オルターナティブな世界を創ろう!
 
  オルターナティブとは、「もう一つの」という意味であり、オルターナティブ・テクノロジーは「代替技術」とも訳される。これは、従来からの、より大きく、より速くといった、重厚長大路線とは一線を画す技術であり、エコロジカル(環境に優しい)、サスティナブル(持続可能な)、リサイクル(循環する)、そういったことを重視する。従来からのハードな技術に対して、ソフト・テクノロジーとも呼ばれる。「大きいことは、いいことだ」というキャッチ・コピーがあったけれど、「スモール・イズ・ビューティフル」(シュマッハー氏のベスト・セラー)と、従来の価値の逆転を求める。また、オルターナティブ・テクノロジーの分野で、一時盛んに言われたのがエントロピーである。エントロピーとは「乱雑さ、混沌さ」というような意味であるが、エネルギー保存則という熱力学第1法則と並んで、エントロピー増大則という熱力学第2法則がある。これは形あるものは必ず壊れ、元には戻らないというような意味だ。これに対しエコロジー(生態学)では、生物界は常にクライマックス(極相林)を目指しエントロピーを減少させる方向に働くことを教えている。そこで生命系ではネゲントロピー(=負のエントロピー)が働くといったりもする。なぜ、生物界ではエントロビー増大則が当てはまらないかということは、熱力学のとても難しい問題なのでここでは説明を省くが、エコロジカルな技術とは、エントロピーを増大させない技術と言うことができる。
 巨大でなければならず、厳重な管理が必要で、放射性廃棄物の処理方法さえ確立していない原子力発電は、エントロピーを極度に増大させる過去の悪しき技術の代表である。地球温暖化を促進しないとか、核燃料サイクルによってエネルギー問題を解決するという推進派の言い分は、原発の建設・維持・廃棄までをトータルに考えればウソと言える。
 しかし、自然エネルギーだからと言って、エコロジカルでサスティナブルとは限らない。住民を追い出し川の生態系を寸断し最終的には泥がたまって破壊するしかない巨大ダムによる水力発電、製造段階や処分段階で色々やっかいな廃棄物も出る太陽光発電、騒音が大きく渡り鳥にも脅威である巨大風力発電、熱帯雨林を切り開いて一面にサトウキビを植えバイオエタノール燃料を作ること、そういったやり方は望ましくないだろう。もっと小さなスケールで、発電せずに動力として粉挽き等をしていた昔の水車、太陽熱をそのまま取り込むパッシブなソーラーハウス、井戸の汲み上げに使っていたような小型の風車、各家庭のトイレやコンポストからメタンガスを回収するバイオマス発酵装置。そういう等身大のテクノロジーこそ、もっと研究され効率を高めて普及されるべきなのである。
 オルターナティブな姿は、技術だけでなく社会のあり方においても、求められていると言える。従来の資本主義国や社会主義国は、どちらも中央集権的な経済至上主義という点では共通していたが、そのどちらでもない姿とは、アナキズム(無政府主義)的な社会ということになるだろう。現在の極端なグローバル資本主義とは正反対に、個性的でローカルな地域自給的社会がたくさん生み出されるようになって欲しいものだ。反権力、脱権威によってこそ、真に民主的で差別のない平和な社会を築くことができる。株式会社でも国営でもない企業のあり方として、ワーカーズ・コレクティブという労働者自身の手で共同経営する協同組合的な民主的なものが最近ちらほら現れているが、このようなものがもっと一般的になり、企業だけでなく、役所、学校、病院、施設、そういったものも、上からの権威によらず、利用する側が主体的に利用できるものに、作り変えていく必要がある。
 そして、技術や社会だけでなく、我々の生活そのものも、オルターナティブに変えなければならない。マクドナルドに代表されるグローバル画一的なファースト・フードに対して、地産地消、身土不二に根ざしたスロー・フード運動が高まって来ていることは一つの希望である。身土不二というのは、その土地でとれたものを食べるのが健康にもよいという、医食同源の考え方が基本になっているが、食糧支配を許さないという自給運動でもあり、フード・マイレージ(食糧を運搬する距離が大きいほど、エネルギーを消費し、貨物船やジェット機によって水や空気を汚染する)を減らすという環境保護運動でもある。
