、善としなければならなくなりませんか? 神の国という理想に向かって、この世と対決してでもつき進むということは意味がなくなってしまいますから。そして、神に対しての罪という概念がない場合、恥だけが行動の論拠となりがちです。悪事も人にばれなきゃ良しということにもなりかねません。もちろん、神を自己の絶対化に利用する間違いも、人間は犯しやすいのですが、そのことだけを理由に神を遠ざけるのは、非常に残念なことだと私は思います。
  キリスト教が、なぜ暴力的になったかということは、旧約の神が暴力的であるということよりは、新約聖書の成立と、ローマ帝国の国教となったあたりに、鍵があるとは思っています。アウグスティヌスの頃から、この世の権力を肯定し、正義としての戦争を認めるようなキリスト教神学があったことも事実です。現代でも、そのような考え方を許すような神学や宗派がありますから、非常に根深いものです。そういった考え方を産む芽が聖書の中にあることも、否定はできないでしょう。そこを、つきつめなければならないと、私も考えていますが、まだそのような勉強をする余裕がありません。
  イエスの示した神の国というのは、確かに理想社会のイメージです。イギリスのピューリタンが理想を実現しようとアメリカに渡り実際にやったことが、先住民を虐殺駆逐し、アフリカからの奴隷の強制労働によっての開拓であったということは、まぎれもない事実です。日本人も、それを真似して、北海道でアイヌを追い出し、朝鮮人を強制連行して開拓しました。北海道開拓使がアメリカ人を殖民政策のブレーンとして雇い、植民地政策を遂行するために設立した札幌農学校がキリスト教の伝道場所となったことも事実であり、そのような差別的な殖民政策に、キリスト教が全く関係がないと言うことは、もちろんできません。そのことは、十分に問い直すべきことです。
  ピューリタンも、最初は先住民と仲良くやっていたという話もありますが、最終的には、先住民やアフリカ人を人間として見ていないとしか思えない、すさまじい差別と迫害を加えました。しかし、それはイエスの示した最も小さい者に神を認めることとは正反対の行動です。反キリスト的な行動を、キリスト教徒が神の名の下に行ってきたという事実を、どのように理解すればよいのでしょうか。私は、キリスト教が本来的に暴力的だということは、間違っていると思います。そのようなキリスト教を作ってきたのは、常にこの世の権力であって、キリスト教は権力に利用されやすいものに、新約聖書成立の時点でなってしまったことに最大の問題があるのだと思います。新約聖書=キリスト教と考えれば田中さんの言うことも正しいですが、私は新約聖書成立以前にキリスト教は成立し、そこにはもっと純粋な信仰もあったと思うのです。徹底的な反権力思想としてのイエス主義を回復することにより、私は暴力を完全に否定することができると思うし、そのためには新約聖書を徹底的に批判して読まなければならないと思っています。

諸悪の根源は預言者か?
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月26日(木)12時25分

 唯一絶対の神の下にすべての人間が平等にならぶ、しかも、上にいる神が絶対であれば、下にいる人間はゼロに等しい、謙虚になるし、人の上に立ったりしようとしないで、争うことなく、平和に暮らすようになるであろう、という原理は、そのしくみは、わたしにも理解できます。ただ、わたしは、それが人間の社会的なあり方として、理想的だとは全然思えなくて、それどころか、むしろ悪夢のようだ、と言ったのでした。
 それはさておき、本来平等で謙虚であるはずのキリスト教徒が、なぜ暴力的な方向へ走ってしまいがちなのか、ということを、わたしは素人考えで考えるのですが、それは、旧約でも新約でも、預言者を認めているせいではないかと思うのですが、どうでしょうか。つまり、神の代行者を認めてしまっている。一人認めると、次も次もと認めなければつじつまが合わなくなって、気がついたら、小さな預言者だらけになってしまった、というのが真相なのではないでしょうか。
 自分たちがやっていることは、神の意思にかなっているだろうかと、不安になることがあります。そんなときに、地震や、洪水や、病気が発生すると、それは神が下した罰であるとされます。でも、それだけでは、神の意思を実感できない人たちが出てきます。特に、自分は一所懸命に神の意思に従おうと努力していると思っている人にとって、何かいい報いがない、というのが、次第に信仰に対する疑念となってふくらんでくるのではないでしょうか。そこで、分かりやすく神の意思を伝える人として、預言者が要請されたのではないでしょうか。
 そこに書かれている言葉とはうらはらに、現実の暴力を容認させているという意味では、旧約も新約も同罪だと、わたしは考えています。そのような傾向から離れているのは、たぶんイエスだけなのだと思います。最も理想的な神を思い描いていたのは、イエスその人なのだと思います。ですから、イエスの信仰を復元することは、とても意義のある仕事だと思います。極端な言い方に思われるかもしれませんが、わたしは、キリスト教の歴史の中で、擁護する価値があるのは、イエスだけなのではないかとさえ思っています。

> 絶対的な神がもし存在しないとすれば、世の中を乱さないことだけを、善としなければならなくなりませんか? 神の国という理想に向かって、この世と対決してでもつき進むということは意味がなくなってしまいますから。

 仏教的に考えれば、苦しみを滅することが善、ということになります。必ずしも、この世と対決する必要はありません。前にも言いましたが、「自由」とか「平等」というのは、単なる人集めのための旗印にすぎなくて、どうやっても、「人類の究極の目標」などというものにすることはできない、実現不可能な観念なのです。どういう状態になったら、自由で平等なのでしょう。
 日常生活で、自由や平等がこのましい方法とされるのは、言うまでもないことです。そうではなくて、それを、全人類の究極の目標に掲げる、というのがおかしい、と言っているのです。自由や平等を文字どおりに全人類に対して実現しようとしたら、強力な権力を必要とすることになります。しかしそのような強力な権力によって与えられる自由や平等というのは、もはや、本来の意味での自由でも平等でもなくなってしまうという……自縄自縛、ジレンマですね。
 テーラワーダ仏教は、タイでは、王室と共存しています。ミャンマーでは、軍事政権と共存しています。このようなありかたは、仏教が、不平等と戦おうとはしないから可能なのです。王にも、将軍にも、大商人にも、悩み苦しみはあって、釈尊の知恵を借りて、苦を滅しようとします。もちろん、貧者、病者、犯罪人たちも、同じように、釈尊の知恵を借りて、苦を滅しようとします。
 一度にすべての苦を滅することなどできません。そうやって少しずつ、一つ一つ問題を解決していこうよ、というのが、仏教が保っているスタンスです。気長で、ゆったりとしていている、けれども、相当にしぶとい宗教なのです。

・・・ 投稿者:ootomo
 投稿日: 4月26日(木)15時56分

 いちおうほめられれば舞い上がるやつでして、登場してしまいます。
 お釈迦様は40年くらい?イエス様は7年くらい?でしたっけ?
 いずれにしても短い間にすべてを説く事は難しいですよね。
 仮にお釈迦様の説けなかったものをイエス様が説いたとしたら、イエス様とお釈迦様が合体?すればかなりすごいものになると思います。個人的には御二人とも同じところから出てきていると思っています…。
 キリスト教も仏教も原点はイエス様、お釈迦様だとしたら兄弟同志かな?なんて…
 ○○教というとどうも違った方へ行きそうで、どうしてもイエス様お釈迦様と言ってしまうこのごろです。
 イエス様はこういう人でこういう生き方をした人だった。お釈迦様は・・・。だから私もこれからこう生きたいと言ってくれたら分かりやすいかなと思いました。
 またちんぷんかんぷんな話でした。

