日本における農民高等学校(フォルケ・ホイスコーレ)の歴史 (2006. 5. 3. 一部訂正)
 

1. グルントヴィを日本へ紹介した人物

 デンマークの哲学者・詩人・宗教家であるグルントヴィが1844年に創立したフォルケ・ホイスコーレは、日本でも大正時代から昭和初期にかけて、「国民高等学校」と訳され、全国に設立された。フォルケというのは単に国民ではなく民衆のことであり、当時のデンマークにあっては即ち「農民」を指していた。グルントヴィは、国家を資本家ではなく民衆である農民が主体的に担うべきであると考え、そのためには農民にも高度な教育が必要であるとし、成人になった農業後継者が冬の6ヶ月寝食を共に学び、また夏の3ヶ月は農村女子を受け入れる学校を設立した。デンマークでは、各地にこのような学校が続々と生まれ、これらの学校の卒業生たちによって、農業(特に酪農)を主体とした自立した民主国家となることに成功した。絶対主義天皇制時代であった日本において、わずかにデモクラシーが光を浴びた大正時代、フォルケ・ホイスコーレを視察した内村鑑三(札幌農学校2期生でクラーク博士の下クリスチャンとなり、無教会キリスト教を創始した)が「デンマルク国の話」(1911、現在も岩波文庫で読める)を著し、東大の農業経済学者であった那須皓(しろし)がホルマン「国民高等学校と農村文明」を翻訳(1913)するなど、デンマーク・ブームが起こる。この、内村鑑三や那須皓の働きかけにより、各地に日本のフォルケ・ホイスコーレが生まれることになる。

2.日本において農民高等学校を創立した主体

  この時期、日本において生まれたフォルケ・ホイスコーレには、大きく分けると3つの流れがあった。1つ目は、プロテスタント主流派の日本基督教会の牧師らによるもので、教会などの施設を間借りして期間限定で開講され、30年代には全国各地で活発に開催された。日本に農民組合や農業協同組合を作る大きな力ともなったが、のちに農民へのキリスト教伝道ということが中心に変質していくと共に、力を失っていく。2つ目は、内村鑑三の弟子ら無教会派によるもので、これも大きな広がりは見せなかったが、山形の独立学園高校を始め、全国にいくつかこの流れの全寮制高校が存続している。3つ目は、この時代の皇道主義的農本主義によるもので、当初クリスチャンで古神道に改宗した加藤完治らによって担われ、のちに全国に広がり、特に満州開拓には数万人の青少年を送り出し、シベリア抑留などの悲劇を生む。傀儡政権下の満州国下でも多数の国民高等学校が設立されたが、すべて数年から十数年で敗戦と共に消えた。しかし、全国で何校かは、農業専門学校として形を変え継続している。

