最近の報道から感じることと、言論の右傾化について

    それにしても、いやな事件が多すぎる。弱い者をいたぶり殺し、そのことに快感を覚えて罪の意識すらない、という若者の犯罪が次々に起こっている。また、彼らの多くが、殺人や性犯罪を実行に移す前に、ゲームやビデオで、何度も何度もそれを繰り返しているのである。そのようなゲームやビデオが、なぜ許されているのだろうか。日本ほど、その類のものに寛容な国はないのではないか。また、なぜそのようなものを作るのだろうか。売れるからなのか? それとも、作ることに快感を覚えているからなのか? おそらく、両方ではないかと思うが、どちらにしても、おぞましいことだ。ヴァーチャルな体験も、実際の体験も、脳の働きとしてはほとんど同じである。だから、たとえ仮想世界であっても、犯罪を許してはならないと思う。
    なぜ彼らは、人が喜ぶことではなく、人が苦しむことに、快感を覚えるようになってしまったのだろうか? それは多分、彼らが愛を知らないからだ。愛されずに育った人間は、愛することができない。人は、愛されていることを知って初めて、愛することができるようになるのだ。子どもを虐待する親の多くは、子どもの時に虐待を受けた経験があると言う。それが、悪いことだと知りながら、それを止められないとも言う。しかし、人は誰でも、必ず愛を受けている。そのことに、気付くかどうかだけなのだ。だから、どんな人間でも、気付くことさえできれば、必ず愛することができるのである。それを知ることができれば、たとえ虐待を受けた人間でも、他人を傷つけるようなことはしないし、どんな逆境にあっても未来を信じることができる。
 人間は生まれつき、自己中心的にできている。だから、自分の思うようにならないことがあれば、不満を持ち、自分は愛されていないと、思いがちである。しかし、この世に生を受けたということだけでも、すばらしい愛の証しである。生きている限りは、どんなにハンディがあろうとも、無限の可能性がある。しかし、死んでしまっては、何もできない。人がこの世に生を受けてなすべき第一のことは、この与えられた生命を永遠に受け継いで行くということではないだろうか。
    人が生きるためには、多くのものが必要だ。衣食住はもちろん、普段は気にもとめない空気や水も、なくなれば一日として生きていくことはできない。いざとなれば、お金なんか何の役にも立たない。人間が生きて行くためには、もっと大切なものが、たくさんある。生きているということは、それらのものが与えられているということであり、つまりそれは、実に多くの愛が与えられているということである。そして人間は、物質だけでは生きることができない。精神にも、糧が必要である。保守主義者は、道徳の乱れを嘆き、目上の人を敬うことや、国を愛することを押し付けようとするが、もはや、そのような倫理観が復活することはないだろうし、するべきでもない。それよりも、すべての命が愛されているのだということを、教えた方がよい。どんな人も、生きているだけで十分にすばらしい、ということが理解されれば、平気で人を殺したり悪事を働いたりは、できないはずである。
  さて、昨今のいやな事件と言えばもう一つ、地震で崩壊することが確実なマンションを、建築主、設計業者、確認申請業者が、見つからなければOKと次々に建てて売りさばいていた事件である。余りにもひどい話だが、あくどい違法な商売をぐるでやっていたに違いないのに、いつまでも知らぬ振りをして、他人に罪をなすりつけ合って言い逃れをしようとする醜い連中ばかりなのには、あきれた。こういう輩はいつの時代にもいるけれど、こんなずさんな建築であれば、多くの現場の人がおかしいことに気付いていたはずである。それなのに、今まで見逃されて来た、ということの方が大きなショックである(気付いていなかったとしても、それはそれで恐ろしい)。給料さえもらえれば、会社がどんな悪いことをしていようと、黙っていようというのか! 人命に関わるようなことなのに、なぜもっと早く内部告発する人が出なかったのか、不思議でならない。悪事を働く者も悪いが、それを知って知らぬふりをする人間も、同罪ではないか。倫理観というものは、一体どこに行ってしまったのだろうか?