釈尊とイエスと、どこが似ていると思いますか
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月26日(木)19時44分

ootomoさん、
 とてもいい着眼点だと思います。
 わたしは、イエスは、初期仏教の影響を受けていると思います。また逆に、大乗仏教は、キリスト教の影響を受けていると思います。すでにマッキーさんが指摘されているように、イエスと親鸞の思想は、非常によく似ています。
 ootomoさんは、釈尊とイエスの生き方の、どのへんが似ていると思われますか。

暴力と契約と平等 投稿者:Yabukogisky
 投稿日: 4月26日(木)22時47分

 どうもおじゃまします。縁起説はどこへ行ったんでしょう?
 暴力が避けられないものとして浮上するのは、自由を巡って殴り合うからなんですが、宗教等の教義ですとか権威主義ですとか一神教というのは登場人物として位置付けることができるかもしれません。かつて人々は、傷つけ合うも殴り合うも殺し合うも慰め合うも、人が存在するかぎり避けては通れないという現実の前で、ある時は敢然と立ち上がり、ある時は身を晒すという態度を受け入れていたはずです。人が二人存在するだけで各々の自由を干渉し合うという現実。だからこそルソーは社会契約論において自然権という仮想の自由を定義し、そこから各々の自由を折半し尊重し合うという「約束事」を読み解いてみせたんですが、実は仮想ですから約束事を守らなければならないという根拠はないんですね。いつだって自由は侵され得るものとして横たわっています。個人対個人、集団対集団、国家対国家、個人対集団、個人対国家、集団対国家、常に自由は緊張の狭間で揺れ動き、各々の自由はそれぞれに干渉し合い、人類の歴史はその干渉のバランスを採るために右往左往四苦八苦してきた歴史でもあります。それが負の遺産だとしても、負の遺産があるからこそ暴力をコントロールしようと血を血であがない汚れた手で合議するシステムを考え出したとも言えます。苦肉の策。それが政治システムにおける民主制度であります。
 なので、そもそも屍の上に社会を築いたんです。まがりなりにも民主制の中で生きる人々にとって暴力の肯定と否定は屍を埒外に置くことでしかないんですね。妥協の産物なんです。暴力の肯定でも否定でもなく背負うんです。よっこらっしょ、て。後はどうやって暴力を手なずけて契約を履行して行くかの問題。それがなけりゃ不特定多数による社会は成立しません。
 そして平等の概念というものは「糧を分け合う」ことでして、それ以上でもそれ以下でもないんですね。糧をやりとりすることは生命のやりとりであって原罪という意味づけは避けます。だって「事実」ですもの(笑)。現実主義という立場はその解消することのできないストレスから逃れるのではなくて、それを抱えながら肯定でもなく否定でもなく背負い続ける険しく厳しい道なのです。それが己を罪の埒外に置かないという苦しい立場。
 よって、罪をキリスト教徒になすりつけるのは大きな勘違いかと存じます。こつこつと現実性というものを重要視するということは、現実主義同様に将来の形と現在とを比較して現実の暴力を見逃すという大きな大きな落とし穴が開いていることにも留意して頂けると幸いです。

非キリスト教的な社会観
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月26日(木)23時12分

Yabukogiskyさん、そろそろいらっしゃるころではないかと、うわさしていたところなんですよ。
 殺し合いの文化の中から過去の歴史を想像すると、あるいは、解釈すると、一種のあきらめの社会観が形成されるのでしょうけれども、クロポトキンの『相互扶助論』を読むと、生き物たちは、必ずしもそのような悲観的な存在ではないということが分かるのではないでしょうか。妥協ではなくて、みずから協力・助け合いの精神で社会を形成していくことが可能だという、希望の社会観が生まれるのではないでしょうか。
 縁起説はどこに行ったか、とのことですが、苦しみが生起する原因とプロセスを理解することによって、その苦しみを滅する、というのが、仏教の方法論です。こうやって、暴力が生起する原因とプロセスを探究することが、そのまま仏教の実践なのだと、わたしは思います。外れていないと思いますけど。

神は現場に宿る
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月27日(金)00時58分

 Yabukogiskyさんは、いつも助け舟を出して下さる、ありがたいお方です(笑)
  完全な自由とか、完全な平等とかいうことが、あり得ないことは、私にだって分かっています。あり得ないからこそ、理想として追い求めているのですけれどね。まあ、こんなこと言葉でいくら言ったって、意味はありません。意味があるのは、実践だけですから。
  神は、聖書の中にいるわけじゃないのです。現場にいるのですね。「解放の神学」を実践する牧師は、日本にもいます。「神」を語るのではなく、実践する牧師たちです。日本キリスト教団には、そういう牧師が結構います。(全体からみると、かなり少数派ですが・・・)。彼らは、積極的に信者を作ろうとはしません。立派な教会堂を建てようなどとも考えません。人前で祈るということも、ほとんどしない牧師たちです。彼らは、いと小さき者と共に歩み、分かち合いを実践することこそ、「神」を言葉で語るよりもはるかに大事だということを知っているのです。だから、教会の中よりも、教会の外で活動します。普通の牧師からは、非難されたりもしますが、私はそういう牧師たちこそ本物だと思います。
  ブッダもイエスも、そういう本物の師であったのでしょう。だからこそ、尊敬されたのですが、彼ら自身を信仰の対象とすることは、大きな間違いだと私は思います。そこのところは、田中さんと全く意見が一緒です。
  預言者というものは、結局は一神教におけるシャーマンというわけです。一神教では、異教の神々の言葉を語るものをシャーマンといって区別し、差別するのですけれど、どこが違うかということですよね。聖書における預言者の役割というのは、時の権力に対して物申す立場なわけです。そのことは、はっきりしています。自然災害を、神の下した天罰だなどと宣言するために存在しているわけではありません。預言者を認めるから、暴力的になるという考え方は、あまり説得力のある話とは思えません。聖書における預言者の役割を考えた時には、イエスも預言者の一人と考えてよいでしょうし、イスラム教では、イエスを全くそのような存在と捉えています。その点だけ言えば、私はイエスを子なる神であり救い主であるとして崇拝するキリスト教よりも、イスラム教の方が完全に正しいと思います。
  もう、ここまで断言すると、私のことを、キリスト教徒ではないと思う人が多いかもしれませんが、私はあくまでもキリスト教にこだわります。キリスト教の起源ということを考えた時に、イエスの生き様と、その結果としての十字架刑の死ということがあります。そしてまた、イエスの復活を信じた弟子たちが、イエスと同様な十字架の迫害を受けることを恐れずに宣教して行ったという事実です。このドラマチックな現実から生まれた宗教というものこそ、「神学」以上のものであり、私にとって信ずるに値するものです。「聖書」は、現実の歴史の後に、それを解説するために書かれた「神学」の姿に過ぎません。しかも、かなり事実をねじまげ、多くの捏造を加えた神学的書物です。それを「神の言葉」そのものとして読むことは、私にはできません。私が信ずるのは、イエスの生き様が、人々の心に革命を起こしたという事実だけです。

