なぜ自殺するのか
 
    いじめによる小中学生の自殺が連鎖反応のように次々起きている。マスコミの報道がそれを誘発していることもあるだろうが、北海道滝川市の小学6年生の少女の自殺がいじめによるものだったと報道されてから、1ヶ月余りで、もう十数名の子どもたちが全国で自殺している。さらには、いじめが問題になった学校の校長まで自殺する始末である。文部科学省の大臣が緊急メッセージを発表したが、あんなものは何の役にも立たないだろう。言っていることはもっともだが、言葉に何の重みもないから、全く心に響かない。文部科学省としては、他にもっとやるべきことがあるのではないか。安倍内閣になって教育基本法も改悪されようとしているが、日本国憲法と同じで、今ある教育基本法の理念を実現してこそ、すばらしい日本、美しい日本になるはずだ。
 「人の命は地球よりも重い」という言葉は、もう死語になってしまった。「死んではダメだ。」なんて言っても、生きているのがつらくなったら、誰でも「死にたい。」と思うのは当然だから、余り説得力はない。だけど普通は、どこかで踏みとどまるものである。「死ぬのは、怖いことだ」と思っているからね。それでも自殺してしまう人は、どうして死を選んだのだろうか。答えは、簡単明瞭である。死ぬのが怖くなくなった時に、人は死ぬことができるのである。
  現代日本の小学生の多くが、死んでも生き返ることがあると信じているという。だから、「死ぬことは、逃げ道になる」と考えてしまい、安易に死んでしまうのではないかと、私は思う。滝川で自殺した少女の遺書などを読むと、そんな気がする。もっとも、いじめを容認する教師や、中には率先していじめに加担する教師がいること、いじめが問題になってもそれを隠蔽しようとする学校や教育委員会の体質などが、いじめ問題を深刻なものにしていることも事実だろう。しかし、それにしても何故、いじめなんかで自ら死を選ばなくちゃいけないのだと思ってしまう。リストラなどで自殺する中高年男性も増えているが、大人の世界にもいじめが多くなっているということなのだろう。今や日本は、ロシアと並んで世界でも突出した高い自殺率である。
 死にたいと思うことと、実際に死ぬことには大きな差があるはずだ。しかし、死に対するリアリティーを失い、死んでもおしまいじゃないと思った時には、死ぬことが選択肢の一つになってしまうのである。それは、生物的な死と、霊魂の死を同一視していないということだ。それは、多くの宗教でも同様である。かつて大日本帝国の特攻隊は、お国(天皇)のために死んで神になると信じ込まされ、帰還する燃料を積まずに敵艦に突っ込んで行った。そう考えなければ、とても命など捧げられなかっただろう。
  しかし、死んだらそれで全てがおしまいなのだ。生き返ることなどありえないし、天国で別の人生が待っているなんてこともない。そう考えたら、どんないやなことがあっても、絶対に生き延びて、もっといい人生を送ってやろうと思わないだろうか。悔いのない生き方ができた時にこそ、いつでも死を受け入れることができるだろう。こんな人生なんていやだと思ったまま、死んでしまっても、何もいいことはない。そんなつまらない死に方を、誰が選ぼうとするだろうか。今の子どもたちは、映画やテレビやゲームの中で、余りにも簡単に人が死ぬのに慣れているけれど、生身の人が死ぬところに遭遇することはまずない。だから、死というものにリアリティーがないのだろうし、生命がはかないもので、だからこそ大切にしなければならないということが分かっていないのではないか。親殺しや子殺しといった事件が多くなっているのも、根っこは同じだろう。
 人間にとって幸福は、この世の生にしかない。一度きりの人生を、いかによく生きることができるかどうかである。それは、今さえ楽しめれば未来などどうなってもいいということではないし、自分さえよければ他人はどうなってもいいということでもない。そんな生き方をしても、決して幸福を感じることはないはずである。宮沢賢治は、「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と言ったけれど、誰もがそういう気持ちを持っていたら、世界から憎しみも争いも消えるだろう。苦しみも喜びも共有できるような社会であって欲しいと思うが、現実はますます競争社会、格差社会となり、人々がどんどん分断される社会になっているようだ。
