宗教論争その3(掲示板 2007. 4. 1.〜4. 9. web only)
 
    このあたりから、たなか氏と私(マッキー)の考え方の根本的な違いが明確になってくる。合理的に考えておかしいものを排除しようという姿勢は共通するが、合理的に説明のつかないものを受け入れるかどうかというところで決定的に差があり、言葉の捉え方の違いもあって、お互いの考え方のおかしいところを追求する形の論戦になってくる。

縁起説を、かみくだいて
投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 1日(日)05時18分

 リクエストにお応えして、釈尊の思想の核心である、「無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死」の、十二支縁起の説明をすることにします。
12の支分は、この矢印の方向に、原因→結果の関係で、連鎖していきます。現象が生起するときの説明は、「無明あるが故に行あり、行あるが故に識あり……」と、続きます。現象が滅するときの説明は、「無明滅するが故に行滅す、行滅するが故に識滅す……」と、続きます。
水野弘元『仏教の基礎知識』(春秋社)をベースに、わたしの解釈をおりまぜながら、各支分を解説していきます。

(1) 無明 むみょう
縁起説を理解しないこと。ただの無知ではありません。ふつう、現象の根源は、確固とした実体物として説明されます。天とか、地とか、創造神とかがそうです。これらは、滅することなどできません。一方、仏教では、縁起説を理解しないことが、あらゆる現象の根源とされます。縁起説を理解すれば、無明ではなくなりますから、この根源は「滅することができる」という特徴を持っています。

(2) 行 ぎょう
潜在的習慣力のこと。わたしたちは、言葉を覚えるときに、まねをします。行動のし方を覚えるときにも、まねをします。心を働かせるときにも、じつは、まねをしています。まねをして身につけて習慣化した、わたしたちにさまざまな影響を与える力は、しかし、通常は、私たち自身には自覚されません。自覚されない習慣化した力なので、潜在的習慣力といいます。

(3) 識 しき
判断作用のこと。パーリ語では「分けて知ること」の意味です。わたしたちは、ものごとを、分けて知っていきます。危険―安全、食べられる―食べられない、人の顔―それ以外、動く―動かない、固い―柔らかい、温かい―冷たい、近い―遠い、などなど。感覚・知覚の作用を、原理的な面からとらえた概念です。識という語は、判断主体の意味で使われることもあります。

(4) 名色 みょうしき
名は精神的な存在。色は物質的な存在。合わせて、現象する存在のすべてのこと。

(5) 六処 ろくしょ
感覚・知覚の能力のこと。眼・耳・鼻・舌・身・意の6種類があるとされます。(4)→(5)で興味深いのは、感覚・知覚の能力が原因で現象的存在が結果するのではなくて、逆の、現象的存在が原因となって、それを感覚・知覚の能力が結果する、と考えるところです。先に現象的存在があるから、それを感覚・知覚する能力を想定することができるようになるのです。

(6) 触 そく
感覚・知覚の作用が生じること。根(感覚・知覚をする器官)と、境(感覚・知覚の対象)と識(感覚・知覚の主体)の三者が接触する、という意味で、触と呼ばれます。経典には、「眼と色とによりて眼識があり、眼・色・眼識の三者の和合が眼識である」からはじまって、耳・鼻・舌・身と説明してきて、最後に「意と法とによりて意識があり、意・法・意識の三者の和合が意蝕である」というふうに説かれています。

(7) 受 じゅ
感受作用のこと。苦や楽や苦でも楽でもないものに分けたり、精神的なものと肉体的なものに分けたりして説明されることがあります。

(8) 愛 あい
漢訳では愛とされますが、パーリ語では「渇く」という意味の語です。のどの渇いた人が水を求めるような、激しい欲求のことです。激しい欲求に対して激しく反発したり、これを激しく憎んだりすることも、全部ひっくるめて愛のカテゴリーに入れます。世俗的な欲望は全部、愛に含まれます。愛が都合が悪いからといって、これを操作して滅することはできません。無明にまでさかのぼって、順を追って滅してこなくてはなりません。

(9) 取 しゅ
愛という激しい欲求によって生じる、取り付くような悪い行為のこと。

(10) 有 う
有という語は、存在という意味です。自分が重ねてきた悪い行為によって性格づけられた、習慣力としての存在、というふうに考えられます。

(11) 生 しょう
独特に性格づけられて、生きて存在すること。または、独特に性格づけられて、生きてきた生涯のこと。

(12)老死 ろうし
さまざまな苦しみのこと。だれものがれられない老いることと死ぬことによって、これを代表させました。

以上、縁起説の説明でした。
仏教には縁起説という、はっきりとした教義があるということが、お分かりいただけると思います。このような教義をかくそうとする動きは、おそらく、すべての根源としての確固とした実体物を信じる人たちが、それを無視する仏教に腹を立ててやっているのだろうと、わたしは推定します。

キリスト教の社会的機能
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 1日(日)05時20分

マッキーさん、
 キリスト教でいう罪というのは、人間の不完全さのことだということが分かりました。地震や洪水といった災害を、人間の罪に対して神がくだした罰だと考える、ということも分かりました。そして、その人間の不完全さの克服は、知恵によって行うのではなくて、神を頼んで行わなければならないと考える、ということも。
 神を頼むというのは、神に祈るということだと思います。みんなが神を信じ、神に祈れば、よりよい社会が実現されていく、というわけですね。よく分かりました。おそらく、このあたりが、キリスト教の社会的機能の核心なのだと、わたしは思います。つくづく、よくできたしくみだと思います。色いろな意味で。
 わたしは神を信じないかわりに、人間の知性に希望を託します。人間は知性を持っていて、これによってみずからの不完全性を反省することができます。人間は、完全にはなれないかもしれませんが、完全を目指して努力することはできます。わたしには、それで十分です。
 ところで、「狩猟採取を主体としてエコロジカルに永続的循環的」うんぬんという文明論は、わたしは初めて聞いたのですが、これは、マッキーさんオリジナルのキリスト教解釈ですか。

それはキリスト教の核心ではない
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月 1日(日)06時52分

  田中さんの仰るような、自然災害を神の天罰と考えるようなことは、はっきり言って迷信ですが、森林を伐採したことで洪水が起きるようなことなどはよくありますし、人類の文明活動によって地球温暖化が進み台風の被害が大きくなるというようなことなど、自然災害にも思いのほか人災の要素はあるのですよね。
  田中さんがキリスト教の社会的機能と仰る意味が、マルクスが「宗教は阿片である」と言ったように、社会の根本的な構造変革を阻害するという意味においてであるならば、いわゆる「キリスト教」がそういう働きをしていることは否定しませんが、「イエスの思想」は、そういうものとは対極にあると申し上げましょう。
  私は、仏教が無神論だとは思いません。神の概念が違うのです。私の理解からすれば、仏性というのは神そのものです。「愛」という言葉もそうですし、同じ単語を使っていながら、キリスト教と仏教では意味が全然違います。大体、キリスト教においては「仏」という言葉は存在しません。
  田中さんが「人間の知性」と言っているものこそ、私に言わせれば「神の声」です。キリスト教では、神だけが完全なものです。人間は不完全ですが、神に似せて創られたと聖書にあるように、神を知る知恵や知性は備えています。キリスト教の神とは、多神教の世界における創造神をはじめとする色々な神々とは、意味が違うのです。ヨハネによる福音書では、この神のことをロゴスと言っていますが、神は物体ではなくロジカルなものなのです。
  私は、田中さんが釈尊=ブッダの教えについて、「正しい」とか「合理的」と断言されることに、まだ少々違和感があるのです。正しくないとか、合理的でないと思うからではありません。正しいもの、合理的なものを追い求めることは、必要なことであると思いますが、それは完全に得られることは永遠にない、というのが私の感覚です。
  イエスには、本当に残念ながら、釈迦のような「合理的な教え」はどこにもありません。イエスの教えは単純です。神にすべてをより頼みなさい、ということだけです。どんな人にも可能な教えです。イエスが教えた祈り「主の祈り」というものが聖書にあるのですが、短いものなので載せます。

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。 アーメン

  天という言葉が出てきますが、イエスにとっては、天国なんかどうでもいいのです。天国を地上に実現して下さいという祈りなのです。地上こそが重要なのです。糧とか罪とかいう言葉が出てきますが、これも本来は精神的なものではありません。イエスの言った言葉どうり忠実に訳せば、糧は「食事」であり、罪は「借金」です。飢えに苦しむのはいやだ、安心して飯を食えるようにしてくれ、借金をチャラにして欲しい、私も人への借金をチャラにするから、と祈れというのです。イエスは、現実の苦しみからの解放のために、たった一人で権力(宗教国家ユダヤと、ローマ帝国)に立ち向かい、十字架で殺されました。全く非合理的な闘いをやったのです。合理的に考えれば、イエスは馬鹿です。大ばか者です。権力を倒すためには、もっと合理的にやらなきゃいけません。しかし、イエスには、そんなことはできなかった。今迷いでた一匹の羊のためには、残りの99匹の羊のことなんかほっておいて探しに行くのです。これを不合理と言わずして、何と言うのでしょう。決断を迫られた時に、合理的かどうかで、行動を決めるのではなく、信仰に基づいて決断するのです。もちろん、衝動的であることは避けねばなりません。イエスも、十字架に架からねばならない時が来るまでは、慎重に行動していたのです。でも、神殿で馬鹿なことをやっちゃいましたけどね。いざという時に、何を基準にするかということだと思います。イエスにとっては、最も小さい者のために行動するということでした。そして、クリスチャンとは、そのイエスの生き方に従う者ということです。それが、私の信仰です。
    創世記に関しては、メソポタミアの洪水伝説など、色々な神話が元になっていますから、人類創世ではなく、ユダヤ民族の起源に関わるものと考えるべきですし、メソポタミアで農耕文明が生まれたことも考古学的に確認されていますから、アダムというのは農耕民族の祖先と考えてよいと思います。アダムの罪ということに関する文明論的な解釈は、まあ私のオリジナルと言ってよいかと思いますが、非常に合理的な解釈ではないかと・・・(笑)

本当の信仰は社会を変える
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月 1日(日)09時18分

  誤解されると困るのでつけ足しですが、イエスの教えは、「不合理のすすめ」ではありません。合理的に考えるべきことを、考えるなと言っているのではありません。心に革命を起こすことを、促しただけです。心が変われば、世界が変わるからです。しかし、後のキリスト教会は、この世の不正や不合理を追求せず、心の問題にすり替えることによって、イエスの教えを反革命の思想として利用したのです。社会が変わらなくても、心が救われればよいとした。しかし、それは間違っています。順番が逆です。救われた魂は、社会を変えるはずなのです。世界に不正義がある限り、クリスチャンは地の塩として社会と闘い続けるべきです。教会ではよく、福音派と社会派というような色分けをしますが、福音派は社会派のことを信仰が足らないとか言いますが、そのような福音派なんてものは、もうゴミ箱に捨ててしまうべきです。

仏性思想は仏教ではありません
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 1日(日)11時13分

☆ 言葉のすれ違いについて
 「田中さんの仰るような、自然災害を神の天罰と考えるようなことは、はっきり言って迷信ですが」ですって? わたしが言ったのではないでしょう! マッキーさんご自身が、「神から大きく離れた罪深い文明を作り出して行ったのです。そのような文明に対し、神はノアの洪水や、ソドムやゴモラの滅ぼし…」と言ったのを受けて、ノアは洪水、ソドムやゴモラ地震だから、それらをまとめて、わたしは「自然災害」と表現しました。どこか間違っていますか。
 それから、2つ下のタイトル(「それはキリスト教の核心ではない」)ですが、わたしはキリスト教の核心とは言っていません。キリスト教の社会的機能の核心と言っています。この2つは、はっきり違うものですし、わたしはマッキーさんの発言を受けて答えているのですから、こういうところで言葉のすりかえは、してほしくありません。
 マッキーさんの信じられるキリスト教と、信じられないキリスト教とがあるようなのですが、その違いを、まだきっちりと線引きされていらっしゃらないような印象を持ちます。信じられるキリスト教の要素だけで整理して、組み立てて、お話をしていただけると分かりやすくなるとは思うのですが、マッキーさんは、そういう方向には、お進みになりそうもありませんね。うーん、残念。