非宗教的な社会観
 投稿者:Yabukogisky  投稿日: 4月27日(金)06時38分

 仏教徒でもない私が指摘するのも何々ですが、
 殺し合いの文化というよりも自由と自由のぶつかり合いですね。権益調整に幾度も失敗を繰り返して来たはずなので悲観的というよりも欲望です。その欲望を合議によって合意に持ち込むというのが古代ギリシャで発達した直接民主制の初期形態。ポリスとポリスとの自由のぶつかり合い。貴族と市民と奴隷との自由のせめぎ合い。皆自由を求めて大きくなった。
 キリスト教の本質がどうなのかは存じませんが、原初社会におけるアニミズムの形態は期待はずれへの手当てというのが一般的な解釈ですが、どちらかと言えば癒しという方向なんだろうと思います。預言者というのも期待はずれを緩和させるために機能していますし。一応期待はずれということを説明しておきますと、不慮の出来事への葛藤と一般化することができます。つまりご存じの通り、事故という不測の事態や死、そして説明のつかない自然災害の被害等に対峙したときに抱えるストレスのことを言います。現代においては、現実そのものに不幸観を抱かないかぎり宗教の意義というのはなかなか登壇の機会を持たないんだろうと思いますが、まんま西欧社会や日本の社会にかぶってます。宗教的規範は文化になって昇華しちゃった(笑)。
 例えば忌々しい米国はキリスト教国家という側面もあるかもしれませんが民主主義国家の典型例でもありますよね。現在戦争をしております。近代憲法の成り立ちを考えていただければ自明ですが民主主義の根拠は自由です。前述した通り暴力は自由とともにあります。左手で握手しながら右手で殴り合う。それが自由のやっかいなところ。ですからキリスト教の果たす役割は副次的なものに過ぎません。争えるのも宗教コミュニティが共同体を支えているから。その宗教コミュニティは、或いは民族主義によって取って代わることもできます。宗教共同体と宗教共同体との自由のせめぎ合い。共同体内で積み重ねて来た事実性を共有する人々。そこには確固たる帰属意識と自分達の歩んで来た営みへの自負が見え隠れしているはずです。それ故に自由は自由を巡って合意のなされていない自由とはぶつかりあうのだと思います。
 で、日本を見て頂ければ分かるとおり、仏教徒も殺し合いをしてきているわけです。私もその背景にあるものの影響を受けているのでしょうから現実的なものの見方をしてしまうのだろうと思います。つい将来の姿を思い描くあまり現実の暴力を見落とすことがあります。へたすると肯定すらしていることになりかねないという罠が潜む。ですからキリスト教徒の野蛮?を責めるほどの自信は持っておりません。それに過去の野蛮を切り捨てることは過去の人々を切り捨てることになってしまうので配慮したいという気持ちもあります。日本の仏教徒の良いところは己を埒外に置かないことだと思うのですが、違いますかね。
 たなか説に基づくなら縁起説は己を埒外に置くことを想定すらしないと考えられますが 暴力の生起する原因とプロセスを探求するなら宗教ではなく人間或いは己を見つめるべきではないでしょうか。
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 まあ、自由と平等という概念を全人類が共有しなければならないという根拠はないです。根拠も何もないから自由と平等という概念を創ったとも言えるかな。そういう意味では二千年も前にブッダやらイエスのような考え方をする人が現れるというのも凄いことだなあと思います。

(無題)
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月27日(金)08時05分

マッキーさん
 なるほど。神は語るものではなくて、実践するものなのですね。
 ただし、「ドラマチックな現実から生まれた宗教」というのは、わたしには、いただけません。そのようなドラマチックこそ、パウロたちによって演出され、利用された部分なのだと思います。わたしが共感するイエスは、弟子たちを前にして、静かに思索を語るイエスです。そういう姿にこそ、わたしは釈尊に重なるイメージを見ます。
 教祖を神格化するのは、どの宗教にもよくある現象で、もともとは善意によるものなのだとは思うのですが、中には完全に教祖を利用しているだけとしか思えないものまでありますから、疑ってかかったほうが無難です。
 人間である釈尊が、光線を放ったとか、空中を飛んだとか、そういう話が出てきたら、作り話だと思っていいと思います。文学として受け取る分には、面白いとは思いますが、文字どおりに事実として信じるのは、やめたほうがいいと思います。
 預言者の話を持ち出したのは、神の代行者として暴力を行使する人たちは、自身を小さな預言者のように考えているのではないかと、ふと思いついただけで、違うのであれば、他に原因があるのでしょう。カルトの中には、ハルマゲドンが起こるのを待っていられなくて、自分たちで起こしてしまうのがありますでしょう? ロシア製のヘリコプターまで用意したりして。ああいう感覚に近いのかなと思ったのです。神が復讐をするのを、小さな預言者(自称)が代行する、という感覚です。聖書をよく知らない素人の軽い思いつきで言ってみただけなので、気にしないでください。ごめんなさい。
 キリスト教よりもイスラム教のほうが合理的で、地域にも根ざしていて、強い(安定している)、と言えると思います。キリスト教は、一所懸命に改革を重ねるのですが、ピュアになりきれない性格があるのではないでしょうか。もともとヨーロッパで発生した宗教ではないですし。また、弱さ(不安定さ)を自覚する分、過激にもなりやすいのではないかと思います。
 聖書が神の言葉そのものではない、ということは、同感です。神やイエスを利用するために捏造された言葉が多いのでしょう。でも、その中にも、隠しきれなかった事実が含まれていて、そこが貴重なのですが、そういう宝物を見つけ出すのがひどく困難だ、という事情なのだと思います。

Yabukogiskyさん、
 釈尊の平等主義は、差別する根拠がない、という批判に基づくもので、いわば、消極的な平等主義、結果としての平等主義、と言っていいと思います。人類の理想としての平等という観念をかかげて主張するものではありません。
 以前にも指摘させていただきましたが、苦に関して、Yabukogiskyさんは、「期待はずれ」に限定して解釈するので、現代的意義を見失ってしまうのではないでしょうか。たとえば、妻子があるのに、職場の同僚の女性と関係をもってしまった苦しみなどは、宗教を文化に昇華しても解消されないと思われます。あるいは、トラブルの解決の際に、一度だけのつもりで柄の悪い人をお金を出して利用したら、その後もずっとつきまとわれて難儀するとか。
 わたしが仏教を実践するのは、わたし自身が苦しいからです。キリスト教の暴力性、侵略性を、それが生起する原因とプロセスを理解することによって滅しようとしているのも、わたしにとってキリスト教が苦だからです。苦はいろいろありますが、さしあたって最も強く感じられる苦や、滅しやすい苦などから滅しようとするのは、優先順序としては当然と思われます。万人が従うべき宗教的実践の順序のようなものがあるとは、わたしは思いません。
 今日、日本が戦争をはじめる可能性が、少しずつ出てきているように、わたしには感じますし、グローバリズムに飲み込まれて、日本の農業がつぶされようとしているのを感じます。わたしが住む深川市やその周辺に暮らす人びとも、苦しんでいるのを見聞きしています。そのような苦が生起する原因とプロセスを考えるときに、戦争やグローバリズムを支えている(とわたしには思われる)キリスト教の性格を無視することはできないと思っています。
 自由については、Yabukogiskyさんご自身が、「まあ、自由と平等という概念を全人類が共有しなければならないという根拠はないです」という懐疑論的なオチをつけていらっしゃいますので、どうしたものかと思いますが、一つ言えるのは、ポリスとポリスは統合拡大されなければならない、という「必然」は必然ではない、ということです。小さな地域で、独自性を保ったまま、いわば「鎖国」をして、相互扶助的な社会を維持する可能性もあるのではないかと、わたしは思います。強い国には飲み込まれてしまうものだ、という歴史観は、一面的にすぎると思います。

