私のキリスト教信仰
 
    2003年1月に「えこふぁーむ・農民芸術学校」というタイトルのホームページ(ウェブサイト)を作り4年目になるが、この度新たにブログにも挑戦してみた。ブログというのは、日記風に更新できるウェブサイトの一種だが、この数年世界中で爆発的に流行していて、日本でも約1千万サイト、中国でも今年中には約1億のサイトに達する見込みだ。ブログは、特別なプログラムを使わなくても誰でも簡単にサイトを開設でき、公開された文章に簡単にコメントが書き込めるため、双方向のコミュニケーションがとり易い利点がある。しかし、1回のコメントで長い文章は載せられない(私の使っているヤフーブログの場合)ため、十分な議論をするには、やはり従来のサイト掲示板の方がよい。私の管理していた掲示板では、最近かなり難しい議論が白熱している。この通信の巻頭言では最近、この掲示板で述べたことを編集してまとめることも多くなってきたが、この1ヶ月間で私が述べたことは、とても載せきれる分量ではない。残念ながら、私の利用している無料掲示板サイトは、過去200件のコメントしか記録に残らないのだが、このまま消えてしまうのは残念な議論も多いので、最近の掲示板の一部をそのまま転載し、私の信仰の証しという意味で、この場に記録として留めておきたい。

私もおじゃまします。
投稿者:なかむら   3月11日(日)00時55分

正直なところ私には宗教というものがわかりません。釈迦もイエスもムハンマドも悩みぬいた「人間」ではいけないのでしょうか?とくにキリストの「奇跡」と「復活」については何百回説明を受けても納得できません。毛嫌いしているわけではありません。理解を欲しています。キリスト教に比べたら、法然や親鸞の教えには感動さえ覚えたし、二風谷でかかわったアイヌ人の宗教観にはまさに「神」を感じました。日本の「八百万の神々」もすばらしいと思います。乱暴な質問ですが、宗教とは何ですか?(神様にお尋ねしたいくらいです。・・・冗談です。)

神はどのような方か
投稿者:マッキー(管理人) 3月11日(日)09時16分

 イエスの奇跡や復活を信ずることが、キリスト教の信仰なのではありません。信仰の本質は、自分中心の生き方から、神を基準とした生き方に変わることであって、そのことを徹底して実践したイエスの生き方を模範とする者が、クリスチャンであると、私は考えます。そして、キリスト教の神は決して不偏不党ではなく、常に弱き者、虐げられた者、貧しい者の味方であり、強き者、虐げる者、富める者を顧みることはないのです。  聖書の中や、保守的なキリスト教には、そのようなことに矛盾する教えも内包されています。それは、ユダヤ教が権力と結びつき、キリスト教がローマ帝国の国教となる過程で、一層強固になりました。あくまでも権力と闘う教えであったものが、キリスト教の指導者たちによって歪められてしまったのです。そのような歪められたキリスト教ではなく、イエスの生き方にこそ帰るべきだと思います。
 奇跡とは、超自然的な、あり得ないことが起こることではありません。人間が、勝手にあり得ないと決め付けているだけで、今まで実現しなかった正しいことが実現することを、奇跡と言うのです。神が、自ら創造した自然を否定することなどはないと、私は信じています。
 イエスが復活したということは、死んだ肉体が蘇ったということではありません。そんなことを信じるのは、幼稚園児のレベルです。聖書に、そう書いてあるではないか、と。その通りです。聖書に書いてあることを、そのまま信じるのでは、余りに幼稚で、話になりません。コーランや仏典も同じです。なぜ、人の書いたものを信じるのでしょうか? 
 聖書が神の言葉だというのは、ナンセンスです。神の言葉は、この宇宙と自然だけです。人の書いたものには、皆間違いがあるのです。当然、私の書いたものにも、間違いがたくさんあります。別に信じる必要はありません。
 信じられるものって何でしょうか? 自然であり、神ではないですか? それ以外のものを信じる必要はないでしょう。だから、アイヌの宗教は、私もすばらしいと思います。キリスト教に比べて劣っているということは、全然ありません。私は、あくまでも、クリスチャン=キリスト者として生きようと思いますが、いわゆるキリスト教には、間違った点がたくさんあると思っていますから、キリスト教は変わらなくてはならないと思います。

