フリースクールとしての農民芸術学校 (2006. 6. 8. 一部訂正)
 
 私が構想中の農民芸術学校は、青少年を対象としたフリースクール的なものと言うことができます。ただし、一般的にフリースクールというと、不登校生を対象にした小規模な学習塾のようなもので、社会復帰施設的なイメージが強くあります。しかし、私はそのようなネガティヴなものでなく、既存の社会に適応する人材を育成する公教育に対抗したところの、新たな社会を創造する人材を育てるオルターナティヴ(代替的)でホリスティック(全体的)な教育を目標にしています。その基本を、農業による自給におき、大地に根ざした芸術を生み出すことが、農民芸術学校の目的というわけです。
 現状としては不登校生の受け皿という面が強いフリースクールですが、不登校の原因は、決して一律ではありません。既存の学校に対する反抗心による場合もあれば、何らかの学習障害や知的障害、鬱病のような精神障害による場合も、少なからずあります。しかし、義務教育である小中学校に対応するフリースクールは、日本では認められていません。放課後や休日利用の塾を別とすれば、特殊な学校としては障害児のみを受け入れる養護学校があるだけです。ごく例外としては、北海道家庭学校(1913〜)という、非行少年の更生施設として唯一の私立全寮制学校がオホーツク側の遠軽町にあり、キリスト教に基づいて、農作業と礼拝の時間をカリキュラムの中心にしています。
 一方、高校となると、退学者や不登校経験者を積極的に受け入れて全国に名を馳せている北星余市高校(これもキリスト教系)などもありますし、各地にある通信制高校なども、最近では不登校生の受け皿となっています。しかし、高校は義務教育でないために、それらでも対応できない子ども達のために、各地に小規模なフリースクールが数多くあります。また、私立高校の中にも、当初よりフリースクール的な理念を持って設立されたものが全国に何校かあります。「婦人の友」誌を主宰していた羽仁もと子が創立した自由学園高校(東京1921〜小中もあり)、内村鑑三の始めた無教会派クリスチャンである鈴木弼美により創立された基督教独立学園高校(山形1934〜全寮制高校としては48〜)、愛農会の小谷純一により創立された愛農学園農業高校(三重1954〜全寮制高校としては58〜)、独立学園と同じ理念で設立されたキリスト教愛真高校(島根1988〜全寮制)などです。これらの高校はすべてキリスト教の影響を受けていますが、元を辿ればデンマークで生まれたフォルケ・ホイスコーレに行き着きます。
 フリースクール的な理念などと簡単に言ってしまいましたが、フリースクールの原点と言える、イギリスのニイルが始めたサマーヒル・スクール(1921〜)では、生徒の自由意志を何よりも尊重し、教師と生徒が対等な立場ですべて民主的に決定するということが基本です。また、デンマークで19世紀にグルントヴィが始めたフォルケ・ホイスコーレ(民衆大学)は、「生のための学校」とも言われ、立身出世のための競争を廃し、試験や資格というものを認めず、何よりも対話を重視します。フォルケ・ホイスコーレは、農民の自己解放運動としての1年制の全寮制学校ということが出発点であり、デンマークが農業(特に酪農)によって自立し、民主的な国家になる基礎となりました。また、ドイツで始まったルドルフ・シュタイナー主義のシュタイナー学校も、試験を廃し、芸術活動を重視し、自然農法(ビオダイナミック)を取り入れ、イエス・キリストの教えに基づきシュタイナーが創り出した人智学というものを学びます。この人智学というものは、私には理解不能ですが、既存の教育に対するアンチテーゼとしての方向性には、大いに共感できるものがあります。
 現在、不登校生や最近ではニートを対象としたフリースクール的なものは、おそらく全国で100以上はあるでしょう。また、フォルケ・ホイスコーレは北欧中心に世界中にありますが、国内でも北海道瀬棚と山形県小国にあります。しかし、瀬棚フォルケは10名ほどの生徒が学んでいましたが、この3月でひとまず15年の歴史に幕を閉じ、山形フォルケも、2名ほどの生徒しかいない状況です。シュタイナー学校は、国内では北海道伊達市と静岡県富士市にあります。伊達市のシュタイナーいずみの学校には、小中高合わせて100名弱の生徒がおり、同市内のシュタイナー教員養成学校も擁する「ひびきの村」では、バイオ・ダイナミック農業を実践しています。シュタイナーシューレ富士は、まだ全日制の学校ではなく、塾のような形式です。シュタイナー教育による幼稚園は、全国各地にあります。また、自給共産社会を実践するヤマギシ会では、独自の学校であるヤマギシズム学園(小中高)を有しています。近年は、カルトとみなされ社会問題として取り上げられることが多くなってしまいましたが、これもオルターナティヴな学校の一つと言えるでしょう。
 さて、私の目指す農民芸術学校は、基本的にはフォルケ・ホイスコーレの理念を汲んだものと言うことになるでしょう。その理念とは、「神を愛し、土を愛し、人を愛す」という三愛主義です。つまり、偉大なる大自然に対する畏敬の念を常に抱き、大地に汗を流す労働による自給自活こそ人間の生き方の基本であることを学び、神の似姿として創られた人間に対する限りなき信頼と協調の心を育み、神の創った最高の芸術作品であるところの自然から学んだ真の芸術を極めて、生命の歓びを発露しようというものです。独立学園高校や、愛農学園高校は、このような基本理念をそのまま継承し、各学年40名程度と小規模で、教員も一緒に寮生活をしています。北海道にある酪農学園(大学・短大・高校)も、当初このような理念で設立されましたが、今は普通の大規模な私立学校になっています。ちなみに、さらに巨大な総合大学である東海大学や玉川大学も、当初はこのグルントヴィの思想に共鳴して設立されました。