わたし、矛盾してますね・・・
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月27日(金)12時11分

マッキーさん、
 自分の文を読み返して、気がついたのですが、「神は語るものではなくて、実践するものなのですね」と言っておきながら、そのすぐあとに「静かに思索を語るイエスです」を持ち上げるのは、矛盾してますね。
 単なる説明ではなくて、神の実践としての静かな思索と語り、といった感じのことを言いたかったのですが、同じ「語る」という語を使ったので、わけが分からなくなってしまいました。
 要するに、「ドラマチック」しているときには、神から遠ざかっているのではないか、と思うのです。パウロたちは、そういう「ドラマチック」なイエスのイメージが、人をひきつけて、利用しやすいので、聖書の中の描写を、その方向に演出したというか、捏造していったのではないかと思うのですが、マッキーさんは、まったく逆にお考えのようですね。
 たとえば、近くに困っている人がいれば、当たり前に助ける。やるべきことを静かにやっていくだけなのです。そういう静かな当たり前のなかに、神が表現される、といった感じなんですけど、表現するのがむずかしいですね。

難事
 投稿者:Yabukogisky  投稿日: 4月27日(金)22時37分

どうもおじゃまします。たなかさんの深い悩みに応えることはできない予感がします(笑)。
 経済のグローバル化がキリスト教と関係しているというよりも、リベラリストであるからこそ国の外に向かいます。例えば米国。フリーダムですから。ブッシュも保守党ですがやっぱフリーダムな人なんですよ。キリスト教原理主義者の仕業ではありません。いくら強固なロビー活動をしようが、米国は恐いくらいに民主制原理主義国家ですから。合衆国憲法「Amendment II - 人民の武装権」

>規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。

 自由の恐さの正体はこれなんじゃないですかね。確かに宗教が共同体への帰属性を補完している場合もありますが、それは強固な民族主義によっても支えることができますし、まして地域コミュニティを換え難きものとするムラ社会によって支えることも可能です。日本では空洞化して久しいと言われておりますよね。それをどうやって再生しようかという問いに明確な答えを持った首長はおりません。皆手探りで試行錯誤している状況です。いえ、戦争しろと言っているわけではありませんので。
 それと懐疑論的なオチに関しては、それは自由の根拠が人間の利己性くらいにしか求められないというジレンマからきています。でも人間というか遺伝子の利己性は種の保存というものに後に意味を持たせたものですので、そこは留保せざるを得ないんです。実際のところ人間がそもそも利己的な存在なのかどうかは神のみぞ知るってことになりましょうか。ですから自由のせめぎ合いをしてきた人類の歴史という事実性を選択するしか前に進む道はないのだろうと思います。歴史的事実性は取り替える事ができませんから。
 となれば、じ、実は、牧野さんの仰る

>また、絶対的な神がもし存在しないとすれば、世の中を乱さないことだけを、善としなければならなくなりませんか?
>そして、神に対しての罪という概念がない場合、恥だけが行動の論拠となりがちです。悪事も人にばれなきゃ良しということにもなりかねません。

 というご指摘が喉元に突き出された剣だったりします。まさに現在、日本の社会が抱えている大問題でして、ここをどうにかしようというお話しが教育再生会議でも論じられていますよね。規範意識の醸成に道徳教育を導入することになりました。以前は仏教的素養や儒教的な涵養、また明治期にでっち上げた天皇の聖性への畏怖、そしてムラ社会が法律の外をカバーしていましたが、それが崩れて久しいと言われています。公教育の場で補完すべきなのか、はたまた家庭教育の範疇なのか、地域社会の範疇なのか、宗教の範疇なのか、それとも何か別のものなのか。私には答えを見つける事ができません。
 兎にも角にもキリスト教の思想に戦争を生起する何らかの原因があるという考えより、やはりどうやら人間に何かがあるとお考えになられた方がよいのではないでしょうか。

(無題)
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月28日(土)06時28分

Yabukogiskyさん、
 多くの人々を苦しませている戦争やグローバリズムの原因が、キリスト教か自由か、という話ですが、自分と違う価値観、世界観を持って生きている人がいる、ということを認められない、というのは、唯一絶対の権威に従っている人の特徴で、わたしとしては、戦争を仕掛けてくる人たちや、グローバリズムをやっている人たちに、あなたたちの価値観、世界観だけしか、世界にはないのではありませんよ、ということを分かってもらいたいのです。それは、傲慢で横暴な態度なのですよ、と。本人たちは、全然気づいていませんから。
 それはもちろん、他の宗教を信じる人たちも、戦争や経済侵略をすることはあるかもしれませんが、唯一絶対の神を信じる人たちの残虐さは、桁違いなのですから。特に、キリスト教はひどいのです。だから、ずっと、その原因について考えているのではありませんか。自由・平等・民主主義といった概念も、キリスト教由来のものだということは、すでに指摘しました。枝葉ではなくて、幹が何なのかを見ていただきたいです。
 日本人が、この先、どのような価値観、世界観を持って生きていったらいいのか、という問題は、わたしには分かりません。韓国やフィリッピンのように、キリスト教に飲み込まれてしまえばいいとは、思いません。天皇教も、もうマジカルな力を持っていません。わたし個人は、テーラワーダ仏教があるので、それで十分ですが。