☆ 仏性について
 マッキーさんは「仏性というのは神そのものです」とおっしゃいますが、仏性こそ、反仏教的な思想です。仏性は、初期仏教にはなかった概念です。仏性とは、釈尊からその思想を取って捨てて、意味もなく神格化した上で、一般人の中にも釈尊のようになる性質があると説くときの、その、釈尊のようになる性質のことです。全然、仏教ではありません。
 仏性の原語のブッダ・ダートゥのダートゥというのは、「置く場所」「基盤」「土台」を意味します。これは、そこから何かが生起してくる根源を意味します。縁起説が確固とした実体物としての根源、という考え方を無視したものであることは、すでに説明しました。
 ダートゥは、教義上、「種族(ゴートラ)」と同義とされてきました。ゴートラは、もともとは種姓・家系を意味する語です。これは、特定の家に生れた人たちが共通に持っている素性のようなものを意味します。「うちらは、仏になる性質を持っているが、おたくらは、持っていない」とうように、差別的に使われていた概念なのでしょう。「すべて人に仏性がある」というスローガンは、魅惑的かもしれませんが、「仏性というものはない」と言ってしまうのが、正しいのではないでしょうか。
 大乗仏教の諸経典には、神格化された「仏」が多く登場しますが、それらは、仏教とは関係がありません。作り話です。釈尊の教えのカケラもないような宗教までを仏教と呼ぶのは、いいかげんやめにしてほしいと、わたしはいつも思っています。
 マッキーさん、「仏性」という語を、いったいだれから聞いたのですか。

入れ子構造の先?
 投稿者:Yabukogisky  投稿日: 4月 1日(日)20時51分

どうもおじゃまします。
田中さんにお伺いします。少々縁起説に疑問が…。

>縁起説を理解すれば、無明ではなくなりますから

 無明ではない状態、つまり無明から因果する十二支縁起と言うものを滅することができるんでしょうか? 現象の根源って、人間が考える限りそもそも現象を認識する人間の認知そのものが都合というフィルタを通っちゃうのでは? ですからそこから逃れようとするために仏という概念を創り出したんじゃないんですか?
 と言いますか、無明を滅するという行為を生起する人間の動機そのものに説明がつきません。それを説明しようとした途端に無明の先に無明が再帰する状態に陥りませんか? 結局、人間の認識の外側の非自明性を手当てしようとしている訳ですから、神の概念と同じロジックで非合理性を出発点にしているように見えますけど。

縁起説は、閉じた体系なのでは
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 1日(日)23時41分

Yabukogisky さん、いっしょに考えさせてください。はずれてたら、また聞いてください。
むずかしいので、こまかくばらして、少しずつ考えていきます。

>無明ではない状態、つまり無明から因果する十二支縁起と言うものを滅することができるんでしょうか?

無明からはじまって老死にいたるまでのひとつらなりが、主観的経験のプロセスです。わたしたちは、このプロセスの線の上のどこか一点を、時間の流れのように、一方向に向かって経験しています。この細い線以外にはなにもありません。「十二支縁起と言うもの」という客観的な存在は、最初から想定されていません。

>現象の根源って、人間が考える限りそもそも現象を認識する人間の認知そのものが都合というフィルタを通っちゃうのでは?

そのとおりだと思います。縁起説も、釈尊の都合というフィルタを通って作られた考え方だと思います。

>ですからそこから逃れようとするために仏という概念を創り出したんじゃないんですか?

「逃れる」? 何のためにですか。正しいと思えたら、そこからのがれる必要はないのではありませんか。
「仏の概念」というのは、何でしょうか。縁起説には、仏の概念という考え方は、出てきませんが。
「ブッダ」というのは、尊称にすぎません。釈尊は、わたしたちと同じく、生身の人間です。全知全能の神のようなものではありません。

>と言いますか、無明を滅するという行為を生起する人間の動機そのものに説明がつきません。

これは、説明がつきます。苦しいからです。苦しみを滅したいというのが、動機です。

>それを説明しようとした途端に無明の先に無明が再帰する状態に陥りませんか?

無明(縁起説に対する無知)の原因は、単純に、縁起説に接することがなかったから、なのではないでしょうか。無明(縁起説に対する無知)が無明(縁起説に対する無知)を生起する、ということはないと思います。ですから、無明の先は、ないと思います。

>結局、人間の認識の外側の非自明性を手当てしようとしている訳ですから、神の概念と同じロジックで非合理性を出発点にしているように見えますけど。

「手当て」というのは、治療するような意味ですか。縁起説は、「人間の認識の外側」については語っていないと思います。縁起説は、いつでも、どこでも、だれでも、体験して検証できることですから、不合理なところは何もないと思います。

すれ違いをはっきりさせましょう。
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月 2日(月)00時25分

  どうも舌足らずですみません。私は、「田中さんが自然災害を神の天罰と考えている」、と言ったわけではありません。しかし、具体的な事件についてではなく、(一般的に)自然災害は・・・というくくり方をすれば、それは迷信と言えるかなということを言いたかったのです。「田中さんが仰るような」というのは、そういう意味です。それが、田中さんの考えじゃないことなど、分かっています。
  それから、私は「田中さんが、キリスト教の核心と言った」とも言っていませんが。キリスト教の社会的機能の核心であっても、キリスト教の核心ではないと、田中さんが仰っている通りでしょう。そのことをはっきりさせたかっただけで、言葉をすり替えたのではありません。違うものを違うと言ったまでです。
  仏性が反仏教的な思想とは、全く知りませんでした。私は、「一切衆生悉有仏性」という言葉は、釈迦の言葉と思っていましたが、ここでいう仏性が、釈迦を神格化したものと言うことは、おかしいのじゃありませんか。私は、この言葉の意味は、生きとし生けるものすべてには、犯されざる価値がある、ということだと理解していました。キリスト教では、「すべての生命が、神によって創られた。」と考えます。だから、「神を尊ぶならば、すべての生命を尊ばねばならない。」と考えるわけです。だから、仏教とキリスト教は、結局同じことを言っていると、私は思っていました。しかし、仏性というのは、そういう意味じゃないのですか? 差別するための言葉なのですか?
  それから、私は人間が悟りを開くなどということはあり得ないと思っているのですが、仏というのが完全な悟りを開いた状態であるとすると、釈迦は仏ではなかったということでしょうか? イエスが神でないように、ゴータマは仏でないと? 

体系の外は……
 投稿者:Yabukogisky  投稿日: 4月 2日(月)05時53分

 なるほど、縁起説ってあくまでも主観的経験のプロセスに自覚的であろうとし、また客観的な存在を想定していないから、そもそも外側を創り出すということはありようもないということですね。
 自分で「無明を滅するという行為を生起する人間の動機そのものに説明がつきません」と書いておいて、実は意味不明なんですが(笑)、無明から脱した状態がどんなものなのかちょっと想像できてなかったりします。ですから、

>苦しみを滅したいというのが、動機です。

いや、まさに仰る通りです。
また、主観的経験のプロセスから縁起説へと辿り着き無明の状態から救済されると勝手にイメージして書いてしまいますが、
再帰するのではないのかという疑問は、私の場合、どの様な因果が関係して苦しい状態に在るのかを説明しようとする時、その説明しようとする、或は救済しようとする動機の源泉はどこから湧いて来るものなのか、その根拠を求めることは出来ないという立場から再帰的なものなのではと考えました。
 それは、人間にとって苦しい状態に在ることを成立させているものの前提(因果)は、主観の内側からその因果関係を解きほぐして説明を加えようとする行為そのものに、まさに客観という立場を希求しているんじゃないのかという非合理的なものとして映っておりまして、主観の内側から因果の現象を完全に見通す事は論理的に不可能そうであるという予見となり、無明の状態を脱し縁起説へ辿り着いて苦しみから解放されているのかどうかを判断するにも、主観的経験のプロセスの動機と、辿り着いたと思った地点が無明ではないものなのかどうかを更に辿らなくてはならなくなるのでは、という疑問が再帰という表現になっております。
 で、「結局、人間の認識の外側の非自明性を手当てしようとしている訳ですから、神の概念と同じロジックで非合理性を出発点にしているように見えますけど」というのは、
滅するという、その「滅する」ということへのお釈迦様の動機は、たとえ苦しみから逃れようとするものでも、その逃れようとする動機を体系内において調達しようとするだけでは説明できないのではという疑問になり、そもそも体系内を合理的に説明しようとするがために(そう意図していたかどうかは分かりませんが)、まさに外側の前提を意識しなければ説明できないのではという疑問に繋がっております。そもそも老死を滅する態度というのが不合理な気もしますが…。
 そして、その外側の前提への希求が宗教であると解釈しているのですが、人類にとって未知、不測、不慮の事象を非自明性と呼称し、その事象への葛藤を苦しみだとするならば、その苦しみの緩和を手当てと呼称しておりまして、一括りに非自明性への手当てを宗教の社会的機能性と呼んでおります。
 おそらくブッダの時代は今よりもずっと非自明性の領域は広かったはずですので、その当時結果的に人類の非自明性への畏怖と葛藤を緩和するという役割を担う事となったという機能性の面に注視するなら、ゾロアスターも仏教もキリスト教も差異はないように思うのです。
 ただ、縁起説が検証できるのかどうかは、私には分かりません。

滅する、ということ
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 2日(月)09時34分

Yabukogisky さん、
Yabukogisky さんが考えているのは、「無明から脱した状態」のことでしょう? 縁起説では、「無明を滅する」って言うのですよ。主観的経験というのは、点なのです。その点が、線を一方方向へ進んでいくのです。ですから、脱してどこか外へ行くのではないのです。同様に、「無明の状態から救済される」のでもないのです。滅して次に行くだけです。また、同様に、「苦しみから解放される」のでもなくて、苦しみを滅すのです。苦しみは縁起していて、それは、どこか外へ逃げて解決できるものではありません。縁滅することができるだけです。

「主観の内側から因果の現象を完全に見通す事は論理的に不可能そうである」

ふつうは、そう思いますよね。それをやってみようとしたのですね、釈尊は。
なかむらさんが人形劇になさったという「仏弟子キサー・ゴータミーの物語」なんかも、たとえ話としては、分かりやすいのではないでしょうか。子どもが死んで、狂ったように嘆き悲しんでいる女が、子どもを生き返らせてくれと言って、釈尊のところに来る。釈尊は、「まだ死者を出したことのない家から芥子粒をもらってきたら、願いをかなえてあげよう」と言う。女は家いえをまわるうちに、死者を出したことのない家などない、ということに気づく。女は、苦しみから逃れたのではなくて、苦しみを滅したのでしょう。
 「そもそも老死を滅する態度というのが不合理な気もしますが…」とのことですが、第12支分の「老死」は、悩み苦しみのことです。生きているものは、老いること、死ぬことをのがれられませんが、老苦、死苦は、滅することができる、と考えるのです。

「非自明性への手当てを宗教の社会的機能性と呼んでおります」

なるほど、そのようなくくり方をすれば、どの宗教も同じようなものでしょう。ただ、「未知、不測、不慮の事象」だけが苦なのではないのではないですか。釈尊が見つめた苦は、四苦八苦などと説明されますが、いつでも、どこにでもある苦です。仏教は、ストレスの多い現代社会にこそ、求められる方法論なのではないかと思います。

マッキーさんは何を信じているのですか
投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 2日(月)09時45分