3.プロテスタント教会による農民対象の学校

 明治以降の日本は、天皇を中心とする地主と資本家により国家が担われていた。明治政府により地主を教育する機関として設立されたのが札幌や駒場の農学校であり、のちに旧帝大の農学部となる。それに対して、実際の農業を担っている小作・自作を教育するための学校としてデンマーク式の農民高等学校を作ろうと最初に努力したのは、キリスト教の牧師たちであった。その最初のものは、1913年に福島県小高教会を使って開かれた「農民高等学校」であろう。ここの杉山名元治郎牧師は、全国に名の知られた賀川豊彦牧師らと共に1922年、日本農民組合を結成し、初代組合長ともなる。組合本部は賀川の自宅であり、理事、評議員の大半はクリスチャンであった。その後、賀川は農村伝道団を組織し、組合運動より教化運動に力を注ぐようになる。1924年には、群馬県渋川教会を会場に、栗原陽太郎牧師により国民高等学校が設立され、「渋川民衆高等学校」と称した。他にも全国でこのような学校が作られ、ピーク時の35年には全国120の教会で農民対象の学校が開かれたが、これらは期間限定で開催されたもので、常設と言えるのは次の4つであろう。
 「日本農民福音学校」:兵庫県の賀川豊彦宅を会場に開かれ、杉山元治郎らも教師となり1927年から42年まで続いた。なお賀川は、キリスト教社会主義者の安部磯雄らと日本協同組合学校を33年に設立し、日本における農協、生協、健康保険組合などの基礎を作った。「武蔵野農民福音学校」:東京世田谷区祖師谷に、賀川の弟子である藤崎盛一により33年に設立され、大戦中一時中断したが、戦後再開して55年まで続いた。「豊島農民福音学校」:香川県豊島(てしま)に藤崎盛一が、賀川の提唱した立体農業を実践するために48年設立し、立体農業研究所も併設し、77年まで続いた。これら農民福音学校での講義は、一般的な農学的課目の他、立体農業(今で言う有機農業)、キリスト教関連、セツルメント論等であった。「利府農民福音学校」:35年に宮城県利府村で斉藤久吉牧師により始められ、「聖農学園」として66年まで続き、「利府農村センター」に働きが引き継がれた。また、ここで農業を学んだ後に岩手大で獣医学を修め岩手県山形村で牧師となった角谷晋次により「岩手三愛山村塾」が開かれた。
  なお、武蔵野農民福音学校内には、1938年に基督教農村文化研究所が作られ、戦時下では満州開拓基督教村構想など、国策にも協力した。戦後48年に農村教化研究所に改組され、51年に農村伝道神学校と改称した。日本基督教団では、全国に農村伝道センターというものも配置し、全国5か所の大センターと、60か所の地方センターが設置された。地方センターのうち「道北センター」(北海道名寄市)、「会津センター」(福島県高田市)、「関西農村センター」(兵庫県河西市)の3か所が現在まで存続し、農民に対する教育活動などを行っている。会津には立体農業を目指す立農会もある。また、農村伝道神学校による東南アジアの農村支援活動から発展した「アジア学院」が、73年栃木県西那須野に設立され、有機農業による自立を支援する活動がされている。
 この他に、酪農学園大学から始まった「三愛塾」と、「YMCA農村青年塾」という現在も続く2つの活動がある。これはいずれも、樋浦誠の尽力によるものである。酪農学園(北海道江別市野幌)は、北海道製酪販売組合(後の雪印乳業)と共に、デンマーク式の酪農の理想を北海道でも実現させようとした黒澤酉蔵により、1933年に「北海道酪農義塾」として始まった。ちなみに黒澤酉蔵は、国会議員を辞め栃木県谷中村で農民と共に命をかけて農地を守る闘いをしたキリスト者(正式に洗礼は受けなかった)である田中正造に、弟子入りしている。戦中に「機農学園」として皇道農本主義に基づく教育を行った反省に基づき、戦後49年に「酪農学園大学」としてキリスト教とデンマークの三愛主義を基本とした学園として再出発するのに伴い、初代学長として岐阜大学農学部から迎えられたのが樋浦誠(北大農学部卒業のクリスチャン)である。樋浦は、大学で学べない農村青年にも大学を開放し、50年から大学の長期休暇を利用した講習の他、道内十数か所、さらに全国各地でも三愛塾というものを開き、多くの講師がこれに協力した。現在でも、北海道の道北センター(名寄)、瀬棚、上富良野などで、三愛塾が継続されている。酪農学園にあった、酪農科全寮制の「機農高校」は、91年に女子高の三愛高校と合併して「とわの森三愛高校」となったが、従来通り酪農科は全寮制で存続している。
   一方のYMCA農村青年塾であるが、55年に「YMCA日本農村青年塾」が東京小金井で樋浦誠によって始められ、その後、静岡県御殿場のYMCA東山荘に場所を移して現在まで継続している。YMCAは、プロテスタント系超教派のキリスト教青年会のことだが、農村YMCAが日本で最初にできたのは1907年で、福島県長岡村(現伊達町)の長岡基督教青年会である。23年には長岡蚕業学校のキリスト教教師であった遠藤修司により長岡農村YMCAが作られ、31年からは農村青年向けの「YMCA冬季学校」も、長岡教会を会場に開かれている。