   沖縄の米軍基地移転問題にも、腹が立って仕方がない。誰も基地など望んでいないのに、日本政府は思いやり予算(何と言う馬鹿げたネーミング)まで使って、ジュゴンが棲む珊瑚礁の美しい海を埋め立て、新しい基地を作ろうとしている。米軍が日本を守ってくれているなどとは、もう誰も本気で信じてはいないのに、なぜこんなことを自民党政府は強行しようとするのか。それは、沖縄返還の時に、外務省が米国と密約を取り交わしたためなのである。そのことをかつて暴いた毎日新聞社の記者は、国家機密漏洩の罪で有罪にされた。国家機密と認めたということは、密約を認めたということではないのか。国民のための国家ではなく、国家(権力)のための国民であれというのか。こんなことが犯罪とされる日本という国は、とても民主国家とは言い難い。本当に裁かれるべきは、国民の利益を米国に売り飛ばし、ちゃっかりノーベル平和賞までもらった故佐藤首相である。在京のマスコミは、そのような政府の国民の利益に反する行為を追求することは決してなく、政府に都合の良い報道ばかりをして、真実を隠し続けている。読売や産経は論外としても、どの大手新聞にしろ、戦前の御用新聞と、大して変わりはない。誰も、真実を語ろうとしない、これでは戦前と同じである。戦争のできる国にしようとする自民党の憲法改悪案も出てきたし、本当に心配な時代になってきた。憲法違反でイラクに派遣された自衛隊が、現地の住民に嫌われていることなどは新聞に載らないし、本当に起きている悲惨な現実は知らされず、マスコミに流されるのはアメリカ側の情報ばかりである。
 一方で、天皇の後継ぎを、男系優先にするか、長子優先で女系も認めるかなどと、どうでもよいことが、いかにも重大なことのように報道されている。女系を認めれば、純血を保てなくなるという保守主義者がいるけれど、遺伝学的には、男系で純度が保たれるというのはY染色体1本だけのことであり、細胞質遺伝子は母親からしか受け継がれないので、女系の方が純度は保たれるとも考えられる。どちらにしても、天皇家の純血度(万世一系)など全く根拠もないし意味もないことで、血筋云々を論じること自体ナンセンスであるが、天皇制そのものが、人間を生まれによって差別しないという民主憲法の基本理念に反する制度であって、これ自体を撤廃するという議論があってしかるべきだ。しかし、そんな当たり前の意見がマスコミに取り上げられる可能性は、ほとんどない。私は、天皇家を解体せよとまでは言わない。税金で皇族を養うという、明らかに非民主的な制度を改め、天皇家は京都に帰ってもらい、国事行為はせずに、本来の宗教行為のみをやっていただけばよいと思うだけである。
 天皇制に関して論じることは、マスコミではタブーであり続けているが、マスコミ以外でも言論の右傾化や、自己規制が強まっている。書店に並ぶ論壇(オピニオン)誌も、私が学生だった20年前は結構革新系のものが多かったが、今では「世界」(岩波書店)が置いてあればかなりいい方で、大概は右翼的な「Voice」(PHP)、「諸君!」、「正論」(フジサンケイ)、「WILL」など(後に行くほど、超右翼)が月刊誌の棚を占めている。かつて、「現代の眼」というタブーを恐れない鋭い雑誌(右でも左でもなかった)があったけれど、もう廃刊になって20年以上もたつ。今まともなオピニオン誌と言えば、「週刊金曜日」くらいだろうか。これも、そこらの書店では置いてないし、どこにでもある「週刊文春」とか最近の「週刊新潮」などは、かなりひどい差別的な記事が多いし、「SAPIO」(小学館)に至っては、右翼の雑誌にしか思えない驚くべき排外的・反動的内容である。インターネットの掲示板書き込みなんか見ても、大半が右翼的で、反・反日、反・朝日、反・中国、反・朝鮮の嵐、「嫌韓流」という排外的なマンガも売れている。まあ左翼的(革新的)な人は、ネットに無駄な書き込みなどしないのだろうと思いつつも、若者の右傾化にはちょっと心配になってくる。