初期仏教の場合
投稿者:たなか@深川市  3月11日(日)17時26分

なかむらさん、こんにちは。「宗教とは何ですか?」って、大きな問題で、一般論として、一口で答えるのは、むずかしいと思います。  わたしは、増谷文雄が訳した『阿含経典』のシリーズを読んで、宗教に目覚めました。初期仏教に限定して言えば、宗教は、人間の苦しみを解消しようとする活動だ、と言うことができると思います。わたしは、今は、「(宗)日本テーラワーダ仏教協会」の一会員として、仏教を学び続けています。他の宗教については、わたしはどれも信じられませんが、信じている人たちの信仰は、尊重したいと思います。宗教が憎しみをあおって、苦しみを再生産しているような場合は、それを信じている人たちに失礼にならないように、どう説明したらいいか、考えます。

仏教とキリスト教
投稿者:マッキー   3月11日(日)19時07分

 仏教は確かに、エコロジカルな世界を取り戻すために、重要な哲学を提供してくれると思う。シュマッハーの「スモール・イズ・ビューティフル」は、そのような示唆を与えてくれていたし、不殺生戒や瞑想といった仏教の教えは、平和に貢献するものと言う事ができるだろう。
 キリスト教が、余りにも人間中心思想を推し進めたために、科学文明の発達を促して環境を破壊し、人間の体と心の健康までも蝕むようになった、という歴史的事実は否めないだろう。十字軍や魔女裁判、植民地支配から現代の対テロ戦争に至るまで、キリスト教国が犯してきた罪といったら、すさまじいものがある。しかし、キリスト教国でない日本も、同じような罪を犯してきたし、その罪の原因を、キリスト教そのものに帰することはできない。キリスト教においても、カトリックの修道院などは、労働と祈りに全てを捧げるものであるし、清貧という点で、初期仏教にもかなり通じるものがある。どの宗教を選ぶかということよりも、どのような哲学を選ぶかということの方が、はるかに重要なのではないだろうか?
 では、キリスト教の出発点であるイエスは、どういう哲学を持っていたのか。世の中を憂いて清貧を説いたバプテスマのヨハネの教えに最初は従うが、最終的には虐げられた者と飲み食いを楽しみ、大酒飲みの大食漢と揶揄されても気にしなかった。人間の定めた戒めを全て否定し、人間の口に入るもので穢れたものなど何もないと言って、人間優先の思想を掲げ、神を冒涜する者としてユダヤ教指導層の反感を買った。
 しかし、イエスは「人間が何をしても許される。神などいない。」と言ったのではない。それとは全く逆に、ただ神のみを信じて、神の正しいとされることだけを行なうべき、と考えたのであり、そのために人間が勝手に作り上げた戒めを、認めなかったのである。初期キリスト教は、イエスの教えに忠実であろうとした。しかし、それゆえに権力からは、すさまじい迫害に合った。それでも、キリスト教の宣教の力は衰えなかった。そこで、キリスト教の力を恐れたローマ帝国は、逆にキリスト教を取り込んで、権力によって危険でないものに変質させて行ったのである。そうして、イエスの教えは、都合のいいように捻じ曲げられてしまった。聖書はすでに、そういった妥協の産物であり、あまりにも矛盾点が多いし、イエスの思想をストレートに伝えてはいない。
 イエスはもちろん、神を冒涜などしなかったし、人間が傲慢になることを良しとしたのでは決してない。ただ、様々なくびきから、虐げられた人々を解放しようとしただけなのだ。貧しい者同士、分かち合うことが大切だと教えただけである。権力者が清貧を説く時には、それは抑圧となる。貧しい者が分かち合うときには、そこには解放がある。
 世界はこれから、エコロジカルで持続可能なものにならなければならないけれど、そのために貧しい者がさらに抑圧される社会になってはいけないと思う。富を求めず、つつましく生きるのは正しいけれど、楽しくなかったら何にもならない。

  マッキーさん、たなかさん、ありがとうございます。余談になりますが、私が小学校教師になったばかりのころの話です・・・。
投稿者:なかむら   3月11日(日)21時07分

児童を校外学習に連れ出したとき、止むを得ない事情である大きな神社の境内で水飲み休憩をとりました。翌朝、牧師の保護者から猛抗議を受けたのです。「邪教施設の敷地にうちの娘を入れるとは何事だ!」もちろん、宗教オンチの典型、すべては私の責任です。しかし、宗教というものは多かれ少なかれ排他的なものだと思いませんか? もうひとつの質問です。釈迦もイエスも悩みぬき苦しみぬいた一人の「人間」とみることはいけないのでしょうか?ブッダとキリストではなく、人間釈迦と人間イエス。いかがですか?

