各種音律と、調性による色彩の違い
 
  梅津時比古著「セロ弾きのゴーシュの音楽論」(東京書籍2003)を読んだ。ゴーシュは、カッコウにドレミファの音程が違うとやりこめられる。賢治自身も、上京までしてチェロとオルガンをにわか仕込みで習っている。もっともチェロを習ったのはたった3日間だ。賢治は、手元にあるオルガン(平均律で調律されている)から長3度の音程をとってチェロで真似しても、カッコウが求めている(純正律の)長3度よりきれいに響かないことを悟っていたに違いないと、梅津氏は指摘する。賢治の音に対する感性は、極めて鋭敏であったのだろう。
  バッハの「平均律(これは誤訳で、心地よい音律の意)クラヴィーア曲集」は、現代の12平均律ではなく、中全音律であったと「えこふぁーむ・にゅーす」第157号に書いたが、これは間違いで、中全音律をさらに改良したヴェルクマイスターの第3調律法によって作曲されたということを、この本により知った。中全音律(ミーントーン)で第8曲変ホ短調のプレリュードを聴いたら、その神経を逆撫でする音程に驚くというのだ。梅津氏も、相当音に敏感のようだ。
  うちのデジタルピアノ(KORG SP−300)では、平均律の他に、ヴェルクマイスター第3法とキルンベルガー法の音律での演奏が可能である。残念ながら中全音律がないが、各音律でトニックの和音を弾き比べてみた。ヴェルクマイスター音律でのハ長調、ホ長調、ヘ長調の主和音は美しく、平均律の和音がひどく濁っていることがよく分かる。イ長調や変ロ長調もしっとりしている。ト長調はきれいだが、ト短調は汚い。一方、ロ長調はかなり汚いが、ロ短調になると美しく響き、変ロ短調は汚い。ニ長調も少し変だし、変ト長調や変イ長調、ロ長調などの主和音は聴くに耐えない。中全音律では、もっと聴くに耐えない音程になるので、当時ほとんどが中全音律で調律されていたオルガンについて、バッハはこれらの調で作曲してはいない(中全音律では、ニ長調は比較的きれいで、変ホ長調はもちろん、ホ長調も汚い和音になるので、ホ長調のオルガン曲もバッハにはない)。
 ヴェルクマイスターによる不等分平均律が発明されてやっと、バッハは長短24すべての調で作曲し、調性による特徴を生かした作曲を試みたのである。現代の12等分平均律では、どの調も性格は変わらないが、不等分平均律では、調性によって性格はかなり異なっている。
  ヴェルクマイスター法の欠点は、ニの音が低すぎるところだろう。キルンベルガー法では、ヴェルクマイスター法ほどニ音が低くなくて、ニ長調の和音もなかなかきれいである。どちらも、平均律では味わえない澄んだ響きを得ることが出来るが、調によっては少し狂って聴こえるし、一長一短がある。さて、デジタルピアノは音色も選択できるので、対位法がはっきりするチェンバロの音色を選び、平均律クラヴィーア曲集を何曲か弾いて見たが、さすがに第1曲ハ長調のプレリュードは、ヴェルクマイスター法ではすばらしく美しい。ミーントーンや純正律に近い響きがして、これを伴奏にグノーのアヴェ・マリアを弾けば、天にも昇るような気分になるだろう。同じ曲を平均律で弾いてみれば、音色が派手で軽薄になり、全く雰囲気が変わってしまうことが分かる。一方、第3曲嬰ハ長調のプレリュードは、ヴェルクマイスター法では、とても明るい。この調ではヴェルクマイスター音律はピタゴラス音律に近いのである。長3度も長6度も純正律より広く、輝かしさが増している。この曲をシャープ7つ全部削ってハ長調で弾いたら、平均律では何にも変わらないが、ヴェルクマイスター音律では天と地ほどに差がある。ヴェルクマイスターでこの曲をハ長調に移したら、ヴィヴァーチェの速さで弾く気にはとてもなれない。ショパンの曲も、多くはキルンベルガー音律に合っており、「黒鍵のエチュード」や、「子犬のワルツ」、「雨だれのプレリュード」などフラットの多い曲は、純正律や中全音律とは異なる鋭い響きに合った作曲がなされ、濁った響きになる和音は巧みに避けられている。
  音楽は、必ずしも進歩していない。音楽の構造という点においても、バッハに適うものは未だに現れていないと思う。12平均律の登場は、音楽の可能性を大きくしたし、利便性を高めもしたが、同時に繊細な感覚を無視し、豊かな表情というものを失うことにもなったのである。調性による雰囲気・色彩の変化というものは、ヴェルクマイスターやキルンベルガーなどの不等分平均律による鍵盤楽器の調律法により生まれたものと言える。一方、管弦楽においての調性感というものは、また違ったものである。ピアノ独奏が原曲のリストのハンガリア狂詩曲第2番は嬰ハ短調であるが、管弦楽編曲版では、そのままの調のものと演奏しやすいニ短調のものがある。平均律のピアノでは、例えニ短調で演奏したとしても雰囲気は変わらないはずだが、オーケストラでは、がらりと響きが変わる。これは、嬰ハ短調は弦楽器の開放弦が共鳴せず全く響かないが、ニ短調では輝かしく響くからであって、音律の問題とは全く関係がない。
 中全音律を含めた不等分平均律は、音ごとにピッチを変えることのできない鍵盤楽器の調律法として発明されたものであるが、フレットのない弦楽器は、自由に音程を変えることができるので、そのような難しい音律というものは必要ないし、旋律のきれいなピタゴラス音律でも和音の美しい純正律でもどちらでも音程をとることができる。人間の声も同様であるし、管楽器ではトロンボーンが自由に音程を変えられる。しかしそれ以外の管楽器は音ごとの音程の調整にはかなりのテクニックが必要である。 

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