マッキーさんは、ご自身のオリジナルの文明論を説明する文脈の中で、
(引用はじめ)
 アダムは神の創った生態系を逸脱した農耕文明を作り、さらに都市国家を作り出し、階級社会を作り、産業革命を生み出し、大規模な戦争や環境破壊を行なうような、神から大きく離れた罪深い文明を作り出して行ったのです。そのような文明に対し、神はノアの洪水や、ソドムやゴモラの滅ぼし、そしてエルサレムの滅亡、ヨハネ黙示録の審判(これはローマ帝国の滅亡を預言したものに過ぎない)など、裁きを行なったと考えるのが、ユダヤ・キリスト教的な考え方です。
(引用終わり)
 と言っています。どこにも「迷信だ」という言葉はありません。マッキーさんの言い方は、ご自分で「迷信だ」と判断する考え方を、平気でご自身の説の説明に使ってしまっているのです。そのやり方が、わたしには、信ジラレナ〜イのです。
また、マッキーさんは、
(引用はじめ)
 どんなに修行しても、神のように完全になることはできません。だから、キリスト教では、人間はすべて罪人であると考えます。救われるためには、自分の努力によって罪を克服するのではなく、神にすべてより頼む、ということを重要だと考えるのです。ユダヤ教でいう神という概念は、創造主であり、自然や社会を支配し、裁きを下す存在です。しかし、イエスは恐ろしい父としての神ではなく、罪人を受け入れ、最も小さい者を慈しむ優しい存在としての神を示してくれました。イエスは父なる神と言いましたが、父でもあり母でもあるような神です。私は、そういう神の存在を信じることが、よりよい生き方、そしてよりよい社会の実現に繋がると信じていますしもし神が存在しなくても、決して後悔はしないと思います。
(引用終わり)
 とも言っていますが、この中の、「ユダヤ教でいう神という概念は、創造主であり、自然や社会を支配し、裁きを下す存在です」は、マッキーさんご自身は、肯定するのですか、否定するのですか。イエスが示した「優しい」神だけを信じるのですか。「裁きを下す」きびしい神も信じるのですか。
 いずれにしても、「神の存在を信じることが、よりよい生き方、そしてよりよい社会の実現に繋がると信じています」ということには違いないと思います。そして、採用するべき方法は、「自分の努力によって罪を克服するのではなく」ですから、神に頼むこと、具体的には、神に祈ることになるのでしょう。これらをまとめて、わたしは、「みんなが神を信じ、神に祈れば、よりよい社会が実現されていく」とする考え方だ、と表現しました。そして、これが、キリスト教の社会的機能の核心なのだ、と考えて、そう言いました。そうしたら、そのすぐあとに、マッキーさんは「それはキリスト教の核心ではない」というタイトルをかかげて、反論されました。「それは」って、何ですか。すぐ下のわたしの発言でしょう。だからわたしは、わたしはキリスト教の核心について言ったのではない、キリスト教の社会的機能の核心について言ったのだから、このタイトルは言葉のすりかえだろう、と言ったわけです。
 マッキーさんは、キリスト教を信じているのですか、それとも、イエスの思想を信じているのですか。この両者の関係は、マッキーさんの中では、どうなっているんですか。
 もう一つ、指摘しておきますと、さんざん擬人化した神を語っておきながら、「神は法則のようなものだ」とか、「神はロジカルなものだ」とか言い出すのも、首尾一貫していません。検証できない法則やロジックがある、というのも不思議ですが、法則やロジックに祈るっていうのも、想像がつきません。

仏性について、捕捉
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 2日(月)10時44分

マッキーさん、
 「一切衆生悉有仏性」という言葉は、パーリ語の経典の中には、わたしが読んだ範囲では、まだ出会った記憶がありません。思想的に類推して、パーリ語の経典の中には出てこないのではないかと思います。出典は、「涅槃経(大乗のほうの)」か「華厳経」あたりではないでしょうか。いずれにしても、ずっとのちの時代に創作された、大乗系の経典です。
 「仏性」を辞書で引くと、パーリ語ではなくて、サンスクリット語だとあります。パーリ語にある言葉ならば、併記されているはずです。やはりこれは、大乗の時代に作られた概念なのだと思います。
 「一切衆生悉有仏性」という言葉の意味は、マッキーさんの解釈の「生きとし生けるものすべてには、犯されざる価値がある」という意味ではなくて、「すべての人は仏になる性質を持っている」という意味です。ここで言う「仏」とは、実在の人物の釈尊ではなくて、神格化された仏です。大乗の経典には、多くの仏たちが登場しますが、いずれも、神格化された仏です。念のために言いますが、実在の人物の釈尊は、生れてから死ぬまで、ずっと人間でした。ウルトラマンのように、人間以外のものに変身したりはしていません。
 仏性が差別するための言葉だというのは、そのとおりです。「人間が神格化された仏になる」という発想が奇妙だとわたしは思うのですが、そのことは横においておくことにしても、実際、仏性という言葉は、仏になれる人と、なれない人とを差別するために使われました。「一切衆生悉有仏性」というスローガンが出てきたあとでも、それでも、どうしても仏になれない人はいるのではないか、といった議論がされていました。
(引用はじめ)
「私は人間が悟りを開くなどということはあり得ないと思っているのですが、仏というのが完全な悟りを開いた状態であるとすると、釈迦は仏ではなかったということでしょうか? イエスが神でないように、ゴータマは仏でないと?」
(引用終わり)
 釈尊は、パーリ語の経典の中に残されているような宗教思想を考えついて、それを人々に説いたと、常識的に考えればいいのであって、「悟り」を神秘化するのは、やめたほうがいいと思います。「仏」という言葉を、マッキーさんがあげられた「完全な悟りを開いた状態」という、大乗的な、神秘化した意味に解釈すれば、実在の人物としての釈尊は、仏にはならなかった、ということになると、わたしは思います。

まだ、説明が足りないようですね。
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月 2日(月)14時18分

  田中さんには、どうも思い込みがあるようです。私はユダヤ=キリスト教的な考え方を説明しただけであって、それが私の信じるキリスト教の本質であるとは言っていません。しかし、田中さんが大乗仏教は仏教とは無関係の思想だと言いきるほどに、それがキリスト教の本質と関係ないとも、言いません。そのように、怪しいものを即、切り捨てる態度は、よろしくないと思います。そういう考え方だから、私の言っていることが矛盾しているように思ってしまうのです。
  イエスの教えは、ユダヤ教の完全否定ではありません。それを乗り越えたところにあるというか、もっとラジカルにつきつめたところにあると考えます。「迷信かどうか」は、迷信であることが明らかにならない限り、結論を出すことはできません。私は、ユダヤ教やキリスト教の中には、迷信と言えることがたくさんあると思っています。それは、迷信と分かった時点で、切り捨てて行くべきです。しかし、それと信仰の核心とは別問題です。
  神を信じるということを、迷信だと決め付けることは、永久にできないのです。もちろん、迷信である可能性もあります。だから、信じないというのが田中さんの立場、だから信じるというのが私の立場、そういうことでしょう?
  ユダヤ教でもキリスト教でも、唯一神ヤーウェは、創造主であり、自然や社会を支配し、裁きを下す存在です。私は、その存在を証明することはできないけれども、そのような神の存在を信じます。そして、イエスが示した「優しい」神も、裁きを下す厳しい神も信じます。父のようであり母のようである神と、神を擬人化していますが、肉体としての人間に譬えているのではありません。人間のスピリチャルな面に譬えているだけです。スピリチャルという言葉は、一般的にロジカルと相反すると思われてしまうかもしれませんが、そんなことはありません。神は、スピリチャルかつロジカルな存在です。道理という言葉に置き換えてもいいでしょう。神は、どんな小さいものをも慈しみ(愛し)、そして、不正義には必ず裁きを下すはずです。そのような神を、信じるのも信じないのも、それは自分次第ですが。
  おそらく、「神」というものを信じることで、不合理が生じると田中さんは考えておられるのではないかと推測しますし、仏教におそらくそのような考え方があるのではないかと思います。しかし、不合理を生じさせるような「神」は、本当の神ではありません。それは人間が作り出した、「神もどき」だと思います。
  また田中さんは、キリスト教のことを、「みんなが神を信じ、神に祈れば、よりよい社会が実現されていく」とする考え方だ仰いますが、私は「みんなは」というところは否定します。自分は神を信じますが、みんなが信じなければならないとは思いません。
  私は、いわゆる「キリスト教」を信じているのではありません。田中さんが、いわゆる「仏教」を信じていないのと同様です。どちらかと言えば、「イエスの思想」を信じている、と言った方が正しいでしょうが、それもまた正確ではありません。信じるのは「神」だけであって、「イエスの思想」に共感し、「イエスの生き方」を手本としたいと思うだけです。

(無題)
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 2日(月)16時26分

 わたしは、怪しいものを切り捨てているのではなくて、明らかに間違っている考え方を、間違っていると指摘しているだけです。どこがよろしくないのでしょうか。間違いを指摘することをよろしくないこととする背景思想があるのかもしれないですね。
 根拠を示して間違いを指摘するのと、自分以外のものに、ただ否定的なレッテルをはるのとは、まったく違うことを覚えていてください。
 都合の悪いものを、「にせもの」のレッテルをはって、切り捨てるのは、むしろ、マッキーさんの得意技ではないでしょうか。革命の難点が指摘されると、あれは「にせもの」の革命で、自分が目指す「ほんもの」の革命はいいものだ、とか、神への信仰の問題点が出てくると、あれは「にせもの」の神で、自分が信じる「ほんもの」の神はすばらしい、とか。具体性を持った「なぜならば…」がなければ、説得力がありませんし、信頼されません。
 論証できない事柄について考えるのは、時間の無駄です。人生は短いですし、他にやったほうがいいことはいくらでもあります。この掲示板では、今後わたしは、神については、一切コメントしないことにします。神については考えない、とした釈尊の態度は正解です。
 マッキーさんのおっしゃっていることは、たなかにだけに矛盾があるように思えるのではなくて、だれが聞いても矛盾が多いと感じられると思います。おかしいところを率直に指摘してくれる人が、マッキーさんのそばにいていてくれたらいいのにと、マッキーさんのためにも、そう思います。

どこが矛盾しているのか解りません
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月 2日(月)19時18分

  田中さんの仰ることを一生懸命理解しようと務めるのですが、私の頭が固いのか、何が間違っていると指摘されているのか、私にはまだよく解りません。あまり建設的でない論争になってきたので、これ以上議論してもどうかと思いますが、最後に私は正統的なキリスト教信仰を持っていないということを、はっきりさせておきます。田中さんが、間違って仏教と思われているものではなく、正しい仏教を信仰しようとしていることと、近いようで遠いかもしれません。私は田中さんが、ブッダ本来の思想に帰ろうとしているところまでは、とてもよく理解できるし共感もするのですが、田中さんがこれこそブッダの思想だと言い切るものには、私にはまだ疑問がたくさんあります。否定しているわけではありませんが、まだ全く理解できないということです。
  キリスト教の核心という言い方を私はしましたが、聖書に示されたキリスト観を肯定することこそがキリスト教の本質であるとすれば、私はキリスト教を信じません。聖書にはっきりと書かれているわけでない三位一体も否定しますが、聖書にしつこいくらいに書かれている、イエスが罪なき神のひとり子として、人類の罪を贖うために十字架に架かったということも、信じません。無実の罪によって殺され、そのことで多くの人が導かれるようになったのだから、結果としては、そういう説明もあり得るかもしれません。しかし、そのような救済史観は、不合理的なものであり、そのような画一的なキリスト教的世界観こそが、世界の分裂に大きく影響を与えていると思います。イエスを旧約聖書に予言されたメシア=キリストであり、贖い主であるとする教義は、新約聖書のメイン・テーマでもあります。ヨハネによる福音書などは、イエスをロゴスとしての創造主そのものであると見なす思想を語っています。私は、このような教義は、イエスの解放思想に反していると思っています。贖い主ということは、アニミズムのような原始的な宗教における生け贄の思想を受け継いだものです。イエスが殺されたことは、結果です。しかし、それは必然ではないのです。もちろん、イエスが当時のユダヤにおいて自分の生き方を貫いた時に、それは不可避な出来事でありました。しかし、人が殺されることが、必然であってよいはずなどないのです。私は、そう固く信じています。
  私は、絶対的な神という存在を信じますが、これこそが絶対的な神であるなどと、具体的に説明するつもりはありません。神は、沈黙しているのです。神の存在を証明する具体例など、どこにもないのです。そのようなものは、全てまやかしです。しかし、論証できない神について考えることは、無駄ではありません。これは、価値観の問題なのです。神を基準に物事を考えるということは、非常に有意義なことです。そのことについては、私はいくらでも具体例を挙げることができます。
  私の考えは、矛盾に満ちているでしょうか? なかむらさん、どうでしょう?