4.無教会派クリスチャン等による国民高等学校ほか

  1915年、「山形県立自治講習所」が、内村鑑三の弟子だった藤井武の奔走によって設立される。所長には、日本デンマークと呼ばれ農業先進地として注目を浴びていた愛知県安城市の「愛知県立安城農林学校」(現安城農業高校、1901年創立、日本のグルントヴィとも称された山崎延吉が初代校長)に務めていた加藤完治が招かれた。彼は熱心なクリスチャンであったが、古神道に転向して、後に日本国民高等学校を設立し、天皇主義的農本主義の推進役となる。無教会派は、内村鑑三以来、絶対的反戦平和主義、反天皇制というスタンスであり、この学校は無教会派の流れに属するものとはならず、33年には「山形県立国民高等学校」に改編された。
   1929年、札幌農学校1期生で、旧制水戸中学校校長を務めた後に東京興農園を設立した渡瀬寅次郎の遺志を継いで、静岡県沼津市久連(くづら)に「興農学園」が設立された。設立準備には、内村鑑三や新渡戸稲造や佐藤昌介、宮部金吾など札幌農学校時代のクリスチャンらが協力し、初代校長は平林廣人、その後大谷英一と、無教会派クリスチャンが校長を務めた。33年には「久連国民高等学校」と改称し、農村YMCAの冬季講座も開かれた。これは農業者対象の専門学校であったが、43年に閉鎖されてしまった。
   雪深い山形県小国を、欧米のキリスト教に毒されない無教会派の伝道拠点として評価した内村鑑三の意志を継ぎ、1934年に内村の弟子で東大物理学科出身の鈴木弼美が創立した「基督教独立学校」は、戦時中、鈴木が戦争と天皇制に反対して獄中に拘束されるなどの危機を乗り越え、戦後は無教会派の矢内原忠雄(のち東大総長)の弟子であった村山道雄山形県知事らの尽力により、48年に文部省認定の「基督教独立学園高校」となった。普通科高校ながら、部活動に農作業を取り入れ、食事の大半を自らの農場で自給し、自ら調理して食べる生活を現在でも維持している。同じように無教会派の全寮制高校として、61年に農村女子を対象にした「向中野学園高校」が盛岡に設立されている。ここは1933年に「盛岡生活学校」として始まり、55年に農村生活研究所を設立(88年に廃止)、61年に農村家庭科高校で発足し、98年に「盛岡スコーレ高校」と改称して総合学科となり、01年に共学となった。また、西日本にも独立学園と同じような学校が欲しいという要求で、1988年に高橋三郎により「キリスト教愛真高校」が島根県江津市に設立された。
  2003年に101歳の天寿を全うして亡くなった沖縄伊江島の平和運動家、阿波根昌鴻も無教会派クリスチャンであり、南米で10年ほど移民 として過ごした後、伊江島に帰ってデンマーク式農民学校 建設を志し奔走する。だが建設中の学校は沖縄戦 で失われ、一人息子も戦死。敗戦後、伊江島の土地の大半が米軍に強制接収された際、反対運動の先頭に立ち、日本政府との賃貸借を拒否し続け、農地を守るための非暴力闘争を死ぬまで続けた。
 また、やはり熱心な無教会派クリスチャンで、愛と協同による農村社会確立による日本再生を願い、1945年愛農会を設立した小谷純一により、農業を担う人材育成を目的として54年、三重県青山町に創立された「愛農学園農業高校」がある(58年までは「愛農根本道場」と称していた)。愛農学園高校では、有機農業が必修科目となっており、稲作・畑作・果樹・酪農・養豚・養鶏・山林と複合経営で農業の全てを学べる。また、愛農学園設立に協力した無教会派の小山源吾も、長野県諏訪で三愛教育振興会を設立し、「三愛講座」を各地で開いている。