 スロー・フードから発して、スロー・ライフ、LOHAS(健康で持続可能なライフスタイル)というような言葉もはやってきている。しかし、ファッション的にもてはやされているような部分もあって、これをまた商売にしようというところが気になる。べらぼうに高い健康食品や、オーガニック(有機)食品を見ると、決してオルターナティブなものじゃなくて、単に金儲けの手段に使われているだけのものが、余りに多いことが分かる。有機農産物は、朝市のようなところで農家から直接買うべきもので、デパ地下のこぎれいなオーガニック・コーナーでお高くとまった見栄えのよいJAS認定有機農産物なんてものを買っても、世界をよりよい方向へ変えるなんてことはできっこないのである。
 オルターナティブな世界が緊急に必要なことは、ローマ・クラブが1972年に発表した「成長の限界」で、すでに明確になっていた。しかし、30年以上たった今も、世界の進む方向は変わっていない。相変わらず石油だのみの技術が基本であり、都市一極集中はますます進み、地球温暖化や砂漠化の進行など地球環境の悪化は止まらない。私が就農した時、「10年後には農業の時代になる」と、この通信でも豪語してみせたのに、現実はますます離農が進み、この5年間だけでみても、専業農家や懸命に農業をやってきた第1種兼業農家は3割も減少している。小泉政権が、いかに悪政を行っているかということだろう。
 やはり人間は、痛い目に合わないと、変わらないのだろうか。飽食ニッポンでは、スーパーマーケットに世界中の食材があふれ、コンビニで賞味期限切れの弁当が1日3回も廃棄される。一方、世界では何億もの人々が飢餓で苦しみ、この日本でさえリストラからホームレスになりコンビニで廃棄された弁当をごみ箱からあさって生きる人々がいる。こういう矛盾に満ちた社会で、のほほんと生きていいのだろうか?
 「農業は大変でしょう。私には、とてもできないけれど、立派だと思います。」と言ってくれる人がいる。別に、農業だけが大変な仕事ではない。どんな仕事でも、一生懸命にやれば皆大変だし、立派な仕事だ。でも、農業は、自給することができるという点で、他のどんな仕事とも違う。絵描きは売れない絵を食って生きることができないが、農家は売れなかった作物を食って生き延びることができるのだ。先月号で、農業だけでは食べて行けないかもしれないなどと書いてしまったが、それは現金が稼げないという意味であって、私はどんなことがあろうと農業をやめるつもりはない。私は、一人でも多くの人に農業をやってもらいたいと思っているし、オルターナティブな世界を創るためには、農業を生活の基盤にする人を、今よりもずっと増やさなければならないのである。
 この農場を、自給農園として開放するという話に対しては、今のところ余り反応がないのだけれど、ドイツのクラインガルテン、ロシアのダーチャのように、本格的な別荘を建てるということを、検討してもよい。ロシアでは、1995年のデータだが、主食であるジャガイモの約8割、その他の野菜もやはり8割が、自家菜園であるダーチャで生産されているのだ。だから、ソビエト崩壊後の経済破綻によっても人々はしたたかに生きて行けたのである。今の日本でそのような経済破綻がおきたらどうなるだろう。戦時中は、空き地さえあればイモやカボチャを植えたものだが、今の都会のマンション暮らしでは、せいぜいプランターでミニトマトやパセリを作る程度しかできない。やはり地べたが必要である。18世紀に、当時世界最大の都市だった江戸は、100万人の人口を近郊の有機農業で養っていた。今の東京は、食糧自給率わずか1%である。このような寄生虫のようなメガポリスは、遅かれ早かれ、いずれ滅びるしかないだろう。生き延びたいと思うならば、今のうちに、田舎を目指そうではないか!

>>>> えこふぁーむ・にゅーす見出し一覧