仏教を理解できる人の条件
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 3日(火)03時45分

「一切皆苦」と言われて、そうだ、と相づちが打てる人、
確固として現象しているこの世界を滅してしまいたいと思う人、
そういう人にしか、仏教は理解できないのだと思う、今日この頃です。

おそらく、私はお二人の話の半分も理解できていないと思います。が、感想を。私は仕事で何人かのクリスチャンと関わりましたが、正直なところ、私は彼らを馬鹿だと思いました。人あたりはいいが、じつは排他的で融通がきかない。笑顔の裏では他宗教を邪教視している、そんな人 
投稿者:なかむら  投稿日: 4月 3日(火)12時42分

が多かったです。そんな中で牧野さんは異質でした。この掲示板での文章を読んでもそう思います。妄信的なクリスチャンではないと思います。でも時々ちらりと気になる発言をされることがあると感じます。「線引き」の是非はともかく、牧野さんはもはやクリスチャンではない、と思います。瀬棚の正人さんもそうでした。異端です。だから私はお二人が好きなのです。尊敬しているのです。田中さん、「一切皆苦」については同感です。私は、自分の子供のころからの親との関係にその根源を見い出しています。また考えをまとめて書き込みします。

私の信じる神
 投稿者:マッキー(管理人)  投稿日: 4月 3日(火)14時54分

  私の信仰がキリスト教としては明らかに異端であることは認めますが、自分はこれでもクリスチャンだと思っているのです。キリスト教徒という意味ではなく、イエスに従う者という意味で。
  さて、旧約聖書に、「コヘレトの言葉」(以前の口語訳では「伝道の書」)という一巻があります。読んでみると、これはほとんど仏教? と思うくらい、旧約聖書の中でも異彩を放っています。まず、「一切は空である。」から始まり、「人は労苦するが、すべての労苦は何になろう。」と言い、変わる事のない自然の姿について語ります。まさに諸行無常、一切皆苦という、仏教的とも言える世界観を示しています。そして、「人間と動物は同じ霊を持っているに過ぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべては一つのところに行く。すべては塵から成り、塵に返る。」と言い放つのです。これは、創世記にある「神が、すべての生物を支配させようと、神自身にかたどって人間を創造した。」という神話とは明らかに違う思想です。旧約聖書の中にも、このような思想があるのです。
  しかし、コヘレトの結論は、はっきりとしています。「神を畏れ、その戒めを守れ。」ということです。唯一神ヤーウェの姿は、決して一面的ではないのです。聖書の中でほとんどは、異教の神々、偶像崇拝のようなことに対して、徹底的に不寛容です。しかし、コヘレトの言葉では、そのような排他的な神は示されていません。
  邪教の神々を否定するということは、ユダヤ民族のアイデンティティーということでもあったわけですが、唯一神という考え方は、民族宗教に留まることを許しませんでした。イエスも、そのような真実の神についての考え方をつきつめたのです。
  ユダヤ教の神は、あいまいな態度を許さない裁きの神であるのと同時に、虐げられた者を救い、異邦人の権利を守る神でもありました。イエスは、そのような神にあくまでも忠実に生きようとしたのです。ユダヤ人の神ではなく、人類すべての父である神、そのような存在がもしあるのなら、どういう神なのかということです。
  それは、こう言い換えてもいいでしょう。キリスト教徒だけの神ではなく、すべての宗教を信仰する人、そして宗教を信仰しない人にとっても神である存在です。私の信仰する神とは、そのような神です。

ブッダとそのダンマ
 投稿者:マッキー(管理人)  投稿日: 4月 3日(火)23時43分

  田中さんが推薦されたアンベードカル「ブッダとそのダンマ」(光文社新書)を、ネットで注文して少し飛ばし読みしてみた。インドに仏教を復興し1億人という信者を獲得したこの書物に、仏教界からは賛否両論あるようだが、ブッダの思想を社会的平等実現の思想としてとらえ直したというところは、確かに大いに共感できる。
  ブッダが、差別の元凶となっているヒンズー教などの迷信を退けたということは、ユダヤ教におけるイエスと共通する点である。天上世界や往生思想、カルマ思想や輪廻転生などは、ブッダの否定したものであるというアンベードカルの意見に、私も賛成するし、そのようなものを迷信の類であると断定しても構わないと、私も思う。
  しかし、ブッダはそれだけでなく、魂の解脱や救済思想、創造神と宇宙の原理としての絶対者であるブラフマン信仰、アートマン(個我)あるいは霊魂信仰、これらのものを否定したと言っている。そして、人間の「心」だけが、世界を正しい方向に変え得るのであって、認知できない「神」や「霊魂」などを信仰するのは、間違っていると断定している。この辺から、私の信仰するキリスト教の核心とは全く違ってくるわけである。
  世界を変えるためには、心を変えなければならないというところまでは、同意できる。そして、真の宗教は実践されなくてはならないという考え方にも、同意できる。人間にとって幸福をもたらす教えでないものは正しくないとしたことも、律法主義を非難したイエスと全く同じで、合理的だし納得できる。
  しかし、「心」の修練によってこそ、正しい生き方ができるとしていることは、私には納得できない。それを絶対にできないと言い切ることはできないが、少なくとも私にはできそうにない。それが本当にできるのだったら、確かに神などは(存在するとしても)必要ないと言えるだろう。
  どんなに鍛錬しても、自分は完全になどなれないと気付くだけではないのだろうか? 自分が不完全であることを悟って、世の中を変え得るのだろうか? できることは、世の中に従うことだけではないのか? 私は、全く逆の発想をする。自分は無力であるが、絶対的な神が存在し、この世を支配していると考えた時にこそ、人間は良きにつけ悪きにつけ、尋常ではない能力を発揮することが出来るのである。それが真の神でなく現人神とされた天皇のような存在であってもだ。信仰の対象が、真の絶対的な存在である神でないのならば、それは悪い方向に働く可能性が大きい。だから、真の神以外のものを信仰するのは良くないと断言してよいだろう。しかし、真の神を信仰するならば、善を行なうことに、非常な力を発揮することが出来るのだ。そのような神への信仰があったからこそ、イエスは十字架の死への恐怖を克服して、正義のために闘うことができた。
  アンベードカルの説くブッダは、神や霊魂を認めることは宿命論につながるとし、そのことが社会的不平等を認め、社会の変革を阻害するとしている。しかし、神がそのような存在とは限らないのである。そのような神は、すべて偽物の神なのだ。偽物の神がどんなにたくさんいるからと言って、本物の神がいないという証明にはならない。

もう一歩踏み込むと…
 投稿者:Yabukogisky  投稿日: 4月 4日(水)00時30分

どうもおじゃまします。
牧野さんの直観は鋭くて悶えてしまいます(笑)。

>「心」の修練によってこそ、正しい生き方ができるとしていることは、
>私には納得できない。それを否定するわけではないが、それが本当にできるのだったら、

牧野さんの仰る神がロジカルなものであるというロジックと同じことなんじゃないですかね。
 それは、主観的経験のプロセスに忠実であるからこそ「一切皆苦」であるという認識は己の都合と独りよがりというジレンマを抱えざるを得ませんよね。となれば、おそらくブッダ以外の他者にとって仏教を理解しようとする態度がそもそも不合理な行為ということになります。田中さんの仰る「相づちが打てる人」であろうと「滅してしまいたいと思う人」であろうと、それを理解しているのかどうかを検証するのも独りよがりというジレンマの渦中に在ることになります。
 もしも仮に、仏教というものがブッダの主観的経験のプロセスを縁起説という教義として取り出し得たとしても、所詮ブッダの主観的経験のプロセスは誰にとっても外側のプロセスです。取り出し言及しようとした途端にまさに外側について自己言及しようとする神秘となって主観的経験のプロセスを逸脱してしまいます。つまり、仏教の前提を供給しているものがブッダである限り仏教はまさに非合理性に立脚していることになります。
 結局、主観的経験のプロセスに忠実であれば端的にブッダを断念しなければならないというジレンマとともに、そもそも主観的経験のプロセスというものがロジックの外側を想定した概念であるというジレンマが横たわっているのです。
 で、所謂、神が世界全体の創造者であると仮定したときのように、まさに神が世界全体を創造するするために世界全体の外側に在らねばならぬから人類の認識の外であるというロジックと同じことで、突き詰めると「信じる」ことこそが価値を有し、この世に有意性をもたらしているのだという、ぶちゃけた話し存在に意味が無い事の反証で、いや、意味が在るのかどうかさえも知る由もないという…夢幻…。
 ですから、社会や人の営みに対して、「真の」ですとか「本当の」ですとか「正しい」という価値判断は、ロジックの外の神のみぞ知るってことになりませんでしょうか?

さらに踏み込むと
 投稿者:マッキー(管理人)  投稿日: 4月 4日(水)01時53分

  神を「信じる」ことに価値があれば、神は存在しなかったとしても、損はないということになります。それならば、神の存在を問うのではなく、「信じる」ことに、本当に価値があるかどうかこそ、問わねばなりません。
  神が存在しないのならば、イエスの死は無駄死にだったでしょうか? イエスと一緒に処刑された殺人犯の一人は、「もしおまえが本当に神の子ならば、自分を救い、そして私も救ってみろ。」と言ったのです。イエスは十字架上で、それには答えず、「神よ、どうして私をお見捨てになったのですか?」と問うたのです。これだけでも、イエスが神ではない、十分な証明です。神は、その場では何も語らず、何もしませんでした。しかし、神はイエスを、キリストとして復活させました。これは、肉体としての復活ではありません。復活を信じる者に、その精神を蘇らせたということです。だから、イエスの死は無駄ではなかったのです。もっと正しく説明すれば、神が本当に復活させたかどうかに関わらず、正義の神が存在すると信じる信仰が、イエスを復活させたのです。神への信仰がなければ、イエスの死は無駄死にでした。だから、神を信じることに価値がないのではなく、神を信じないことに価値がないのです。これは、詭弁でしょうか? 私は、そうは思いません。
  ただし、何を信じるかということは重要です。あるかどうか怪しいものを、やみくもに信じることはできません。真実でないものを信じて得をするとは、考えにくいからです。だから、真の神がどのようなものかということは、常に追求し続けるべきなのです。
  「信じれば、救われる。」と、キリスト教をはじめとして色々な宗教で言いますが、決して「信じない者は、救われない。」というように理解してはならないし、イエスがこの言葉を語っている時は、「あなたは、救われている事に気付くべきであり、気付くことによって、さらに救いが充実したものとなる。」という意味であると思います。「信じない者は、救われない。」というのでしたら、それは脅しですし、「信じる者だけが、救われる。」というのでは、差別です。何を「信じる」かは、十分に問うべきですが、真実を「信じる」ことには大きな価値があると思います。

私は、イエスの死をソクラテス、吉田松陰の死と同じようなものと考えますが、それは間違いでしょうか?聖書は奇跡のオンパレードです。湖上を歩く、死者を蘇生させる、盲人や癩患者を癒す。玉川の丘で学んでいた清楚なシスターもPTA会長の牧師も、悲しいくらい真摯に聖書を 
投稿者:なかむら  投稿日: 4月 4日(水)04時50分

信じ、一字一句を研究している。ブッダの「相好」だってこんなものは化け物だ。ソクラテスや孔子の方が後世に真実が伝えられているんじゃないかな?牧野さんと田中さんの対論を読み、宗教の凄味を感じ興奮しつつも、同時に疑念も膨らみ冷めてしまう。まるで乙女の恋心。まさに「宗教はアヘン」。公立学校の宗教教育禁止の本当の理由がいまわかったような。こんな私に、釈迦とイエスについての安くていい本はありませんか?私には少しの間自分と対峙する時間が必要です。そして、うちの劇団の次の芝居の脚本のテーマは「宗教」にしたいと思います。

(無題)
投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 4日(水)07時57分

Yabukogiskyさん、
外を想定しない閉じた体系は、ひとりよがりですけど、共感する人がふえれば、ふたりよがり、三人よがり……となっていくので、さびしくはないです。

マッキーさん、
「ほんもの」さがしの旅へ、気をつけておでかけください。わたしは「完全」というものに興味がありませんし、冒険もこのまないので、おともはいたしかねます。
あと、些細なことですが、インドの仏教人口1億人、というのは、信者の数は数え方によって変わりますが、1億人というのは、サバの読みすぎだと思います。インドの国勢調査を信用すれば、約10億人の総人口中、仏教徒は0.8%だそうですから、せいぜいいって800万人台ではないかと思います。

なかむらさん、
仏教についての本としては、増谷文雄『釈尊のさとり』(講談社学術文庫)が、平明な言葉で語られていて、分かりやすく、万人向けだと思います。たなかのおすすめです。525円です。