そんな牧師は最低だ!
  投稿者:マッキー(管理人)  3月11日(日)22時20分

 戦前、天皇のために祈り、神社で参拝もした牧師がいる。それは、国家神道の圧力、権力に屈したのであって、唯一の神を裏切った行為であった。しかし、それとこれとは話が違う。神社の境内は普通、教会の敷地よりも開放的な空間であるし、どんな神社だったか分からないが、自由に水を飲むことができるような場所を、邪教施設なんて言うこと自体、おかしなことだ。そのように人を受け入れる神社の方が、そんな牧師のいる教会よりも、ずっと神に近い場所にあると思う。
 初詣は神社へ行き、教会で結婚式を挙げ、葬式はお寺、普段は宗教と全く縁のない生活、という節操のない典型的日本人を褒めるつもりはないが、色々な宗教に寛容であることは、悪いことではないだろう。私自身、仏教の葬式に出席して焼香もするし、お寺参りは結構好きだし、神社で手を合わせることもある。けれど、仏教を信仰しているのではないし、神社に祀られている色々な神様を拝んだりはしない。靖国神社のように、天皇のために戦争で戦った人を神として祀る神社もあるし、特定の権力者を祀っている神社も少なくないから、そういう神社で拝むことは、さすがに拒否するだろう。
 要するに、多かれ少なかれ排他的というようなものではない。信仰を持つのであれば、是々非々の立場で臨むべきである。しかし、単に自分と信じるものが違うというだけで、拒否をするという姿勢はおかしいだろう。もちろん、譲れないことを譲る必要はないし、そうすべきではない。それは、別に宗教なんか信じていなくても、同じことである。私の場合、天皇に対する忠誠だとか、愛国心などというようなことを強制されることに対しては、断固拒否するつもりだ。
 私はクリスチャンだが、別に他の宗教を否定しない。キリストを信ずる者だけが救われるなどという、福音主義的選民思想は、大嫌いである。仏教にも、神道にも、キリスト教にも、それぞれ他の宗教に勝る良い点を持っているし、逆に欠点をあげつらえば、またきりがない。自分の信仰するものだけが、真理であるかのように語る、そういう多くの宗教家を、私は決して信用しない。
 シャカもイエスも悩める人間だった。当然のことです。私は、悩まない人間なんか、好きになれないし、信用もしない。イエスなんて、十字架の死を受け入れるのに、どんなに悩み苦しんだことか。そうでなくては、多くの人の苦しみを贖うことなんか、できるはずがない。

燃えるか、覚めるか
投稿者:たなか@深川市  3月12日(月)08時33分

マッキーさんのキリスト教解釈は、熱いです。周囲を観察しながら、「自分はこのへんにいる」と宣言するような態度が、いさぎよく感じられます。
 どの宗教を選ぶかではなくて、どのような哲学を選ぶかが大切だ、というご指摘は、もっともだと思います。キリスト教は全部一緒じゃないんだ、という意味では、そのとおりです。でも、哲学も、流派の名前が付いて群れはじめると、宗教の宗派のように、狭量な敵愾心が生れかねません。宗教の質を判断する基準としてわたしが注目することをお勧めしたいのは、問題解決の方法です。たとえば、社会関係の中に対立する力構造を認識して、その一方に加担する方法があります。弱者・しいたげられる側に立つ、というのも、そのような方法の一つです。それとは別に、対立構造が現れるしくみを明らかにして、原因にさかのぼって解決を図ろうとする方法があります。わたしたちの精神に苦しみの芽があるとして、瞑想を勧める、というのも、そのような方法の一つです。「方法」という基準で整理すると、宗教現象が理解しやすくなるのではないかと、わたしは思います。
 なかむらさんの「人間釈迦」という考え方には、同感です。仏教経典の中にある超自然的な表現は、増谷文雄の言葉で言えば「文学形式」だ、ということになると思います。そのような場面では、たいてい、「釈尊は顕現を現して…」と断ってあります。手品ですから、タネはあるわけです。ブッダは、たいていの場合は、言葉で教えるのですが、やむをえない場合には、錯覚を利用することもあったのか、あるいは、ブッダがかもし出す雰囲気にのまれて、周囲の人たちが自分から錯覚していったのか、真相を知るには、聖書と同じように、経典の批判的分析が必要なのかもしれません。