  韓国にも、内村鑑三の流れを汲む無教会派キリスト教に基づき、自然農法を教える「プルム農業高等技術学校」があり、小谷の愛農会と同じように、元敬善が正農会という農民組織を韓国に広めた。以上挙げた無教会派の高校は、いずれも1学年30名足らずの少人数全寮制で、姉妹校の関係にある。
   以下では、日本基督教団と無教会派以外のキリスト教による、類似の学校についても列挙してみよう。93年に山梨県須玉町(現北杜市)に西條隆繁により創立された「キリスト教自然学園高校」(2004年に「基督自然学園高校」に改称)は、少人数全寮制で(現在は通学コース、通信制もある)礼拝、労作などの日課を設けているが、無教会派ではなく、社会的な視点や農業という視点もないようで、どちらかというとフリースクール的なもののようである。
   有機農法による自然食に力を入れているセブンスデー・アドベンチスト(土曜日に礼拝を行うキリスト教の新興一派)は、77年千葉県にある「日本三育学院」(1926年創立)に大学・短大を残し、全寮制の中高一貫校を環境の良い広島県大和町に移して「広島三育学院」を開校し、農業や炊事などの労作教育にも力をいれているようである。
   私の所属する聖公会(英国教会系、立教大学や聖路加国際病院など社会施設が多い)には、山梨県清里(現北杜市)にKEEP協会(清里教育体験プロジエクトの頭文字)というものがある。これは、アメリカの宣教師で戦後の疲弊した日本の農村社会を復興させることに力を注いだポール・ラッシュにより、48年設立された。38年に作られた清泉寮を中心にして、酪農による理想的な農村コミュニティーのモデルを目指し、48年に聖アンデレ教会、50年に聖ルカ診療所(95年廃止)、57年に聖ヨハネ保育園、63年に地元の農業青年向けに「清里農業学校」を開校した。この農業学校は76年で廃止されてしまったが、84年にネイチャーセンターが開設、2000年に「キープ自然学校」が開校し、青少年や一般市民を対象に、自然体験や農業(特に酪農)体験学習を行っている。
   カトリック教会においては、修道院において自給自足農業を連綿と続けてきた歴史があるが、農業教育への関わりは少ない。全寮制高校としては鹿児島や函館のラサール高校のようにエリート養成のボーディング・スクールだけであり、女子高といえば良家のお嬢様学校というところである。唯一の例外とも言えるのが、1929年に伊藤静江によって創立された「大和学園高校」(73年に聖セシリア女子高校に改称)で、従来の良妻賢母型の女子教育の概念を覆し、土に親しみ自然に触れることで神の摂理を理解させうようというものだった。45年には、従来無かった女子の農業専門学校である「大和女子農芸専門学校」を設立したが、50年に「大和女子農芸家政短大」となり、現在は「聖セシリア女子短大」となり保育科のみとなっている。
  また、札幌のスミス女学院(現北星学園大)に学び新渡戸稲造の薦めで米国に留学した河井道子が、1929年に東京世田谷区に設立した「恵泉女学園」も、現在は中高大学まで擁する学園に発展しているが、キリスト教とともに園芸を柱の一つにしている。土に親しむ園芸は、人間らしく生きることができ、環境を美しく整える女性に適した職業であると考えた河井道子は45年、神奈川県伊勢原市に「恵泉女子農芸専門学校」を設立し、50年には「恵泉女学園園芸短期大学」となり、長期に農村女性を育てて来たが、2005年ついに閉鎖された。