憲法第9条とイザヤ書
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月28日(土)07時50分

  絶対平和主義に基づく憲法第9条は、アメリカが日本の再武装を恐れて押し付けたものだという考え方があります。確かに、合衆国憲法とは全く矛盾しています。アメリカ人は、日本に自由な国家になってもらっては困ると考えて、このような憲法を作ったと言うことも、できるかもしれません。
  しかし、憲法前文を読む時、私はそのようなものではないと確信します。日本人が、このような憲法を受け入れ、この憲法に希望を託したのは事実であるし、占領下だったから仕方なく受け入れたということではなく、日本人自身の中に、元々このような憲法を受け入れる民主的な考え方があったと思います。もっとも、最初に日本人自身の提案した新憲法草案は、とても民主的なものとは言えず、マッカーサーに却下されたわけですが、日本人といっても政府の中枢ではなく、在野の思想には平和と民主主義を求めるものがあったということで、すべてがアメリカから与えられたというわけではありません。
  Yabukogiskyさんも、たなかさんも、民主主義とか民主制という言葉を否定的な意味で使っていますが、アナキストを自称する私ですが、絶対制というものを否定する手段としての民主制というものは、認めるべきではないかと思っています。私の考えでは、日本国憲法の根幹的な思想である非暴力平和主義と民主主義(国民主権)というものには、キリスト教的な理想論とアナキズム的な思想が作用していたのではないかと思います。憲法1条から8条までの天皇条項は、全くそのようなものではなく、アメリカによる妥協の産物であることが明らかですが、前文と第9条は、その意図がどうあれ、世界のどこの国の憲法にもないほど、非常に高い理想を掲げていることは間違いないからです。しかし、改憲勢力というものは、この根幹部分の理想を否定しようとしているのですから、私は憲法改正に反対するのです。
  日本国憲法と同じような絶対平和主義の思想を、旧約聖書にも発見することができます。旧約聖書の中でも最も大事な預言書であるイザヤ書(一人の人が書いたものではない)に、有名な一節があります。「彼らは剣を鋤に、槍を鎌に打ちかえる。国は国に敵対して剣をあげず、戦いを学ぶことはもはやない。」という預言です。少なくとも、ここで預言者イザヤは、戦争の空しさを説き、権力者の横暴を糾弾し、非武装平和の世界を理想としています。
  ユダヤ教やキリスト教を正しく理解すれば、イスラエルやアメリカ合衆国がやっているような横暴は、決して許されるものではないはずです。戦争や暴力を、宗教のせいにしてしまうことは、非常に危険な考え方です。今こそ宗教者は、預言者的な言葉で、権力に立ち向かうべきであると私は思います。
  たなかさんは、ドラマチックが嫌いみたいですが、確かに感情に訴えることには危険性もあります。ハリウッド映画や、昔の西部劇みたいに、インディアンのような他者を悪者にしたて上げ、勧善懲悪的なドラマを作り、一元的な価値観をおしつける、ということは大きな問題でしょう。私は、イエスの十字架と復活劇を、そのような世界を覆いつくすようなキリスト教価値観を押し付けるような歴史的事件として、ドラマチックだと言っているのではありません。それは、ペテロやパウロが勝手に作り上げた世界観です。そうではなく、イエス自身の身の回りで起こっている現場の世界を変えたということを、ドラマチックと言っているだけです。
  一元的な価値観を否定するためには、多様な価値、小さなものの価値を教えていく地道な教育というものが、必要になるだろうと思います。私は、キリスト教の根幹は、そのような小さなものを認めるということであると思いますから、世界に向かってキリスト教を広めるということが、それに対して矛盾を起こすようなことがあるのであれば、それはもう本当のキリスト教ではなく、神に反する罪の行為として糾弾すべきものでしょう。

  んにゃ、それは無理があると思いますwarau
 投稿者:Yabukogisky  投稿日: 4月28日(土)15時05分

 日本国憲法は帝国憲法の欽定憲法です。敗戦当時在野の市民に憲法意思があったという事実はありません。敗戦したのでそれどころではなかったはずです。憲法意思があれば「国家を乗りこなそうとする」意思は法の更新を求めます。憲法の更新が60年間なかったという事実性は憲法意思のなかったことの証左です。それがために現首相である安倍さんは「内閣で」というまさに憲法意思のなかったことを体現する象徴になっております。議会制民主主義の下で内閣が憲法改正の発議をしようだなんて悪い冗談だからです。
 象徴天皇は帝国憲法と近代憲法との妥協の産物です。立憲君主制と民主制との談合。
 国民の方が賢いんですよ。世論調査を読み解くなら、安倍さんや九条の会的なものと一緒にされたくないという意思が、九条への消極的賛成にならざるを得ないという、まさに大人の態度として現れているのではないでしょうか。量子力学の何足るかを学んだ人間が原発に消極的な反対をするのと一緒です。でも単純に原発反対という方々とは相容れない。

うげっ
 投稿者:Yabukogisky  投稿日: 4月28日(土)15時40分

すんません。書きかけのままリターンキーを押してしまいました。続きです(笑)
 ですから九条が問題なのではないと思います。自由の問題。たなかさんには共同体への外からの価値観の押しつけに対して外の善意に期待するという良心があります。また牧野さは反対するという良心があります。しかし、外の自由と内の自由はぶつかり摩擦を起こします。その摩擦を善意に委ねるべきなのか、それとも戦うべきなのかという選択の問題なんだろうと思います。
 何を書こうとしていたのか分からなくなったのでこのへんで止めます。絶対平和と九条と自衛隊をどうやって両立させるのかが意味分からないかも(笑)。

この対話、降ります。
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月28日(土)19時31分

 マッキーさんの「憲法第9条とイザヤ書」を読んだら、ばかばかしくなってきました。ぜ〜んぜんわたしが言ってきたことが理解されていないじゃないですか。マッキーさんて、こんなに分かってない人とは思っていませんでした。天然なのか、策略なのか、知りませんが、もう、わたしは続けられませんね。マッキーさんの宗教観・政治観の底が見えた感じです。

sosite
 投稿者:Yabukogisky  投稿日: 4月28日(土)22時13分

 凄いですね。人のこと天然と呼べるその天然っぷりが(大笑い)、

無理な話ではない
 投稿者:マッキー(管理人)  投稿日: 4月28日(土)22時59分

  大日本帝国憲法化においても、自由民権運動があり、大正デモクラシーがあり、在野における民主的な闘いは数多くあった。明治のキリスト者であった内村鑑三は、天皇不敬事件を起こし、日露戦争に際して絶対非戦論を唱えている。
  GHQは、日本中枢の出した憲法案があまりにお粗末なので、在野の憲法研究者であった鈴木安蔵らの「憲法研究会」が提出した「憲法草案要綱」を基にして、「日本国憲法」を作ったのである。国民主権の発想は、そこから出たもので、アメリカの発案ではなかった。「日本国憲法」は、アメリカが独自で作った押し付け憲法なのではない。
  私の宗教観や政治的立場は、はっきりとしている。純然たるサヨク、ラジカリズムである。理想主義と言ってもいい。もちろん、現実との妥協を否定しているのではない。現実を見ることは、とても大事だし、まずそれを認めることが出発点でもある。しかし、理想を否定する人間には、我慢がならない。
  認めたくないような現実に生きている人間がこの世に一人でもいる限り、理想は追求しなければならない。それが、私の考えだ。その一人のために、私はこの世と闘わなくてはならない。私は、イエスの教えをそのように理解している。それが、神を愛することであるからだ。そして、この世と闘うということを、暴力と考えないで欲しい。現実の世界が暴力的であるから、そのような暴力に対して、非暴力で抵抗しようということである。
  たなか氏やYabukogisky氏は、自分の自由が侵されるのだけを拒んでいるようにも思える。しかし、私は自由を侵される者が存在する社会そのものに、拒否感を持つ。そのような世界に生きていることに、納得できないのだ。自由を侵し合うことを、完全に避けることはできないかもしれない。しかし、強制力などを使わずとも、自主的に分かち合うことにより、もっと自由で平等な社会が実現できると私は信じる。言葉をもて遊ぶ時間があったら、何か一つでも実践した方が、よほどためになる。
  私は、自分自身が他人の自由を侵しているかもしれないとしたら、それを何とかなくしたいと思った。そのために、自給ということを考えたと言ってもよい。自由を侵されないためでもあるが、侵さないためでもある。もとより、完全な自給などできないのは分かっているが、だからと言って自給など意味がないと言う人間には、一番頭にくる。
  田中さんは、自給について、私と似たような考え方をしていると思ったし、理解し合えると思ったが、そうではなかったようだ。残念だが、仕方がない。私としては、今日まで論争に長時間を費やしたことは無駄ではなかったと思っているので、田中さんには感謝している。考え方は、余り歩みよることのできないものだったが、私は田中さんのようなひねくれ者が嫌いではないので、よかったら、いつでも遊びに来てください。