ご意見ありがとうございました。 
投稿者:なかむら   3月12日(月)11時33分

マッキーさんのようなお考えのキリスト者は残念ながらごく少数ですよね。既成のキリスト教からは異端視されるのではないですか? マッキーさんに、幼稚ながらズバリ質問します。イエスは私たちと同じ「人間」ですか?それとも「神の子」ですか?また、マッキーさんの語られる「神」とはどんな姿をしているのですか? たなかさんにも同じく幼稚な質問を。釈迦も私たちと同じ「人間」ですか? 妙チクリンな質問でお気を悪くなさらないでください。私はまじめです。お二人(皆様)の率直な考えを聞かせてください。お願いします。

釈尊は人間です
投稿者:たなか@深川市  3月13日(火)09時00分

なかむらさん、ご質問の件ですが、釈尊は実在の人物です。いつ、どこで生れたかも、分かっています。幼名は、ゴータマ・シッダールタといいました。かなり裕福な家庭で、苦労することなく育ちました。結婚をして、男の子どもが1人います。最期は、食中毒で亡くなっています。
 テーラワーダ仏教では、よく三帰依文といって、三宝(釈尊・釈尊の教え・僧集団)を尊敬して従うということを唱えます。ものごとをならべるときに、大切なものから順にならべるのが、インドの慣習です。三宝で必ず真っ先に釈尊をもってくるのは、縁起説という非常にオリジナリティーのあるアイデアを思いついて、わたしたちの悩み・苦しみの滅し方を教えてくれた釈尊への感謝の気持ちの表れであろうと、わたしは考えます。
 釈尊の教えとして伝えられるものの中にも、いろいろなごみがまぎれこんでいます。なぜならば、釈尊は、釈尊が生きていた時代のインドの人たちに向かって自らの宗教哲学を説いたので、伝統的な概念(言葉)を利用しなくてはならなかったという事情と、また無文字社会でしたから、弟子たちが理解したことを口伝えで伝えてきたという事情とが、ありました。そういうごみの中から釈尊の宗教哲学のオリジナリティーを見つけるには、瞑想を実践して、お経を聞いて(読んで)、各自が気づいていかなくてはならないのだと思います。まぎれこんだごみを釈尊の教えだと勘違いしないように注意しないといけないと思います。
 ご質問の件に戻りますが、釈尊は人間です。わたしたちは、その教えを理解して、実践することによって初めて、幸せになることができます。ですので、釈尊をただ神様のように拝んでも、ご利益は期待できないと思います(笑)。

神の子とは? そして神とは?
投稿者:マッキー(園主)  3月13日(火)13時06分

 「神の子かどうか」という問いの前に、まず「神の子とは何か」と問わなければならないだろう。イエスは十字架の刑に処せられる前に、「お前は、神の子なのか?」と問われ、「それは、あなたが言っている事です。」と答え、自分では自分ことを「人の子」と言っていた。聖書でパウロは、イエスのことを「神のひとり子」であると言っている。そのひとり子が十字架に架かって死んだことにより、アダム以来の人類の罪が贖われたのだと言う。しかし、私はこのような神学を信じない。そういう意味では、正統的な神学を否定する。キリスト教徒以外には、このような神学は何の意味も持たないし、そもそも、それを信じることがイエスの教えにかなっているのかどうかということは大いに疑問である。私は、パウロの教えではなくイエスの教えに帰ろうと思う。余談だが、内村鑑三も、イエスの教えに帰るべきだと言った。しかし、彼を引き継ぐ無教会派は、聖書に帰るべきだと言う。だから私は、内村鑑三を尊敬するが、今の無教会派は既成宗派にない優れた点があるのは認めつつも、余り好きにはなれない。
 「イエスは神の子か」という問いに、単純に答えることはできない。神の似姿として神により造られたアダムが神の子であるとすれば、イエスも神の子であるし、ガンジーが最下層の不可触民を神の子(ハリジャン)と呼んだように、最も大きな苦しみを知っている人間は、神の子と呼んでもよいのかもしれない。そういう意味では、どんな人間も、神の子になることができる。しかし、神になることはできない。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、世界を創造した唯一神以外の何者をも、神とすることを認めていない。しかし、正統派キリスト教は、イエスは子なる神であり、父なる神と一体であるという神学を持っている。これは実にやっかいな神学である。キリスト教でも、古代アリウス派や、現代のユニテリアン、エホバの証人(ものみの塔)などは、イエスを神とは認めない。私も、そのようなユニテリアン的な信仰である。
 「神」はどんな姿か? という問いにはどう答えたらいいのだろう。私の理解では、神は宇宙の意志である。物理的な形は、もちろんない。人間の心の中にも存在するし、自然界のどこにでも普遍的に存在する法則のようなものと言ってもいいかもしれない。私の信じる神は、そのようなものだ。  

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