イエスの非神話化は進んでいる
投稿者:マッキー  投稿日: 4月 4日(水)07時58分

  新約聖書の研究によって、イエスの真の言葉と考えられること、真の行いと考えられることは、明らかにされつつあります。イエスを知るためには、神の言葉として聖書を読むことをやめ、科学的な態度で聖書を読む必要があります。湖上を歩くとか、死者を蘇生させるという奇跡は、イエスが神の子でありスーパーマンであったとするための作り話に過ぎないでしょう。科学がこれだけ進歩した現代において、科学において否定されるものを未だに信じている人たちのことを、私は理解できません。人間イエスが、科学を超越したパーフォマンスをすることは不可能です。
  では、イエスのやったことは何であったのか? 神殿で暴れたことは、おそらく事実でしょう。イエスがスーパーマンであった証明の足しに全くならないどころか、マイナスの出来事とも言えますからね。病気の癒しは、よく解りませんが、聖書にこれだけ出てきますから、そのようなことを全くしていなかったとも考えられません。では科学的にどう説明がつくのかということですが、精神の病であれば、言葉によって癒されたという可能性もあるでしょうし、精神に影響を与えることで、肉体に変化を与えることもあり得ますから、全てを否定はできません。しかし、イエスが治せる病気など、ほとんどなかったでしょうし、あってもごくわずかであったと思います。できたことは、自然治癒力を最大限発揮させたということぐらいでしょうね。重要なことは、当時のユダヤにおいて、病気の原因は、罪があるからだとか(東洋においては前世の悪い行いだとか)、悪霊にとりつかれたからとか、考えられていたことで、イエスはそういう考え方を退けたということです。ブッダが霊を否定したのと同じことです。
  聖書に書かれた非科学的なものをできる限り排除してイエスについて説明したものを4冊推薦します。@田川建三「イエスという男」(三一書房、1980)、AA・ノーラン「キリスト教以前のイエス」(新世社、1994)、B滝澤武人「イエスの現場」(世界思想社、2006)、C川島重成「イエスの七つの譬え」(三陸書房、2000)。
 @は新約聖書学者によるもので、私はこの本を学生時代に読んでキリスト教に対する考え方を180度と言ってよいほど変えられた。Aはカトリックの神父によるものだが、特定の信仰を弁護するための本ではない。キリスト教の本質的なものは、この本が一番わかる。Bは私と同じ聖公会に所属する聖書学者によるもので、傾向としては@に近い。Cはキリスト教を信仰しないギリシャ文学者によるもので、イエスの真正な言葉と見なされる7つの言葉だけに解釈を加えたもの。いずれも2000円前後で手に入るはず。何なら、お貸ししてもいいです。

牧野さん、たなかさん、推薦図書ありがとうございます牧野さん、たなかさん、推薦図書ありがとうございます。早速、読んでみたいと思います。
投稿者:なかむら  投稿日: 4月 4日(水)08時43分

くどいようですが、私はお二人の対話の半分も理解できていないでしょう。しかし、お二人の情熱は伝わってきます。イエス好きの牧野さんと釈迦好きのたなかさんの対話は、不謹慎な例えですがビートルズファン対ストーンズファンの対論みたいで、熱くなるものの読者にとってはロック史がよくわかる・・・つまり仏教とキリスト教がよくわかるもので す。私のために(?)続けていただきたいです。私にはまだまだ知りたいことがあります。そのひとつはイスラム教のこと。今日の世界的諸問題、キリスト教対イスラム教の構図について学習したいのです。

宗教が元になる紛争
投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 5日(木)17時59分

なかむらさん、
わたしはイスラム教については、何も知りません。でも、やはり、知ったほうがいいと思いますので、勉強してみようと思います。
ソクラテスも孔子も、本を書いていませんね。ソクラテスはプラトンの本の中に書いてあるだけですし、『論語』は弟子たちが書いた本ですよね(「子曰く…」ですものね)。「ブッダもイエスも本を書いていません。そろいもそろって、みんなどうしてるんでしょう。昔は、印刷がありませんでしたし、字が読める人も少なかったので、思想は語って、弟子たちが口伝えで伝えるのが主流だったのでしょう。
日本の法律では、信教の自由が認められていますが、公教育では宗教教育をしないことになっています。これは矛盾ではありません。日本の法律の考え方の基礎は、「宗教はどれも間違っている、けれど、必要だ」ということです。正しい宗教があれば、国教にしていいわけですし、必要がなければ禁止していいわけですし。
わたしは、ある程度、基本的な宗教の知識は、学校で教えたほうが、カルトに対する免疫ができて、いいのではないかと思っています。教科書に載せるとなると、おおっぴらに議論できることにもなりますし。
宗教をめぐる論争をはたからながめて、面白がっていられるうちはいいのですが、対立がエスカレートすると、国と国の戦争にまでなりますから、怖いです。不合理な要素を含んだ宗教ほど、むきになって布教しようとしますから、注意が必要です。
聖典とされるものを読むだけでなく、その宗教を信じる人たちが、歴史の中でどのようなことをしてきたかも、勉強する必要があると思います。

戦争の根源は差別だと思う
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月 5日(木)18時48分

 イスラム教は、ユダヤ教、そしてキリスト教と同じ唯一の神ヤーウェを信仰している。アラーというのは、神への呼びかけの言葉に過ぎず、イスラム教でアラーという独自の神を信仰しているのではない。この3つの宗教は、すべて旧約聖書を聖典と認めている。したがって、エルサレムはこの3つの宗教すべてにとって聖地である。
  イスラム教がキリスト教と違うのは、イエスを単なる預言者としていること。ムハンマドこそが、最大にして最後の預言者であるとするのがイスラム教である。コーランという聖典はムハンマドが神の言葉を預言(予言ではない)したものを直接書き取って書物にしたものということで、ブッダやイエスよりは、確実に彼の思想を読み取ることができる。
  キリスト教国は、十字軍以来、イスラム教国と数々の戦争をしてきた。9・11以来の対テロ戦争も、十字軍的な思想が背景にあることは、否定できない。
  しかし、私は戦争が宗教によって起こるとは考えない。それは、表面的なことである。戦争の真の原因は、貧困をもたらす差別である。宗教や国家、民族などは、その貧困をもたらす差別を固定化するのに役立っている。従って、貧困から解放されるためには、差別を固定化している宗教や国家、民族と闘かわなければならないと、人は考えるのである。
  貧困はなく、差別もないのであれば、宗教が違っても、それだけで戦争をしようという愚かな人はいないと思う。パレスチナでユダヤ教徒とイスラム教徒が戦い、北アイルランドでカトリック教徒とプロテスタント教徒(聖公会)が戦うのも、そこに厳然とした経済格差があり、貧困があり、差別があるからだろう。
  イスラム教にはジハード(聖戦)という考え方があるらしいが、この辺りは、私にもまだどういうものかよく分からないので、勉強してみようと思う。

汝、殺すなかれ
投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 5日(木)21時42分

マッキーさん
> 戦争の真の原因は、貧困をもたらす差別である。
> 宗教や国家、民族などは、その貧困をもたらす差別を固定化するのに役立っている。
> 貧困から解放されるためには、差別を固定化している宗教や国家、民族と闘かわなければならない。

で、結局、「差別を固定化している宗教や国家、民族」と戦争するのですか。あ然です。

> キリスト教国は、十字軍以来、イスラム教国と数々の戦争をしてきた。9・11以来の対テロ戦争も、十字軍的な思想が背景にあることは、否定できない。しかし、……

マッキーさんの文章の特徴の一つがここ↑に表れています。
「確かに(A)である。しかし(B)である。よって(C)である。」という形式の、エセ弁証法です。(A)と(B)が発展統合されるのではなくて、(A)がほとんど無視されて、(B)≒(C)が結論されるのです。「うちの家計は確かに厳しい。しかしあたしにはほしいものがいっぱいある。よってお小遣いの額を上げなくてはいけない。」みたいな。
以前の文章で、同様な例をあげてならべてみますか。

> 貧困はなく、差別もないのであれば、宗教が違っても、それだけで戦争をしようという愚かな人はいないと思う。

 残念なことに、貧困や差別がないところでも、宗教の違いから紛争がおきています。自分が信じているものの根幹に触れるような考え方に出会うと、殺意が発生するようです。ふだんは自覚していなくても、いざとなると命を懸けて信仰を守ろうとする人は、いくらでもいます。愚かなことを信じて愚かなことをしてしまうのが、人間の悲しいところです。
 テーラワーダ仏教を信仰している人たちには、貧困も格差もありますし、差別されることもありますが、他宗教に対して戦争を仕掛けたことはありません。革命を起こしたこともありません。問題解決の方法論が、根本的に違うのです。

いわゆる四大聖人が本を書いてないことについて、私は最近次のように考えています。@実践主義のため本を書く時間がなかった。Aその実践は文字で伝えられるものでなかった。 私は教育関係の仕事をしてきましたが、二人の師がいまして彼らを見ていてそう考えたのです。
 投稿者:なかむら  投稿日: 4月 6日(金)04時51分

公立教員時代はタブーだった宗教も民間のフリースクールならば思う存分討議できます。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が同じ神を信仰する宗教であることに中高生や若者たちは一応に驚きますね。私は、同じ神を信仰しているからこそ、千年以上にわたって憎しみあい、殺しあっていると考えます。「貧富の差」は二次的な要素だと思っていました。もう一度整理してみますね。イスラム理解のためにイラクからの留学生(女医)と交流をもってイスラム教徒の生の声、キリスト原理主義者への思いをインタビューしたいと計画しています。

戦争を勧める宗教は、本当の宗教ではない
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月 6日(金)06時46分

  田中さんは、まだまだしつこいくらいに誤解している。私の文章をもっとよく読んで欲しい。私がべらぼうな論理なのではない。戦争をする人の論理を説明しただけです。だから、論理的に物事を考えられる人は、戦争をしないでしょう。私は、戦争を起こそうと考えるような宗教は、決して本当の宗教などとは考えません。
  田中さんは、自分の信じる宗教だけが平和を愛し、世界には戦争を奨励するような宗教がいっぱいあると考えておられるようですが、そのような考え方は、ぜひとも改めていただきたい。イスラム原理主義や、キリスト教原理主義には、戦争を肯定しようとするうような思想が内包されていることは否定できません。それを信じるものだけが救われる、という思想があるからです。上座部仏教を土台にして真理を得たと自称するオウム真理教が世界最終戦争(ハルマゲドン)を自ら演出しようとテロを起こしたことも、記憶に新しいです。確かに、そのように戦争を肯定する思想を持った宗教が、世の中にないとは言えません。しかし、真のイスラム教、真のキリスト教、真の仏教は、決して戦争を肯定する思想ではないと、私自身は考えています。(これは、あくまでも私の考えです。誤解されませんように。)

>残念なことに、貧困や差別がないところでも、宗教の違いから紛争がおきています。自分が信じているものの根幹に触れるような考え方に出会うと、殺意が発生するようです。ふだんは自覚していなくても、いざとなると命を懸けて信仰を守ろうとする人は、いくらでもいます。愚かなことを信じて愚かなことをしてしまうのが、人間の悲しいところです。

  田中さん、このことの具体例を挙げていただけますか。私は、そのようなことは決してないと考えていたものですから。信仰を守るために、殺し合いをしなければならない具体的な状況とは、どのようなものなのでしょうか。
  私は、どんなに田中さんに私の信仰を否定されたとしても、決して殺意は持ちません。それとも、このような信仰を持つ私に、田中さんは殺意を持つのでしょうか? もちろんテーラワーダ仏教を信仰するような方が、殺意を持つなどということはあり得ませんよね。疑うようなことを申し上げて失礼いたしました。
  確かに、神を信じない仏教は、これこそが神だと言い張る宗教に比べて、戦争を起こしにくいということは言えるのかもしれません。しかし、過去に仏教徒(田中さんに言わせれば仏教じゃないらしいが)も、結構戦争をやってきましたよ。神を信仰することは、排他的になることとは、必ずしも言えません。神を信じるものは、それを宣べ伝えようと論戦はするかもしません。イスラム教のジハードも、本来はそういう意味とのことで、戦争とは無関係だそうです。信仰を人に伝えるために、決して戦争をする必要はないのです。人が戦争をするのは、生死がかかっている時だけです。貧困は命を脅かします。しかし信じるか信じないかということで、人は生きたり死んだりはしません。もちろん、信仰によって生かされるということも否定はできません。しかし、まず人間の生死を決する根本は食べ物があるかどうかです。宗教戦争と言われるものも過去にはたくさんありますが、戦争の原因が、宗教にあるのではなく、宗教はその原因を覆い隠すために利用されているのだと思います。