うーん(汗)
 投稿者:Yabukogisky  投稿日: 4月29日(日)00時32分

 再びリターンキーを叩いてしまったわけですが、お許しください。しばらく気がつきませんでした。

たなかさん
 他者の宗教観や政治観の底が見えた感じって、ウ゛ィトゲンシュタインも真っ青だと思いますよ。「人間は己という枠を越えることはできない」という前提に立つのが縁起説なんじゃないですか? 言葉ってさあ意思の疎通をする為に発展してきたも同然で、それでも人は分かり合えないものなかもしれませんよ。
 だいたい人間の認知って正確に認識しているのかどうかさえ怪しいわけで、それを他者に正格に伝えられるかどうかさえ怪しいわけで、ましてそれを正しく解釈するは難しい。
 とまあ、自分の計算機環境じゃないんで日本語を入力するのも大変です。

牧野さん
 敗戦直後に憲法意思を示せたのは一部のエリートだけだったのでは? 戦争によって自由民権運動は途切れていますよね。日本の民主制は敗戦によって自由を勝ち取る契機を失っています。その契機を逸したが故に憲法を回して統治権力をコントロールするという態度に疎くなっているとは思いませんか?
 日本がこさえた憲法であることは確かにそうだと思います。でも憲法意思に疎い状況下で民主的な憲法意思というのはなかなか見いだすのは難しいのではないでしょうか。もしも民主制ということに重きを置くのなら憲法を更新してこなかったのは何を隠そう自分を含め日本人の怠慢なんだろうと思います。
 そして、釈迦に説法という気もしないでもないんですが、近代憲法は統治権力から国民の自由を担保させるためにあるわけですから、統治権力をコントロールをしようとしなければ自由は遠くなるのではないでしょうか?
 私自身は自由を侵されることを拒んでいるわけではありません。私にとって自由が都合の悪いものとなるのなら「やんのか、ボケッ!」と戦うだけです。ただし、私の幸せが皆の幸せと重なるとは限りませんし、まして皆の幸せが私の幸せと重なるとは限りません。そこが難しいと言いますか、苦しいところです。だから妥協することもあります。
 しかし、牧野さんお強いですね。ただ、少なくともサヨクとも違うような気もしますが。自給のこと誰かに否定されたんですか? おそらく食物を自給できるのならそれは「自立」の本来の姿なんだと思いますけど。しかし、今日になってやっとこの掲示板のログ全てに目を通したんですが、とても時間がかかりました。理解できていないことが多々あったりします。

話題が神から平和へ、とはやはりマッキーさんらしいです。「学校創る!」なんてことをいいだす人はやはり「天然」なのかな? マッキーさんは吉田松陰に似てますよ。小原國芳も、瀬棚のあの方も、仁木のあの方も、やはり「天然」です。でも世の中を変えていくのは、マッキーさ
 投稿者:なかむら  投稿日: 4月29日(日)07時06分

んのような人です。そのためにも農民芸術学校は必要です。 ところで、私は平和憲法の理念はそのままに、九条を改定し、自衛隊を正規軍としてシビリアンコントロール(文民による軍隊の統制)を明確にすべきだと考えています。自衛隊を「私生児」のまま放置したから、文民の代表たる首相がすすんで海外派兵するような国になったのではないでしょうか?軍隊をもち、軍人の社会的役割を明確にして、永世中立ならぬ永世平和をめざすのです。いまの日本は歌詠みで政治をしていた平安時代と同じ、自衛隊は検非違使です。次は武士の時代になっちゃいます。

Yabukogiskyさんへの返答
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月29日(日)08時13分

 Yabukogiskyさんは、大変哲学にお詳しいようですね。私はヴィトゲンシュタインがどういう哲学かも全然知りませんでしたし、縁起説もまだ分かっていません。でも、少しだけ分かってきました。何事も勉強です。哲学とは、言葉の追求ですよね。言葉は本当に難しいです。
  一部のエリートだけだったというのは、その通りかもしれません。日本人というのは、自由を勝ち取ろうなどという意志には、非常に乏しい民族ですよね。日本国憲法などというありがたいものが与えられたおかげで、ますます自由を勝ち取ろうなどと考えることをやめてしまったとも言えるでしょうか。良い意味でも悪い意味でも、危機意識に乏しいのでしょうね。そして、突出した行動を、ひどく嫌う国民性もあります。凶悪犯罪などが比較的少ないのも、そのような国民性が良い方向に働いているからでしょうが、悪しき習慣などを断ち切る改革ということも、非常に難しい。
  日本におけるキリスト教は、エリート以外への浸透に失敗しました。韓国やフィリピンなどと違って。それらの国では小さな村々にも教会がありますが、日本は大体都市にしかありませんし、それも大体街のどまん中にあります。唯一の例外は長崎のカトリックでしょうか。「ものみの塔」とかは、エリートでないところに入って行っていますけれど。
  どちらにしても、一般の日本人にとって、キリスト教は必要がないのです。エリートにとっては、新約聖書のパウロ的な、心の救いというものを説くキリスト教は都合のよいものだった。だから、受け入れたとも考えられますね。
  私は、今あるようなキリスト教を広めるつもりは全くありません。必要のないものにとっては、迷惑な話でしょうから。それよりも、キリスト教自身が、エリートではない民衆から学ばなくてはいけないでしょう。キリスト教により民衆を救うのではなく、民衆によってキリスト教が変わらなくてはいけないと思います。
  Yabukogiskyさんは、サヨクがお嫌いのようで、九条の会や、反原発運動、おそらくは有機農業などにも、拒否反応がおありなのではとお察しいたします。中には、現実を見ない、底の浅い運動をやっている場合もあるわけですが、しかし私は基本的に、そのような理想主義的運動を、支持します。ガチガチの融通の効かない運動は嫌いですが、現実を押し付けられて自由を奪われるようになるのだけは、まっぴらごめんだからです。
  自給のことを誰かに拒否されたかって、それはまず何と言っても国の政策でしょう。私は北海道農業担い手育成センターというところで、就農アドバイザーなんてものもやっていますが、自給的な農業なんて、もう農業の担い手とは全然考えてはいないようで、私はもういたたまれないくらいです。周りの農家でさえ、自給ということを考えているのは本当に一部です。昔から農家だったから、仕方なくやっているだけという人が多いです。日本の農業は、グローバリゼーションに飲み込まれてしまい、完全につぶれそうなところに来ています。農業というよりも、農村がつぶされてきていますから、どうやって自給農業を守るかということは、本当に大きな課題です。