5.非キリスト教系の国民高等学校と農業専門学校

 ホルマンの「国民高等学校と農村文明」を翻訳した那須皓らが呼びかけて国民高等学校協会が結成され、1926年、茨城県宍戸町(現支部町)に「日本国民高等学校」が設立された。山形自治講習所の所長だった加藤完治が校長、農業報国連盟理事長や全国農業会会長も務めた石黒忠篤が理事長となった。皇道主義的農本主義に基づいており、後に水戸市に移転し「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所」というものものしい名称に改変され、満州へ数万人の青少年を送り込んだ。加藤完治は戦犯になることを免れ、戦後46年に白河報徳開拓農業組合長となり、53年に「日本高等国民学校」と改名して国民高等学校を再開し、これは現在も「日本農業実践学校」として継続している。
 国民高等学校協会により、他にも全国でいくつかの国民高等学校が設立され、宮澤賢治も1926年に花巻農学校内に設置された「岩手国民高等学校」の教師に採用され、農民芸術論などを教えた。宮沢賢治は、ここでトルストイや、モリス、ラスキンなどのキリスト教社会主義的=自由主義的アナキズムと言える思想も紹介しているのだが、一方では当時満州開拓を推進する思想的母体ともなった皇道主義日蓮系の田中智学が主宰する国柱会の熱心な会員でもあった。理想的に語られ過ぎている宮澤賢治の思想について、この点についてはもっと検証する必要があるだろう。しかし、この学校を辞して宮澤賢治が自ら農民となり創設した「羅須地人協会」では、農民対象に生物学や音楽なども講義しており、こちらは本物のフォルケ・ホイスコーレであったと言えるかも知れない。しかし、これは2年間しか続かなかった。
   この時代に国民高等学校として全国に作られた学校は、デンマークのように農民が主体となるものではなく、あくまでも国家全体主義的な理想に向かって対外侵略的に機能したため、あのような戦争の悲劇を生んでしまった。敗戦によって占領軍が強制的に農地解放を行うまで、農民=小作が自由であることなどなかったし、小作争議などは徹底弾圧されて、地主や資本家の横暴に対して、農民と労働者との共闘が進むこともほとんどなかった。戦後、棚からぼたもちで自作農となった農民は、資本家や米国と利害を一致させる道を選んで、保守化する。農業だけでは食べていけなくても、兼業化することで労働者並かそれ以上の生活水準は保てるような道を選んだのだ。そうして戦後も農民は、本当の意味では、自立することができなかったのである。
  さて、戦前の話に戻すと、国民高等学校の他にも、農民道場の類や海外殖民のために農業者を育成する学校が全国各地に作られている。北海道では1930年に栗林元二郎により「八紘学園」(札幌市月寒)が設立され、北海道帝国大学初代総長を務めた佐藤昌介が学園長となった。39年からは満州開拓に多くの青年を送り出したが、八紘学園卒業生は、敗戦後も住民から丁重な扱いを受けたという。現在でも「北海道農業専門学校」と称し、安い授業料で農業を学べる私立学校として人気がある。
  国内植民地である北海道に設立された札幌農学校で、クラークの薫陶を受けた内村、佐藤、新渡戸らは、アメリカの植民地政策を学んでいる。特に、新渡戸やその弟子であった東大の矢内原は、植民地学が専門であった。もっとも、新渡戸はクエーカー教徒、矢内原も無教会派と、絶対平和主義をとるキリスト教の非主流派に属しており、当時の侵略政策には批判的で、キリスト教主流派が国策に協力した時代にあっても、常に戦争に反対したリベラリストであったと言えるが、時代を変える力は持てなかった。その時代の限界ということもあるかもしれないが、根本的な考え方にも欠点があったのではないだろうか。
  農業後継者育成を目的とした学校は、現在では公立の農業大学校(東京は独立行政法人=元国立)が各都道府県にほぼ一つずつあり、農業高校はさらに多数あるが、私立の農業専門学校は少ない。上述2つの他には、45年に創立された「鯉渕学園農業学芸専門学校」が水戸市にあるが、ここは4年制で修業年限が2年の大学校より長く、大学農学部と同程度の教育が受けられ、有機農業の講座もある。長野県にある「八ヶ岳中央農業実践大学校」は、38年に農村更正協会によって「八ヶ岳中央修練農場」として設立され、当協会は37年から学生義勇軍を組織して、全国で開墾などにあたったが、44年には学徒動員などで休止に至っている。現在では、全国から新規就農希望者なども多く入学する学校となっている。