 さて、現代社会の抱える様々な問題は、このような三愛主義の考え方と、正反対の生き方を推し進めてきたことにあります。大自然の偉大さを無視した傲慢な人間による乱開発や科学万能主義が、大きな自然災害やガンのような新たな病気を増加させて来たことは間違いありません。また、労働を軽んじる拝金主義や権威主義が、社会の格差を増大させ、多くの人から最低限の健康で幸福な生活条件を奪うばかりか、生きる希望さえも失わせ、経済的な理由による自殺やノイローゼ、凶悪犯罪の増加などを招いて来ました。人間に対するあらゆる差別と偏見は、構造的な貧困を固定拡大することに貢献し、景気の変動により経済的な窮地に陥れば、権力は差別と偏見を助長して憎しみの悪循環をあおり、テロや戦争による悲劇が繰り返されて来ました。さらに、経済万能主義は、文化の低俗化を招き、金持ちによるスノビズムに犯された芸術は、民衆の日常生活とますます乖離し、民衆の生活は美的なものと正反対の状況におとしめられてきました。
 こうした様々な問題を解決するためには、人間の意識が変わらなくてはなりません。そして、人間の意識を変えることができるのは、教育だけなのです。戦前の絶対天皇制時代には、国民は天皇の赤子(皇国臣民)として天皇に忠誠を尽くすことが最高の美徳であると教育され、あのような不幸な戦争の悲劇を招きました。戦後、新しい日本国憲法と教育基本法により、日本は民主化しました。天皇のために生きるという価値観は、完全に否定されたのです。軍事にお金をかけることをやめ、技術立国に邁進することによって、すばらしい経済発展を成し遂げましたが、同時に失ってしまったものも少なくはなかったのです。しかし、それは自民党や保守主義者が言うような愛国心などではありません。そのような画一的な教育を強制する、かつてのような非民主的な体制に戻ることは絶対に許されません。明治以降の近代化によってすでに、日本的な美徳の多くが失われつつあったことこそ、反省すべきなのです。
 日本は、欧米列強に対抗するため、西欧の絶対主義王政を真似して近代天皇制を作り出し、東アジアにおいて欧米さえもやらなかったような残虐な侵略行為を、アジア解放・五属協和の美名の下で実行しました。明治以前の江戸時代は、厳しい身分制度の封建社会ではありましたが、世界でも例の無いほどエコロジカルな文化であり、海外との戦争もなく、民衆の文化を花開かせました。しかし、明治以来の近代化によって、弱肉強食のすさんだ世の中に一変したのです。民衆はますます貧しくなり、公害などの環境問題も起こってきました。経済的にはもちろん、政治の世界もテロと粛清の嵐が吹き荒れて、非情な世界でした。それらの行き着いたところが、あの悲惨な太平洋戦争と、原爆による敗戦でした。そこで、歴史の流れが変わるべきでした。ところが、戦勝国アメリカは、日本が再び軍事大国とならないように平和主義と民主主義を基本とした憲法を制定させたのですが、共産主義の拡大を恐れ、アメリカに逆らわない国にするため、天皇制を日本国憲法に残しました。人間をシンボルにするということは、おかしなことなのですが、これは妥協の産物です。しかし、いくら象徴とはいえ天皇制を残したことで、日本は真の意味での民主国家になる機会を失ったのです。
 西欧のように市民革命を経験していない日本では、自由を勝ち取るよりも、既成の価値観の中でよりよく生きることを人々は選択しようとします。しかしそれは、あくまでも既得権を持っている者だけの和の論理です。そこから排除された者にとっては、決して認められない論理なのです。真の民主主義とは、少数者の意志を尊重するものでなくてはなりません。日本国憲法においては、外国人と天皇からは、基本的人権が奪われています。象徴天皇制を廃してこそ、真の民主国家となることができるでしょう。
 畏れるべきものは、人間ではなく、大自然を創造した偉大なる神だけです。そして、生態系の一員であり、その頂点に立っている人類は、神の創った大自然を守り、そこから恵みをいただくことによってのみ、生存することが許されるのです。それは、世界中の多くの宗教、キリスト教も仏教も、神道や先住民族のアニミズムにも、共通する教えです。そのことを、子ども達に教えなければいけないと、思います。人間には、無限の可能性がありますが、それは神に逆らわない範囲においてです。神に逆らう行いの結末は、破滅です。もちろん、一方的に教えるという姿勢は間違っています。生徒が、自ずから真理を理解できるように導く必要があります。自然から離れた教室の中では、神の偉大さを知ることはできません。どんな学問も、実際の体験にかなうものではありませんが、殊に哲学や道徳は、教科書で教えられるようなものではありません。
 だからこそ、大自然の中で学べる学校が必要なのです。農民芸術学校の創立までには、まだまだ数々のハードルがあります。資金も必要ですが、この理念に賛同して一緒に学校を運営して行く同志が、何よりも必要です。そのような人が、一日も早く現れてくれることを願っています。

<2006.6.8.訂正箇所>

フリースクール的な理念で設立された高校として、自由学園の流れを汲む自由の森学園中学高校(埼玉1985〜)という記述を行ったが、自由の森学園は自由学園とは直接関連がなく、キリスト教とも無関係であることが分かったので、文中から削除しました。

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