神の国
 投稿者:ootomo  投稿日: 4月29日(日)10時44分

マッキーさん
>認めたくないような現実に生きている人間がこの世に一人でもいる限り、理想は追求しなければならない。それが、私の考えだ。その一人のために、私はこの世と闘わなくてはならない。

 聖書の中で神の国をあらわしたところがあると思いますが、きっとこのことを言ってるんだろうなと思いました。
 羊飼いが一匹の迷子になった子羊を他の羊をおいて探しにいくシーンがありましたよね。
 やっと見つけて肩に乗っけて戻ってきて皆で喜ぶんです。そんな感じだったと思います。

 仏教にも菩薩の境地があって「この世に一人でも苦しんでいる人がいる限り私は菩薩にはなれない」と感じて生きる人々がいます。
 言葉は違いますがにてるなーと思いました。
 いずれにしても闘うべき相手は自分の中にある闇、カルマ、煩悩、魔、原罪などというものなんだな〜と思うこの頃です。

 自由ってなんだろうとも思います。この世界に生まれるということだけですでに不自由になるということです。
 生まれる前は本当に自由で世界のすべてでした。
 でも生まれたらこの自分という狭い枠の中に閉じ込められてしまいます。
 自分以外のものはすべて他になりそこには境があります。
 自分と他の間に境があるうちは僕らは本当の自由を得ることは出来ないんだな〜と思いました。だから僕にとって自由とは誰かや何かに抵抗するのでもなくましてや戦うものでもありません。自分と他の間に絆を結んでゆくことなんです。そんなに簡単なことではありませんが… きっとそれがイエスさまの教えてくれた愛の姿なのだと思います。
 そんなこんなで自然農に学ぶことは多いです。

自由とは何か、自由を認める宗教とは
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月30日(月)07時20分

  ウーン、ootomoさん、私は何かちょっと違うように感じるなあ。自由こそ、最もすばらしい価値だ。しかし、生まれる前は自由だなんて、そういう発想はどうだろうか。自由とは、意志を持つことであって、生まれる前にも、死んだ後にも、そんなものはないと私は思う。人間には、生きている間だけしか、自由な時間というものはないのではないか。カルマというものも、過去の特別な霊を引き継いでいるというような意味だとしたら、私は信じない。遺伝子が過去の生命から引き継がれたものであることや、文化による継承というものは確かにあるけれども、私には私自身の完全に自由な意志が与えられていると思う。自由であるからこそ、他者との垣根をどうやって取り払い、絆を結ぶかということは大切なのだけれど、なぜ人間に自由が与えられているかということを考えてみると、これは本当に人間を創られた神の大いなる愛だとしか言いようがない。自由だからこそ、苦しみもあるのだが、喜びもある。自由がなければ、ただ生まれ、死んで行くだけで、苦しみもなければ、喜びもない。
  本当は、宗教も政治も、ない方がいいのだ。なくすことが、一番の理想かもしれない。ジョン・レノンの歌の通りに。しかし現実には、宗教も政治も、なくすことは決してできないだろう。それならば、宗教を否定する宗教、政治を否定する政治を、求めたらいいのではないか。何かを押し付ける宗教や政治は、まっぴらごめんだから。
  キリスト教にも色々ある。仏教もそうだが、いかがわしいのがいっぱいある。内村鑑三の無教会の流れを汲むと称した、「キリストの幕屋」なる超右翼のキリスト教宗派も、私からすると、認めがたいものの一つだ。内村鑑三は「二つのJ」を愛した。イエスと同じくらい日本を愛すと言ったが、唯一の神以外に権威は認めなかった。しかし「キリストの幕屋」は、祭壇に日の丸を掲げ、天皇を崇拝し、靖国神社へも参拝する。聖書主義を唱えながら、どうしてそのようなことになるのか理解に苦しむが、戦前の日本のキリスト教は皆、似たりよったりだった。ヨーロッパの教会でも、王権神授説などというものが唱えられた時代もあったが、この世の権威を認めるよう神は、唯一絶対の神では決してない。
  戦後、多くの宗派は天皇制に逆らえなかったことを反省したが、本当に反省できているのかどうか疑わしい。カトリックや聖公会など、元来が保守的で多様な教義を内包している宗派においては、戦後においても積極的に天皇制を擁護するような右翼的な人物も少なからずいた。しかし一方で、非常にラジカルな考え方をする人もいる。
  聖書に権威をおく原理主義的な宗派でも、「ものみの塔」は、この世の権威を一切認めず、戦時中も天皇制に従わず戦争に反対したほぼ唯一のキリスト教宗派である。「ものみの塔」は統一教会やモルモン教とともに、キリスト教では異端とされているが、私はそうは思わない。前の2つが「原理公論」や「モルモン経」という、聖書とは全く関係のない書物を聖典としているのに対し、旧新約聖書だけに権威をおく原理主義的な宗派である。彼らは現在でも、「君が代」はおろか、「校歌」などを歌うことも拒否する。それは、行き過ぎだと思うが、スタンスとしては理解できないことはない。しかし、多様な考え方を認めないというところで、私は全くなじめないし、サヨクでも共産党なんかはそういう意味で余り好きになれない。まだ、内部に多様性を保持しているという意味においては、カトリックや自民党の方が好きである。もちろん、カトリック信者になるつもりも、自民党を支持するつもりも全くないが。

大いなる愛
 投稿者:ootomo  投稿日: 4月30日(月)10時31分

 イエス様は十字架にかかって、そのいのちを他のために差し出したことは、大いなる愛の姿に思えてなりません。お釈迦様も前世でお腹を空かしているトラにそのいのちを差し出したようです。(仏教では輪廻が説かれていると思います。聖書にもイエスの弟子達が過去世を思い出し異言を語ったシーンがあったように思います。)
 神様は人間に自由意志を与えられたんですね。でもなぜでしょうか。
 人間がいなくても地球は十分調和の中にあったはずです。
 僕の疑問はそこから始まりました。
 なにか大切な意味があったのだと思いますが残念ながら人間はその使い方を間違ってしまっている現在のように感じます。
 自由は自然の秩序からはみ出してやりたい放題になってしまう傾きも持っています。
 そこから苦しみが生まれてくるのだと思います。
 この肉体を持ったからこそ世界を生きることが出来るし、苦しみも悲しみも喜びも味わうことが出来る。苦しみ悲しみを味わいつくす中から本当の神様の愛を知る。
 人間て本当にいいものですね。

生命の意味
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月30日(月)13時20分

  異言っていうやつ、シャーマンみたいなの、最近のテレビ番組でも結構ありますけれど、ああいうの私は苦手なんです。輪廻というのは、一つの魂が、死んだら別の肉体やら生物に乗り移っていくようなものではないと、私は考えています。地球を一つの生命体というように理解すれば、命がとぎれなく続いているということ、それが輪廻なのではないでしょうか。輪廻やカルマについての考え方はちょっと違うのではないかと思いますが、神様に対するootomoさんの信仰は、私も全くその通りと思います。
  人類が、この地球上に創られたのも、あなたや私がこの世に生を受けたのも、みな意味があってのことだと思います。子どもが、親の愛情をなかなか素直に受け止められないように、人間が神を理解することは難しいと思います。神なんかいらない、と拒否したくなる気持ちも分かります。けれど、神は無償の愛を注ぐ存在なのだと思います。