いこじにならないで
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 6日(金)08時07分

 マッキーさんの文章の2大特徴は、エセ弁証法と、自分は「ほんもの」だから例外、とすることです。「本物」とか「本当の」という言葉が、根拠なしに出てくるので、信じる人は強いなあと、うらやましくなります。もう一度、マッキーさんの文を引用します。
(引用はじめ)
 キリスト教国は、十字軍以来、イスラム教国と数々の戦争をしてきた。9・11以来の対テロ戦争も、十字軍的な思想が背景にあることは、否定できない。
 しかし、私は戦争が宗教によって起こるとは考えない。それは、表面的なことである。戦争の真の原因は、貧困をもたらす差別である。宗教や国家、民族などは、その貧困をもたらす差別を固定化するのに役立っている。従って、貧困から解放されるためには、差別を固定化している宗教や国家、民族と闘かわなければならないと、人は考えるのである。
 貧困はなく、差別もないのであれば、宗教が違っても、それだけで戦争をしようという愚かな人はいないと思う。
(引用終わり)
 2段目の最後の「…と、人は考えるのである。」の「人」に、マッキーさんは含まれないのですか。一般の人の考えをなぞっただけだと言うのなら、2段目と3段目の間に、そのことを言わなくてはいけません。このままでは、ここに書かれていることに、マッキーさんが共感してると、読む人は受け取ります。

> 田中さん、このことの具体例を挙げていただけますか。私は、そのようなことは決してないと考えていたものですから。信仰を守るために、殺し合いをしなければならない具体的な状況とは、どのようなものなのでしょうか。

 わたし自身が、何度も脅迫されたことがあります。釈尊が神については考えない、としたのは、縁起説が認識の外を想定しない、閉じた体系だから、という意味もありますが、他宗教とのつまらないいさかいを避ける、という意味もあったのだろうと思います。
 宗教対立のはじまり、部族抗争は、宗旨の違いからはじまります。アフリカの紛争も、アジアでの紛争も、はじまりはみんなそうです。「あいつらがいるから、おれたちが貧しいんだ」と考えて戦争をする、なんて考えるほうが、よっぽどおかしいです。洗脳されているのではありませんか。現実を見てください。
 マッキーさんが言うように、貧困や差別が戦争の原因だとすると、戦争を仕掛けてくるのは、貧しい国、差別された民族で、豊かで強いアメリカは、それに応戦しているだけ、ということになりませんか。アメリカ側からは仕掛けていないと。マッキーさんは、そういう認識でいらっしゃいますか。
 オウム真理教のバジュラヤーナは、大乗です。なにせ、教祖が最終解脱したそうですから。
 人のよさそうな勧誘員からさそわれて、ちょっと勉強会にでかけたりしているうちに、仲間意識をもたされて、気がついたらいっしょになって他宗教を非難・差別しているっていうのは、オウム真理教だけではありませんでしょう?
 オウム真理教を考えるときには、彼ら彼女らが何をしようとしていたかをはっきりさせることが大切です。テロ・クーデター・革命には、膨大な資金が要ります。オウム真理教の資金提供者がだれなのか、ロシアやミャンマーとのつながりは何だったのか、そのへんを追究しないと、大切なことを取り逃がします。わたしは臆病なので、パスですが。

わたしからの要望
投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 6日(金)16時59分

 宗教の中の不合理な要素を排していこう、という方向性では、マッキーさんとわたしでは、同じだと思います。それから、怒りの要素(罪・裁き・処刑…)を多く含む宗教は、暴力的な方向に走りやすいのは、歴史的事実だと思います。テーラワーダ仏教が平和的な文化を持っていることも、事実でしょう。日本の戦争賠償も、仏典の言葉をひきながら放棄したほどですから。仏教が大乗になって、暴力性を持つようになった原因は、神格化した仏を登場させたことが、大きく影響していると、わたしは考えています。それから、「悟り」を神秘化したことと。不合理な要素を持ち込むと、それをまるごと飲み込ませるには、無理が出てくるのです。縁起説のように、理屈だけだったら、言葉で説明するだけですから、「話せば分かる」の世界ですけど、不合理な要素を含むようになると、「問答無用」で、丸ごと信じなくてはいけなくなるのです。ここに無理が出てきますし、背景文化が違う地域では、受け入れられなくなります。
 マッキーさんは、弁証法の(A)の部分を、せっかく分かっていらっしゃるのに、それを結論の(C)に生かせていない。それが残念なのです。(B)とともに、発展統合できたら、多くの人に受け入れられる考えを打ち出せるようになると思います。
 それから、都合の悪いところに「にせもの」のレッテルを貼って切り捨てるのではなく、なぜそれが悪い結果を生んでいるのかを究めていただきたいのです。マッキーさんのおっしゃる「本当の」「真の」という言葉に、リアリティーを持たせていただきたいのです。それをしないと、責任逃れで、逃げ回っているように思えてしまいます。
あと、

> 上座部仏教を土台にして真理を得たと自称するオウム真理教が世界最終戦争(ハルマゲドン)を自ら演出しようとテロを起こしたことも、記憶に新しいです。

これの「上座部仏教を土台にして真理を得たと自称する」という部分が確認できないのですが、だれがこう言っていたのですか。じょうゆう(←漢字忘れた)とか? よく知らない人が聞くと、テーラワーダ仏教がオウム真理教のようなものだという誤解を生んで、よくないと思います。オウム真理教の教義は、ヨーガと密教と、その他色いろを混ぜ合わせたようなもので、どう考えても、テーラワーダ仏教とはつながらないと思います。

ハルマゲドン
投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 6日(金)17時17分

今、気づいたのですが、ハルマゲドンって、ヨハネの黙示録に出てくるのですね。
 ところで、原罪について、それは人間の不完全性だと教えていただいて、分かったような分からないような感じなのですが、もう一つ分からないのは、あがない、ということなのです。これは、どういう意味なのでしょうか。教えていただけると、ありがたく思います。
 それに関連して、もう一つ、マッキーさんにうかがいたかったのですが、イエスは、自分のことを神の子だと思っていたのでしょうか。あるいは、周囲の人に「わたしは神の子だ」と言ったことはあるのでしょうか。

説明が下手ですみません。
投稿者:マッキー  投稿日: 4月 6日(金)19時35分

まず始めに、田中さんに誤解を生じさせるような文章を書いたことを謝ります。昔から私は、学校の教科の中では、国語が一番苦手でしたもので、どうぞご容赦ください。
  「人は考える」の人は、「一般的に人はそう考えやすい」、といでもいうような意味でして、私はそれに理解は示しつつも、共感はしていません。「私は、戦争が宗教によって起こるとは考えない」と最初に言ったので、理解してもらえると思ったのが間違いでした。説明が、あまりにも足りませんでした。貧困の原因は、そんなに単純なものでもないですが、私自身も、宗教や国家、民族というものが差別を固定化している事実はあると考えているのです。したがって、そのような宗教、国家、民族というものを、変えたり乗り越えたりしなければならないという風にも考えます。しかし、その手段として戦争は、最もふさわしくないものと考えます。貧困をなくすことは大切ですが、そのために戦争をしてよいとは決して考えません。私は、絶対平和主義者です。正義のための戦争などあり得ないと考えます。では、侵略されたらどうするのか。その時には、抵抗すべきと思います。「黙って殺されるべきだ。」とは思いません。しかし、そのために軍隊を持つことには反対ですし、どんな武器も一切必要ないと思います。
  「貧困や差別が戦争の原因だ」という考え方は、確かに一面的で、地域紛争のような場合にしか説明がつかないかもしれません。アメリカのやっている戦争は、ほとんど侵略戦争のようなものであると考えますが、貧困ではないけれど経済の行き詰まりというようなことが真の原因であろうと思います。つまり、イラクの場合には一番の狙いは石油でしょうし、中東での経済活動全般におけるアメリカ資本の自由を保障するため、さらにはアメリカ経済そのものが軍官産の協力によって成り立っているということもあると思います。軍需産業にとっては、戦争こそ好ましいものであるからです。いずれにせよ、宗教が真の原因であるとは思いません。ブッシュは、キリスト教原理主義を、利用しているに過ぎないと思います。

ぶり返すようですが・・・
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月 6日(金)19時48分

  オウム真理教に対して、資金提供者が誰であったか考えるという視点は、非常に大切なところだと思います。私は、オウム真理教が、合理的で科学的な宗教こそが真の宗教であると盛んに訴えていたことを思い出します。一流大学出身のエリートたちが多く入信したことは、そのような宗教に魅力があったからであって、決して仲良しグループに誘われてとか、思考能力を奪うような修行をさせて洗脳した、というようなことだけでは説明がつかないと思います。オウム真理教が本当に合理的かどうかは別として、宗教が合理的であるべきだとする考え方は、テーラワーダ仏教の態度と基本的に同じなのではないでしょうか。(怒ることの嫌いな田中さん、どうぞお怒りにならないで下さい。)
  オウム真理教もそうですが、色々な宗教を合理的に説明しようとして、あちこち都合のいいようにくっつけた宗教があります。幸福の科学なんていうのもそうですね。人類がアンドロメダ星雲からやってきただとか、モルモン教も真っ青になるほど一般人が聴けば合理的とはほど遠い荒唐無稽な教義なんですが、彼らはそれが合理的な教えであると信じているのですね。
  私は、宗教は合理的なものである必要はないと、今でも考えています。合理的であろうとすればするほど、真理は決して科学的や合理的な態度で説明がつかないということを悟るだけではないかと考えるのです。田中さん、どうか誤解されないで下さい。私は、合理的な考え方を否定しているのではありません。合理的に考えて、不合理であると判断がつくものは、決して信じるべきではありません。そのことには、私も同意しているのです。しかし、合理的に考えても説明つかないものは信じるべきではないとする態度は、決して合理的とは言えないと思います。信じるのも、信じないもの、完全に五分五分です。しかし、どちらか一方を選ぶしかないのです。(どうか、テーラワーダ仏教を、不合理な新興宗教と一緒くたに語ってしまったことについては、お許し願います。)
  キリスト教の核心は、裁きではなく、赦しです。これは、大乗仏教の親鸞の教えと共通しています。神を持ち出すことが、必ず暴力的な考えになるということには、私は反対です。私は、暴力には反対しますが、「怒り」というのは、人間にとって、とても大切なことであると思っています。これをなくしたら、生きている価値がないとさえ思うくらいです。もちろん、つまらないことに怒るのは、よいことではありません。しかし、こんなことがあってよいはずがない、と思うことに対して、怒る気持ちは必要ではないでしょうか。もちろん、変えることができないことに対しては、あきらめ、受け入れるしかありません。死んだ子どもを生き返らせることなどできません。しかし、変えることができることに対して、あきらめて受け入れるという態度は、私は大嫌いです。怒りの心は自然なものです。その怒りを、どのような行動に結び付けるかは、大事な問題です。「罪を憎んで、人を憎まず」という態度が重要であるとは思います。だから、イエスは「敵を愛せ」と言ったのだと思います。
  キリスト教でいう罪というものが、神から離れた状態であると以前に説明いたしましたが、原罪については、人間が神から離れて行こうとする傾向を持っている、ということではないかと思っています。「あがない」というのは、罪を帳消しにする、というようなことではないでしょうか。つまり、神と人間を再び結びつける、というような意味があろうかと思います。
  私は、イエスが自分が特別な「神の子」とは決して思っていなかったと確信します。イエスは神のことを「父」と呼んだだけであって、自分のことを「神の子」と言ったことは、決してありません。

説明補足
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月 6日(金)21時28分

  また舌足らずで誤解を生じそうなので、説明を加えます。「信じるのも、信じないのも、真理である確立は五分五分」という言葉についてです。だから、信じるのでもなく、信じないのでもなく、判断を下さないのが合理的な立場だと言われそうです。
  「神を信じる」の反対は、「神を信じない」です。「判断を下さない」ということを「信じない」と言っています。「神がいないことを信じる」ではありません。でも、五分五分なのは、「神がいる」ことと「神がいないこと」であるというのが正しい論法であって、「神を信じない」ことは、真理かどうかという問題ではなく、態度の問題と言われるかもしれません。
  しかし、神は、存在するか、存在しないかの、2つに1つです。もし、神が存在した場合、神を信じたことは、正しかったことになります。一方、神を信じなかったことは、真理を悟れなかったということです。逆に、神が存在しなかった場合、神を信じることは、誤ったものを信じていたということですが、神を信じなかったことは、正しかったと言えます。「信じない」という態度は、誤ったものを信じる危険を避けてくれることは確かでしょう。しかし、真理を失う可能性も、あるということです。私の言いたいのは、そういうことです。分かっていただけるでしょうか? 