 左翼系の雑誌は次々姿を消してしまい、最近できた季刊「前夜」が唯一頑張っているくらいだ。名前は変わらないが中身が変わってしまうものも多く、「中央公論」は、ずっと昔は左だったけれど、今は真ん中よりかなり右(「文芸春秋」ほどではないが)。比較的真ん中から左なのは講談社の「現代」、朝日新聞社の「論座」はもちろん左だけれど、新聞と違って右の意見も載る(「諸君!」も一応左の論文が少し載るが、ラジカルでないものがおまけについているだけ)。左寄りの雑誌はあっても部数が少なく、読者は一握りに過ぎない。若者向けに色々な雑誌を出している宝島社などは、20年前は左だったけれど、最近は相当な右寄りに変貌した。これは、そうしないと売れなくなったからではないのか? 私が学生時代に時々読んでいた「インパクション」などは、最初はかなり過激な新左翼系だったけれど、その後、市民運動的な穏やかなものに変わった。でも、これは正しい路線転換だと思う。暴力を容認するような運動は、決して成功しない。学生運動や労働運動が盛んなころは、「前進」(中核派)、「解放」(革マル派)等の機関紙も結構書店に並んでいたけれど、おぞましい内ゲバで死者が多数出たり、多くのマルクス主義に基づく国家が経済を統制するだけでなく言論を弾圧し恐怖政治を行って自壊の道を歩んだこともあって、労働運動や学生運動は大衆のものでなくなり、ほとんど影をひそめ、左翼系の雑誌も書店では見られなくなった。だが、今でも彼らは同じ機関紙を出し続け、今でもお互いを誹謗中傷し合っている。(もっとも中核派は、現場の運動と連携し続けている点で、革マルよりマシであるが。)もともと一つの組織から分かれたのに、最も激しく敵対している点で、創価学会と日蓮正宗の泥仕合にも似ているが、こういうセクト主義というものは、外部から見ると、本当に愚かに見える。しかし、当人たちはその愚かさに気付いていないのだから全く困り者である。
 もっとも、新左翼などが問題提起していていたことは、決して間違っていなかったと思うし、それは今なお解決されてはいない。(ただし、私はマルクス主義者ではないので、新左翼運動に加担するつもりはない。)権力と闘おうという言論が、これほど少数になってしまっていることは、戦前を思い出させて非常に恐ろしいことである。
 NHKも、自民党タカ派の安倍や中川の圧力で従軍慰安婦の問題を追及した番組を骨抜きにしてしまったが、このことを反省するどころか、逆に政治家の圧力で番組を改変したと報じた朝日新聞社を訴える始末で、こんな権力に媚びて自らの首を絞めるような報道機関になったら存在価値はない。受信料をまじめに払っていていいのか考え直したくなる。NHKでは、10年ほど前まで、太平洋戦争時の日本の加害行為や、天皇の戦争責任などを追求する番組もあって、民放よりかなり硬派でよかったのに、最近では、ほとんどそのような番組は作られなくなってしまった。公共放送というより御用放送局化していて、ニュースなどはまるで見る気がしない。
 それにしても、自民党の圧勝と、寄せ集めの民主党による2大政党化によって、憲法改正(改悪)の可能性が非常に高まって来た。自衛隊を自衛軍として認めるべきだという意見は、世論でも容認されることだろう。しかし、憲法改正の本当の狙いは、そんなところにはないのだ。自衛隊は、すでに世界有数の軍事力であるのだから、九条だけ変えたって、そんなに変わりはしない。権力の本当の狙いは、憲法前文にある基本理念、それを変えようというところにある。郵政民営化をすんなり決めて、待ってましたと出てきた自民党の憲法改正案は、あまり大幅に変えていないように見えるが、改正点を見れば、すべて基本的には国家に従順な人間を育てようとする旧帝国憲法回帰そのものである。つまり、権力を持つ者が権力のない者を支配することを正当化しようとするものであり、あんなものを絶対に許してはならない。
 戦争へと時代を逆戻りさせないためには、我々は過去の真実をきっちりと見つめ、その罪を反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないことが、よりよき未来を築く第一歩であるということを、肝に銘じなければならない。革新勢力には、あくまでも平和・民主を守るという一点で一致協力して、力を盛り返してもらいたい。社民党、共産党、民主党左派やリベラル派、新社会党や市民運動ネットワークなど、それぞれ極めて少数派なのに、お互いを批判し合っているようでは、本当の敵を倒すことなんかできない。力を合わせることができれば、滅び行くアメリカと運命を共にしようとしている日本を、まともな方向に引き戻すことができるだろう。


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