輪廻
 投稿者:ootomo  投稿日: 4月30日(月)15時17分

 輪廻って循環のことかなと思います。(輪のように廻る?)
 神様は地球に無償の愛をあらわしているような気がします。
 農業にもその恩恵はありますよね。
 雨が降るということも水の循環が無ければありえないことです。
 雨が地上に降って川になり海へ流れて行き、温められて蒸発し雲になりまた地上に降ってきます。この循環が無償の愛の姿かなと思います。
 その循環は地球上のすべての命が繋がりあって成り立っていますよね。
 そして地球というひとつのいのちになっているんだと思います。
 これは誰でも知っている当たり前のことだと思いますが、それが神さまに愛されている証だと気がつけるかどうかじゃないかなと思ったりします。
 僕らが普段食べているものも、いのちですよね。
 彼らは何も望まず、そのいのちを僕らに与えてくれています。それも無償の愛…
 そのことを当たり前としか思えず何も感じない僕らは傲慢の極みかもしれません。
 そしてぼくらもその循環の中にいます。
 いずれ水が目に見えない気体になって天に上るように、僕らも目に見えない魂(?)になって天に上ってゆくのかも知れないと思ったりします。
 そしてまた、どこかの地上に降りて生まれ、川の流れのような人生を生きる。
 そんな繰り返しが輪廻というものかなと想いを馳せ、永遠の生命を感じて生きる勇気が湧いてくるこの頃です。…やっぱりちんぷんかんぷんかな…ごめんなさい。

感謝の心と、農業のあるべき姿
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月30日(月)20時16分

  その通りですよね。生かされていることが、当たり前のように思っているけれど、決して当たり前じゃないんです。日本は雨が多いから、水の有難さをあまり感じにくいけれど、水がなければ人は生きられないし、太陽の光も、空気も、本当に無意識に享受しているけれど、それらのものがなければ生きられないわけだから、すべてに感謝しなければいけないと思う。
  農業なんて、本当に人間のできることは限られているわけです。自然の大いなる恵みに感謝しなければなりません。アメリカの農産物が安いっていうけれど、石油をばんばん使って大型トラクターで大地をいためつけ、地下水をどんどん汲み上げて灌漑して砂漠化を進め、化学肥料を多量に使い、農薬を飛行機でばらまき、最近では遺伝子組み換えした作物を植え、そして手作業はメキシコからの安い季節労働者にやらせ、それでも足りずに、政府が農家に所得保障をして、それでやっと安くなっているわけです。自然のあるべき姿に、大きく逆らった農業をやっているわけです。
  そんな農業と対抗して、日本の農家もコストを下げて安い農産物を作れなんて言っている馬鹿者どもには、本当に頭がくるのです! そういう輩は、化学肥料で水ぶくれさせて、農薬=農毒をたっぷりまぶされた作物を食っていろって、言ってやりたいくらいです。ちょっと言い過ぎですが、本当にまじめな農家ほど、みじめになりますよ。私は、大地をいためつけるような真似はしたくないし、消費者には美味しくて安全な作物を食べてもらいたい。でも、そうすると安い値段ではどうしても再生産できないのです。お金持ちを相手に農業するのもいやですしね! 本当にどうしたらいいか迷います。

キリスト教と仏教の邂逅
 投稿者:マッキー  投稿日: 5月 8日(火)07時46分

  「ダライ・ラマ、イエスを語る」(中沢新一訳、角川書店1998)を、ネットで取り寄せ、読みかけている。チベット仏教の指導者であるダライ・ラマが、カトリックの求めに応じて福音書の読み解きをしたもので、仏教とキリスト教の歴史的とも言えるような対話が、ここに実現している。もっとも一方で、その後のローマ教皇の仏教に対する不用意な発言が、スリランカの仏教界のキリスト教に対する不寛容を招いたりもしているが、本質的に対話できないようなものならば、仏教もキリスト教も本物ではあり得ない。
  この掲示板で論争した仏教徒の田中さんが、一方的に対話を断ってしまったことは残念だが、私の言葉に不用意な点があったことは認めなくてはならないだろう。それに関しては今からでも謝りたいという気持ちはいくらでもある。仏教の側からみれば、キリスト教は唯一絶対の神を押し付ける不寛容な教えであるという風に見えるのだろうが、それは誤解であって、そのように決め付けられては対話は成り立たない。
  ローマ教皇の場合もそうだろうが、私の場合も田中さんと論争して、対話に至ることのできなかった原因が、「ダライ・ラマ」の本の前書き(60頁もある)を読んで少し分かった。問題は、言葉なのではない。言葉だけで、完全に意志を伝えることは、残念ながらできないのである。表情や、その人の実践、そういったものが人に伝える面が大きい。「人は見た目が90%」というベストセラー本の言うとおりである。つまり、このネット上での論争というやり方に、大きな問題があったのではないか。お互いの目を見ながら、表情を見ながら話すことが出来れば、あのような誤解を生むことはなかったのに、という気がする。私は、この冬に田中氏と札幌で会えるチャンスがあったが、実際に会うことは出来ず、まだ一度も顔を見たこともなければ、声をきいたこともない。
  私のしゃべり方は、文章を書くときとは、かなり違っている。もっとゆっくり、時間をかけて、人の話をききながら、そろりそろりと話す。一気にまくしたてるような話し方は嫌いだし、やろうとしてもできない。だから、会話で論争したのなら、誤解は生まなかったのでは、という気もする。
  誤解というのは、田中氏のブログを昨日見てびっくりしたのだが、彼はもう私のホームページは見ないと書いている。そして、唯一絶対の神だとか、原罪だとかを想定するキリスト教が、ほかの宗教に比べて桁違いに横暴で傲慢だということを言っている。つまり、あれだけ論争したのに、何の意味もなかったというわけである。
  ブッダは、神を想定することが、人間の成長には役に立たないと悟ったのだが、神を否定はしなかった。そこが、ブッダの優れたところであり、仏教がキリスト教と対話できる可能性を残していることの証明だ。そして、ダライ・ラマも、キリスト教を否定しないどころか、その教えの優れている点を、素直に認めている。ダライ・ラマは、多様性を非常に大切にし、多くの宗教があってよいと考えている。キリスト教でいう神や罪、そしてイエスの神性などは、言葉の問題、哲学の問題であって、非常に様々な解釈が成り立つ。一面的な解釈だけで、否定することは間違っているのである。仏教でもブッダというものを、歴史的な人物と考えるか、永遠性をもった存在と考えるか、非常に様々な解釈があるのと同じである。宗教にとって最も大事なことは、言葉の解釈ではなく、つまり何を考えるかということではなく、何を実践するかということなのである。
  私は、どんな人間とも、対話し分かり合えるということを信じる。それができないようならば、神なんかいらないし、イエスも必要ない。大事なことは、キリスト教も、仏教も、目指すものは同じだということに気付くことだと思う。  

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