 いじめは、なぜ起こるのだろうか。私も小さい頃には、よくいじめられたが、人をいじめたいと思ったことは一度もなかった。いじめられるのはいやだったから、人にもそんないやな思いをさせたくなかった。だから、いじめる側の心理というのは、はっきり言ってよく分からない。いじめに加わらないと、自分もいじめられるから、いじめる側にまわる、という心理は分からないではない。強い者には媚び、弱い者には威張り散らす、という人間は決して少なくない。そういう人は、まあ人間というより動物に近いと言える。動物的な生存能力には長けていると言えるが、人間としてはレベルが低い。
  地球よりも重い人の生命って何なのだろう。それほどの価値とは何か。この言葉の意味は、地球が人間より価値が低いと言うことでもないし、人間の価値が何よりも大きいということでもない。人間の生命は、誰にも奪うことができないほど大きな価値があると言っているだけである。逆に、そのように言わなければならないほど、現実の世界では人間の生命が軽んじられているのである。では、なぜそれほどの価値があると言えるのか。それは、人間を超えた存在、絶対的な価値である神が、一人一人の生命を、この世に与えてくれたからである。だから、生命を否定することは、神を否定することでもある。神を畏れるならば、自殺は決してできない。
 釈迦もイエスも、死後の魂などは信じていなかったのである。仏教もキリスト教も、教祖の思想をねじまげて、死後の霊魂の不滅だとか、天国と地獄などというありもしないことを説いたりしているが、そのような教義は釈迦やイエスが否定したはずの、古い宗教の教えを引きずったものに過ぎない。永遠であり絶対であるのは、神のみである。人間は、その唯一絶対なる神を畏れ、この世の限られた生命の中において、神の国を実践するべきなのである。
 死んだら全て終わりというのでは、あまりにも空しいと思うかもしれない。しかし、決してそんなことはない。神の御心にかなった優れた精神は、他人にも大きな影響を与える。その人が死んでも、その精神は蘇ることができる。しかし、復活する精神は、それはもう私ではなく、新たな人格である。死んだら私は消滅し、無になる。でも、魂(精神)が連綿と引き継がれていくということも、また真理である。肉体も、元素に還元すれば、消滅はしていない。やがて土となり、再び生命となって、復活すると言うこともできなくはない。そうやって、生命も文化も引き継がれて続いていくのだが、しかしそれは、もう私自身ではない。
  この生命の連鎖のシステムを創造し、全てを支配している力こそ、神である。神だけが、永遠である。神は、物質ではないから形はないが、この宇宙の魂みたいなものと言ってよいだろう。人間は、この神に従い、神の御心に沿う生き方をすることによってのみ、幸福を得ることができる。神の国の実現とは、この世を神の支配する世界にするということである。マルコによる福音書では、イエスは神の国について多くの譬えで語っているが、後のマタイでは、これを天国と呼び変えてあの世に追いやっている。私は、この世とは別の世界というもの存在を信じないし、イエスも信じていなかったと思う。神が唯一であるのだから、世界も宇宙も唯一なのである。
  神が人間に自由を与えてくれたので、この世界は神から離れて自由に動き出した。そこに、人間の面白さやすばらしさもあるし、不幸もある。自由とは、神から離れることに他ならなかったのだが、神の国を求めなければ、決して幸福を得ることができないということにも、人間は気付かなければならないのである。
 残念ながら、この世から、決して不幸をなくすことはできない。人は、失敗を繰り返して初めて成功するように、不幸を経験しなければ幸福を得ることができないのである。何もかも恵まれているように見える人は、実は決して幸福ではない。どんなにお金や地位や名誉があっても、それだけで人は幸福にはなれないし、かえって不幸になることはいくらでもある。自分が不幸だと思える人こそ、実は幸福になることができるのだ。しかし、自分が余りにも不幸で幸せにはなれないと思って自殺してしまったら、その人は生まれて来ない方が幸せだったということである。そんな死に方だけは、して欲しくないものだ。どうか、すべての人が幸せのうちに、与えられた命を全うすることができますように。  

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