合理性について
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 6日(金)22時32分

マッキーさん、
 ていねいに解説していただいて、ありがとうございます。マッキーさんが平和主義者であることが分かって、安心しました。
 いざというときは、侵略者を殺さないようにしながら、極力自分たちが生き延びる方法を考える、という選択しかないと思われます。今どきの戦争は、武器を持ってるから生き延びる確率が高まる、というようなものではありません。せいぜいやれて、逃げて隠れて、見つかったら「ごめんなさい」するぐらいでしょうか。ま、そういう事態にならないように、平時に戦争に抵抗することが、大切なのでしょう。
 合理性についての解釈の違いは、キリスト教と仏教の世界観の違いに由来するものです。
 キリスト教では、認識の外を想定していて、神はそこにいます。正しいか間違っているかの究極の判定は、神が下すものです。ですから、人間の判断は不完全なのです。人間の判断で合理的だと思えても、本当に合理的かどうかは、疑わしいのです(よね?)。
 一方、仏教は、縁起説の理屈から言うと、認識の外を想定していません。いわば、主観100%の世界です。ですから、自分で考えて正しければ、それは正しいのです。わたしが「正しい」とか、「合理的だ」とか断言できるのは、そのためです。神から見れば間違っているかもしれない、と言われても、わたしたち仏教徒からすれば、神が想定外ですから、この指摘は意味がないことになります。(神が存在しない、とは言っていません。念のため。)
 アンドロメダ星雲でも、何でもいいですよ、人に迷惑をかけなければ。すきにやってな、と思います。でも、そういうのを、これはいい宗教だからと、押し付けてこられたら、やめてくれと言うでしょう。
 マッキーさんが、テーラワーダ仏教を、あやしげな新興宗教と同列に扱ったので、お返しで言うと(怒らないでねー♪)、仏教の側から見て不合理だというの意味では、キリスト教も、あやしげな新興宗教も、同じなんです。でも、それを押し付けてくることなく、犯罪行為もしなければ、それこそ、何を信じようと自由でしょう。
 一口に言ってしまえば、わたしは、押し付けがましい宗教がきらいなんですわ。それだけです。キリスト教も、植民地の馴化政策として、各地に布教してきましたでしょう。ああいうのは、このみません。
 生物資源の分野で、「種の多様性」という考え方がありますが、宗教も、多様であっていいと思います。
 ついでに言ってしまうと、イスラム教もそうなのですが、いつも神に監視されているような窮屈さと、信者の方がたの、神にいいところを見せようとする優等生っぽい態度とが、わたしには、あずましくありません。このへんは、このみの問題でしょうが。
 押し付けがましい態度を取らない、ということについては、仏教の側にも言えます。わたしは、仏教についてたずねられたら、知っている範囲で、いくらでも答えようと思いますが、こちらから仏教を信じることを勧めることは、しないようにしようと思っています。

私も安心しました。
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月 6日(金)23時42分

  田中さんが、「押し付けがましい宗教が嫌い」と言ったので、私も実に安心しました。仏教の教義の説明をしていただいた時には、どういう考えでその教義を合理的と考えているのだろうと、少し疑念を抱いていたのですが、そのような私の疑念は晴れました。
  私も、キリスト教の、そういう押し付けがましいところは、実に嫌いです。特に原理主義というのか、狂信的・熱狂的なものを見ると、私は逆に一気に熱が冷めてしまいます。
 それが正しいかどうかということに関係なく、その輪に入りたくないと思ってしまうのですね。だから私は、自民党も共産党も嫌いで、静かな個人的アナキズムが好きなんです。神秘主義も嫌いですねー。有機農業でも、シュタイナーなんか、「何それ、何でそんな非科学的なことを大真面目にやるの」って思ってしまい、とてもついて行けないのですね。とにかく、冷めて考えてしまうのです。「本当にそうなの?」ってね。
  もともと私は、そういう性格なんでしょうね。野球だとか、ウルトラマンだとか、歌謡曲だとか、ロック・ミュージックだとか、年頃の子どもや若者が飛びついて喜びそうなものには、全然興味がわかなかったのです。キャーキャー騒いでいるのを見ると、何て馬鹿なことをやっているんだろうって、冷めた目で見ているような子どもでした。つまらないですねー。馬鹿騒ぎも面白いのですがねー。でも、それができない性格なんです。
  今でもそうですね、要するに「あまのじゃく」なんですね。人がこうだと言うと、つい反論してみたくなる。違う風にも考えてみられるんじゃないかってね。そういえば、親や先生に注意されても、よく口ごたえをして、さらに叱られていました。人間って意外と成長しないもんですね。
  では、なぜキリスト教を信じているかって? それは、日本では信じていない人が多いからかもしれません。きっとそうです。

@たなかさん、私は仏教を知るために中村元の本を数冊読み、彼のことは日本の仏教研究の第一人者だと思っていました。しかし以前たなかさんは彼のことを「困ったちゃん」と書かれていました。その理由がもっとくわしく知りたいです。差し支えなければお教えください。
 投稿者:なかむら  投稿日: 4月 7日(土)05時04分

Aこの掲示板でのお二人の対論を毎日欠かさず読んでいる高校生から質問です。「お二人は、人間が死んだらどうなると思いますか?」
 B私は次の芝居の脚本に仏弟子で殺人鬼だったアングリマーラを書きたいと思っていますが、もし、たなかさんのおもしろいお考え、見解がありましたら参考までにお聞かせ願いたいです。
 C流行嫌いの牧野さん。最近流行したマグダラのマリアとイエスの関係、イエスの子孫を守るシオン修道会の存在についてはどう思われましたか?急にバラエティクイズ番組の低レベルの問題みたいですみません。

AとCにお答えします。
投稿者:マッキー  投稿日: 4月 7日(土)07時56分

中村さんのおかげで、田中さんと有意義な論争ができました。色々と質問してくださってありがとうございます。
  人間が死んだら、死体が残ります。そして、それはやがて腐敗して土に還るのが本来の姿、そしてそれはいずれ植物の栄養分になり、生命は循環して行きます。でも今の日本でそのようなことは禁止され、死体は燃やされてしまいます。
  もちろん、高校生の方が聞きたいことは、人間の肉体のことではなく、心(=精神=スピリット)のことであると思います。精神が肉体を離れて、浮遊したり、天国へ行ったりということを、私は否定します。精神は、精神と精神のコミュニケーションによって、引き継がれるだけであると思います。テレパシーのようなオカルト現象も、信じようとは思いません。子どもや、友人や、先生だったら教え子、政治家だったら国民、文学者だったら読者、宗教家だったら信者、というように、この世にまだ生きている人の心に、言葉や行動の記憶を通じて引き継がれていくでしょう。自我ということで言えば、死んだら全てがおしまいです。天国も地獄も存在しないと思います。
  マグダラのマリアに関しては、イエスの最も信頼した人であり、事実上の妻のような存在であったと思います。新約聖書の中でも、十字架刑という最も重要な場面で、男の弟子たちがすべて逃げ隠れする中、マグダラのマリアだけはイエスのそばにおり、墓にも真っ先に駆けつけたことが記されています。新約聖書以外の外典や偽典と言われる物の中には、実際にイエスの妻であるとした書物や、イエスがマグダラのマリアに接吻をしたことなど記されているものがあります。教会においては、彼女が元は罪深い女で、つまり売春婦であったとされたりしていますが、彼女が元売春婦であったとする根拠はなく、マグダラのマリアに敵愾心を抱いていた弟子たちの一派により、不当なレッテルを貼られたのではないかと想像します。
  マグダラのマリアが子を産んだという記録あることを私は知りませんが、イエスに子どもがいたとは考えられません。もし万が一、隠し子がいたとしても、その子はイエスの人格とは別人格ですし、特別扱いする必要は全くないでしょう。イエスは実は十字架で死んでいないとか、インドまで行って伝道したなどという書物もありますが、義経伝説みたいなもので、後の創作物語に過ぎないでしょう。幸徳のように、イエスは歴史的に存在せず、全くのでっち上げだと言う人もいますが、話としては面白いけど、残念ながら事実には反していると思います。
  あらゆる文献や歴史的遺跡などを調べ、矛盾があるようなら、どちらが正しいかを科学的に判断するべきです。もちろん、科学的に絶対ということは少ないので、イエスは十字架で死んでいないという確立も0.000001%くらいはあるかもしれません。

マッキーさんありがとうございます。やはりマッキーさんは異端ですよね。熱心な(ふつうの)クリスチャとはケンカになるんじゃないですか?(まさにそれこそがイスラム教対キリスト教の憎しみあいの原因だと、私は考えるのです。違う神を信じる奴は無視すればいいが、同じ神を
投稿者:なかむら  投稿日: 4月 7日(土)14時43分

信じている奴からの異論には憎さ百倍)マッキーさんは新宗派を興すべきです(半分冗談、半分本気)。今回、たなかさんとの対論で、たいへん勉強になったと同時に、マッキーさんのお人柄がよくわかったような気がします。やはり学校を創ろうなどと考える人はひと味違いますね。ところで、肉体消滅後の霊魂の存在を否定することについては、幼稚な表現ですが、私はなんとなくさびしい気がします。世の中にはいろいろと不思議な話(臨死体験など)がありますが、マッキーさんは一切信じないのですか?(話題が再びバラエティ番組化してすみません)

中村元の「仏教」について
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 7日(土)17時45分

なかむらさん、
 中村元が日本の仏教研究の第一人者であるというのは、そのとおりです。書物をとおして、わたしもお世話になりました。「困ったちゃん」だというのは、仏教の核心的思想である縁起説を隠すような形で仏教を紹介するからです。
 日本で初期仏教が研究されるようになったのは近代に入ってからで、それまでの日本にはほとんど、中国経由で入ってきた大乗仏教しかありませんでした。日本で初期仏教が「再発見」されたとき、その内容が、大乗仏教のそれと大きく違うものであることが、研究者たちを驚かしました。初期仏教にある縁起説は、大乗の思想を真っ向から否定する内容を持っていました。日本人はそれまで、大乗の経典は、釈尊の直説だと信じていたのですが、研究の結果分かったのは、それらが後代の創作だったということでした。
 中村元の仏教の紹介のし方は、初期仏教と大乗が矛盾しないようなところを選んで紹介するようなし方です。彼が語るのは、対立のない無難な「仏教」です。初期仏教の側にとって致命的だったのは、縁起説を隠された、あるいは独自の解釈によって変質させられたことでした。
 釈尊が生きていたころから、今日までの間に、釈尊の思想に夢中になった人たちがおおぜいいます。実際、ものすごくおもしろいのです。「中村仏教」は、釈尊の思想の核心の部分を隠そうとします。だから、つまらないのです。そのあたりの事情を指して、「困ったちゃん」だと、わたしは言いました。
 松本史朗さんの「仏教の批判的考察」という文章(溝口雄三他編『アジアから考える[7]』東京大学出版会、所収)の第1節は、「仏教解明の方法――中村元説批判」と題されていて、なぜ中村元の仏教紹介の方法が間違っているかを、学問的にきっちり指摘してあります。これは、今は手に入りにくい本ですけれど、興味がおありでしたら、図書館に注文すれば、取り寄せてもらえると思います。
 なお、蛇足ですが、「困ったちゃん」というのは、若い方はご存じないと思いますが、これは昔、ロンパールームという子ども向けのテレビ番組がありまして、そこで使われていた言葉です。「困ったちゃん」の反対は、「ニコちゃん」といいます。
 死んだらどうなるか、とのご質問ですが、たぶん、テレビのスイッチを切るみたいに、すべてが消えて、終わりになるのだと思います。
 アングリマーラの話で「おもしろい見解」と言われても、困るのですが、わたしがあの話でおもしろいと思うのは、釈尊が自分のほうからアングリマーラを訪ねていく、ということです。こういうのは、めったにないことですよね。だれも手をつけられない殺人鬼=凶悪連続殺人犯に対して、釈尊は、自分が何とかしなくては、と思ったのでしょう。そして、みごとに解決します。ああいう、手をつけられないような人物を受け入れる宗教教団は、他にはありません。仏教教団の懐の深さを示しています。それにしても、「わたしは止まっている」という、トリッキーな決め台詞のあの場面を、なかむらさんがどのように演出なさるのか、興味があります。