6.その他のフォルケ・ホイスコーレ

 酪農学園大学で酪農を学び、在学中にデンマークのフォルケ・ホイスコーレに留学した河村正人が、北海道瀬棚の山林を開拓して酪農を始めて20年目の1990年に「瀬棚フォルケ・ホイスコーレ」を開校し、毎年10数名の生徒を全国から受け入れ、酪農を中心とした寮生活をスタッフと共に行っていた。しかし、さらなる簡素生活を目指し、新たな魂のフォルケを作るべく、今年の3月で閉校した。もう一つ、さらに小規模であるが山形県小国の独立学園の近隣に「小国フォルケ・ホイスコーレ」がある。ここも農作業をカリキュラムに取り入れ、農産物の販売を重要な資金源の一つとしている。ここは独立学園出身の無教会派クリスチャンである武義和が、桐朋学園大学で音楽を学んだ後、自由の森学園高校、愛農学園高校、独立学園高校などの教師を経て、ノルウェーの音楽フォルケ・ホイスコーレでスタッフとして研修し、2000年に開校した。
   農業にこだわらず、教育方針としてフォルケ・ホイスコーレの精神を生かそうとした人物としては、東海大学創立者の松前重義や、玉川大学創立者の小原國芳があるが、いずれも現在では総合大学となり、本来のフォルケ・ホイスコーレとは、かけ離れている。松前重義は、青年期に内村鑑三に教えを受け、デンマークのフォルケ・ホイスコーレに留学した後、1937年「望星学塾」を設立したが、その後だんだんと学校が大きくなり、現在では日本第2の巨大な私立大学となった。「玉川学園」も、1929年創立当時は、フォルケ・ホイスコーレ的な全寮制の自給自足的な学校であったらしいが、今では農学部や教育学部が有名なところに、いくらかその名残を残していると言えるくらいだろうか。
   私は、瀬棚の河村氏が作ったようなフォルケ・ホイスコーレを、この余市にも作りたいと思っている。農民オーケストラに参加してくれたこともある河村氏から以前、私もぜひフォルケ・ホイスコーレを作るべきだと言われた時には、まだその気はなかったのだが、今はその夢がふくらむばかりである。そして、農業を基盤とした生活を元に、芸術を生み出す学校にしたい。最終的な目標は、適正規模の自給的なコミュニティーである。だから、学校を大きなものにはするつもりはないし、学校を作ること自体が、最終目的なのではない。

<参考文献>

清水 満 「生のための学校〜フォルケホイスコーレの世界」 (新評論 1993初版、1996改定)
星野正興 「日本の農村社会とキリスト教」  (日本基督教団出版局 2005)
小山哲司 「神を愛し、人を愛し、土を愛す〜今に生きるデンマルク国の話」 (『水戸無教会』78号 2000)
渡辺兵衛 「三愛塾運動と農村伝道(北海道のフォルケホイスコーレ運動)」(『福音と社会』(農村伝道神学校 紀要)第23号 1998)
「基督教独立学園年表 前史1899〜1947、学園史1948〜2000」 (基督教独立学園 2002)

<2006.5.3.訂正箇所>

2. 当初クリスチャンだった加藤完治→当初クリスチャンで古神道に改宗した加藤完治
3. 51年に農村伝道神学校を併設→51年に農村伝道神学校に改称
  黒沢酉蔵は、茨城県牛久で国会議員を辞め農民と共に命をかけて農地を守る闘いをしたキリスト者、田中正造にも弟子入りしている。→黒澤酉蔵は、国会議員を辞め栃木県谷中村で農民と共に命をかけて農地を守る闘いをしたキリスト者(正式に洗礼は受けなかった)である田中正造に、弟子入りしている。
   戦後49年に、「酪農学園大学」として発足するのに伴い、初代学長として岐阜大学農学部から迎えられたのが樋浦誠である。→戦中に「機農学園」として皇道農本主義に基づく教育を行った反省に基づき、戦後49年に「酪農学園大学」としてキリスト教とデンマークの三愛主義を基本とした学園として再出発するのに伴い、初代学長として岐阜大学農学部から迎えられたのが樋浦誠(北大農学部卒業のクリスチャン)である。
 「YMCA日本農村塾」→「YMCA日本農村青年塾」
4. 「九連国民高等学校」→「連国民高等学校」
6. フォルケ・ホイスコーレを名乗るフリースクールは、他にも全国数か所あるようだが、単発的なものもあるし、農業を主体としていたところは、瀬棚の他にはなかった。→もう一つ、さらに小規模であるが山形県小国の独立学園の近隣に「小国フォルケ・ホイスコーレ」がある。ここも農作業をカリキュラムに取り入れ、農産物の販売を重要な資金源の一つとしている。ここは独立学園出身の無教会派クリスチャンである武義和が、桐朋学園大学で音楽を学んだ後、自由の森学園高校、愛農学園高校、独立学園高校などの教師を経て、ノルウェーの音楽フォルケ・ホイスコーレでスタッフとして研修し、2000年に開校した。
参考文献に追加→渡辺兵衛 「三愛塾運動と農村伝道(北海道のフォルケホイスコーレ運動)」 (『福音と社会』(農村伝道神学校 紀要)第23号 1998)

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