たなかさん、ありがとうございました。簡潔かつ的確な説明でよくわかりました。ところで、釈迦の仏教をほぼ純粋なかたちで継承している国あるいは宗派というのはテーラワーダ仏教の他にあるのですか?かつて新婚旅行で訪れたスリランカの僧侶たちはスリランカ仏教こそが釈迦直 
投稿者:なかむら  投稿日: 4月 7日(土)18時21分

伝の仏教だと豪語していました。一般の家庭でも熱心な仏教徒が多かったです。 さて、死んだらどうなるかということについて、たなかさんとマッキーさんは似たような見解を示されましたね。なんとなくさびしい感じです。やはり私は幼稚ですかね?
 余談ながら、にこちゃん、こまったちゃんは私もみていました。いっしょに牛乳を飲むのが楽しみでした。

いま、こどもたちを風呂に入れながら考えていたのですが、マッキーさんとたなかさんのいわゆる「死後の世界」の見解が似ているのは偶然ではありませんね。宗教というのは大概死後を扱います。私が思うに宗教の「インチキ度」が増すほどに「死後」の扱いが具体的になるのでは 
投稿者:なかむら  投稿日: 4月 7日(土)19時44分

ないでしょうか。ところがマッキーさんとたなかさんは死後をまったく問題にしません。「テレビのスイッチを切るようなもの」だなんて、そんなあっさりと・・・。お二人それぞれの釈迦とイエスに対する真摯さというか、誠実さというか、そういった態度の共通点は、お二人とも釈迦とイエスを通して人間の「生」を追求するところにあるのではないでしょうか。お二人とも釈迦とイエスの真実をみつけようとしていらっしゃる。そうなると宗教名の違いだけでもとめるものは同じ。方法論の相違でときに論争になる。私はお二人を尊敬します。ハレ・クリシュナ

テーラワーダ仏教
 投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 7日(土)21時57分

なかむらさんがスリランカでご覧になったのが、まさに、テーラワーダ仏教です。タイやミャンマーの仏教も、テーラワーダです。
 釈尊がなくなって100年ぐらいしたころから、仏教教団には、仏教を革新すると称して、分派する人たちが出てきました。分派は、経典やその解釈のし方や出家僧の戒律などを変えていきました。一方、少数ですが、何も変えようとしない、保守的な人たちもいました。革新派は、やがて消滅していきましたが、保守派は存続して、現在のテーラワーダ仏教につながっています。

私がこれまで「仏教」だと思い込んできたものが、・・・釈迦の教えを純粋に突き詰めるならば、「仏教」が「仏教」でなくなるということですよね。 
投稿者:なかむら  投稿日: 4月 8日(日)07時13分

これは仏教全体にとって、日本の歴史にとって、いや世界史にとっての大事件ですよね。とくに宗教の問題だから、ハイ、教科書書き変えましょう、ではすまないですよね。牧野さんのキリスト教論もそうですが、たなかさんの仏教論も、私にたいへんなことを気付かせてくれたみたいです。自分なりに整理してみます。

ハッピー・バースデー
投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 8日(日)08時22分

きょう、4月8日は、花祭り。お釈迦様の誕生日です。
生きとし生けるものが幸せでありますように!

ハッピー・イースター
 投稿者:マッキー@園主  投稿日: 4月 8日(日)09時45分

 今日は、キリストの復活祭、教会では、クリスマス以上に重要な日です。クリスマスは太陽暦ですが、イースターは太陰暦?なので、日曜日とは決まっているのですが、春分の後の最初の満月の後と決まっていて毎年日にちが違います。教会でも、生命の誕生をお祝いする日であり、カラフルに絵を描いた卵を配ったりします。
 今、選挙の投票を済ませてきたところですが、これから小樽の教会に行って参ります。

「怒り」について
投稿者:たなか@深川市  投稿日: 4月 9日(月)07時03分

「怒り」についてのマッキーさんの発言について、フォローしてなかったので、わたしの意見を述べておきます。
(引用はじめ)
 キリスト教の核心は、裁きではなく、赦しです。これは、大乗仏教の親鸞の教えと共通しています。神を持ち出すことが、必ず暴力的な考えになるということには、私は反対です。私は、暴力には反対しますが、「怒り」というのは、人間にとって、とても大切なことであると思っています。これをなくしたら、生きている価値がないとさえ思うくらいです。もちろん、つまらないことに怒るのは、よいことではありません。しかし、こんなことがあってよいはずがない、と思うことに対して、怒る気持ちは必要ではないでしょうか。もちろん、変えることができないことに対しては、あきらめ、受け入れるしかありません。死んだ子どもを生き返らせることなどできません。しかし、変えることができることに対して、あきらめて受け入れるという態度は、私は大嫌いです。怒りの心は自然なものです。その怒りを、どのような行動に結び付けるかは、大事な問題です。「罪を憎んで、人を憎まず」という態度が重要であるとは思います。だから、イエスは「敵を愛せ」と言ったのだと思います。
(引用終わり)
> キリスト教の核心は、裁きではなく、赦しです。これは、大乗仏教の親鸞の教えと共通しています。

そのとおりだと思います。ただ、ゆるしの前提になるのが罪で、この罪がなぜあるのかが、わたしにはまだ納得できていません。たとえて言うと、「あなたの借金を帳消しにしてあげます」と言われたような気分です。とてもありがたいのですが、「わたし、借金してたかな?」という疑問が残ったりします。

> 神を持ち出すことが、必ず暴力的な考えになるということには、私は反対です。

 こういうふうには、わたしは言っていません。何があっても寛容で、温和で、空気のように軽い神もあります。わたしが言ったのは、歴史的事実として、「怒りの要素(罪・裁き・処刑…)を多く含む宗教は、暴力的な方向に走りやすい」ということと、「宗教が不合理な要素を多く含むようになると、それを無理に飲み込ませようとして、強引になる」ということの2点です。

> 私は、暴力には反対しますが、「怒り」というのは、人間にとって、とても大切なことであると思っています。これをなくしたら、生きている価値がないとさえ思うくらいです。

 このへんは、仏教の発想とは、ずれている部分です。「怒り」もそうですが、「欲」=何かをほしいと思うこと、などについても、似たようなことが言えると思います。欲があるから、活力が生れてくるのだ、人類の文化が築かれていくのだ、というふうに、肯定的に考える人もいます。「怒り」をうまくコントロールすれば、いいことにも使える、という考え方なのでしょう。
 仏教では、「怒り」については、否定的に考えます。必ず有害な結果を生起する、と考えます。「怒り」は「怒り」を呼んで、早く対処しなければ、ますます困難な状況に陥る、と考えます。問題解決は、「怒り」を滅することによって、初めて実現する、と考えます。
 仏教では、「怒り」というものを、自分の外にあって、よいことにも悪いことにも使える道具のように考えるのではなくて、自分が今その中にあって、やがて苦しみを生起する原因となる経験である、と考えます。
 仏教というと、「怒り」なり「欲」なりといった、感情を抑圧する、禁欲的な宗教だと思われがちなのですが、もちろん、外側から見れば、そのように取られることも無理はないとは思いますが、仏教の本質は、感情を抑圧すること、禁欲することとは対極ある、感情の滅=感情からの解放にあります。実際に経験してみると、感情というものは、それをどのように抑えようとしても、決して抑えきれるものではない、ということが分かります。感情が生起する原因を考え、さらにその原因を考え……と知性的に追究していって、感情が生起する根本原因と、感情が生起するプロセスを理解したときに、初めてそれは滅するものなのです。そして、仏教の縁起説は、それをしたのです。

> 変えることができることに対して、あきらめて受け入れるという態度は、私は大嫌いです。

 あきらめて受け入れるのではなくて、怒りを滅して、冷静になって、問題解決の近道を見つけようとしているのだ、と理解してください。

> 怒りの心は自然なものです。

「自然」な感情だから、問題がない、放置していていい、ということではないと思います。

> 「罪を憎んで、人を憎まず」という態度が重要であるとは思います。だから、イエスは「敵を愛せ」と言ったのだと思います。

この部分は、おっしゃるとおりだと思います。

人間は、弱いものだから・・・
 投稿者:マッキー  投稿日: 4月 9日(月)23時55分

   怒りを滅して寛容になるべきであり、欲を滅して足るを知るべきであるということは、確かに真理と言えそうだし、特に現代という時代には必要なことであるだろう。不要な争いを避け、すべての人が必要なものを満たすためには、そのような心の修練が必要であるということも、よく理解できる。そういう意味では、ブッダの教えは全く正しいと思う。

  しかし、これを権力者が説くと、話は全く違ってくる。戦後の池田首相は、「貧乏人は(米を食わずに)麦を食え」と言ったことになっている(真相は少し違うようだ)が、このような発言は差別を温存し、世の中の不正義を正そうという力を抑圧することにしかならない。だから、言葉というのは、誰が語るかによって、その意味も変わってくることにも注意しなければならない。もちろん、ブッダは元王子だったとはいえ、出家したので、彼の言葉が抑圧になるとは思わない。

  釈迦が、怒りや欲を滅しようとしたことは、それらによって人間関係のトラブルが生じているから、それらから解放される必要があると考えたからであろう。しかし、怒りや欲望という感情は、トラブルを生じさせるために存在するものではない。怒りというものは、本来あるべき姿でない状態になった時に、生じる自然な感情だ。それをコントロールすることは必要だが、滅する(この言葉の意味が、まだよく分からない)必要があるのだろうか。欲望もそうである。無限の欲望はよくないが、人間にとって最低限必要な欲望というものもある。食欲を失えば、栄養失調で死ぬだろうし、性欲を失えば、子孫を残せなくなるだろう。そのような欲望まで、滅しなくてはならないのだろうか。

  感情と理性と、どちらを優先すべきかと言えば、ほとんどの場合は理性であることを否定はしない。しかし、感情を優先すべき時も、あるのではないだろうか。もちろん、感情のおもむくままに行動することは避ける必要があると思うけれど、時には感情を爆発させることで、世の中が変わることもあるし、救われることもある。本当に悲しいときには、感情をこらえずに思い切り泣くことで、心が解放されるものだ。常に理性が勝たねばならないとは思えない。それはニヒリズムではないか。

  イエスは感情を抑えきれず、神殿で商いをする人の商売道具をひっくり返した。最後には、神を冒涜したというかどで捕らえられ、死刑になるのが判っていながら、自分の信念を決して曲げなかった。全く理性的ではないし、合理的な考え方ではない。神が復活させてくれることを信じていたから、理性的でいられたはずだという人もいるかもしれないが、私にはそんなことは信じられない。しかし彼は、救い主キリストとして何億の人に宣べ伝えられる存在になった。イエスが十字架ではりつけにされた時、逃げ隠れていた弟子たちは、同じように十字架に架けられることを恐れずにキリストを宣べ伝える人間に変えられた。神のなせる業は、人間の理性をはるかに超えている。

  私は、人間の理性を信じないわけではないが、それを超えた働きをする神を信じる。人間は、過ちばかり犯すものだし、正しいと思ってやったことでさえ、間違っていることが少なくはないものだ。それが、罪なのである。知っていて犯すものだけが罪ではない。神から見れば、人間はことごとく罪人なのだ。

  神を信じなければ、そのような罪の概念は必要ないだろうし、合理的に皆が平和に暮らすことのできる哲学さえあればよい。しかし、誰もがそんな強い人間にはなれないし、自らを律することができそうで、できないのである。だからこそ、大乗仏教というものが生まれたのだろうし、自らの弱さを知り、絶対的なものにすがるという信仰は、決して間違ったものではないと私は思う。

 

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