なぜ私は自給を目指すのか! ・・・文明国日本への叛逆・・・

     一言で言えば、自由に生きたいからである。無農薬有機農業を標榜しながらも、我が農園には大きなビニールハウスがあり、トラクターで畑を耕し、軽トラック、ワゴン車と自家用車も2台所有している。家の中には、電気製品があふれ、この文章もパソコンで書いている。このように石油や電気にどっぷり浸かった文明生活は、自給ということからは、程遠いものだ。便利ではあるが、もし石油が手に入らなくなり、電気が止まったら、まともな生活はできなくなる。いずれ、そのような時代が来ないとも限らない。いや、近いうちに来るに違いない。現代文明は、もうじき滅びる。いや、滅びねばならない。なぜならば、現代文明は、富ある者がますます富み、貧しい者がますます貧しくなることによって成り立っているからだ。そのような、神の意志に反する世界は、いずれ滅びの時を迎えるのである。永遠に続く神の国は、最も小さき者が、最も優遇される国である。私は、そう信じている。
 貧しき者は、文明の恩恵に預かれない。彼らにとっては文明以前の生活の方が、自給できていた分、ずっとましだった。世界中の人が幸せに生きるためには、先進国では、最低でも30年くらい前の生活レベルに戻る必要がある。いや、もっと昔に戻る必要があるかもしれない。現代文明は、石炭や石油という大自然が何億年もかけて作り出した過去の遺産を、たかだか100年余りで食いつぶし、人類が作り出したダイオキシンやプルトニウムは、未来何万年にもわたって地球上の生命を脅かし続ける。このような刹那的で罪深い文明は、一刻も早く終わりになるべきだ。だから、私の理想は、このような文明から逃れ、車や電気がなくても豊かに暮らすことのできる、自給生活なのである。
 「大草原の小さな家」みたいに、馬で耕し、馬車で移動し、ランプで灯りをとり、薪ストーブで調理もする生活に、今でもずっと憧れている。確かに効率は劣るけれど、何よりも、人間の生物としてのスケールに合った生き方ができると思う。チャールズ父さんのように、暖炉の前でヴァイオリンを弾きたいと思う。私は中学生の頃、もっと極端な理想を抱いていて、「ロビンソン・クルーソー」のように、原生林の中に暮らし、弓矢で動物を獲ったり、木の実や山菜を探して生きたいと思っていた。そういうことに役立つと思われる本を、一生懸命買い集めていた。(実は今でも)
 日本の中でそういう生活ができるとすれば、北海道の山奥か、沖縄の西表島くらいだろうと考え、辺境への思いを募らせていたのである。確かに北海道のアイヌは、明治以前にはそういう生活をしていたし、東北のマタギも、最近までそれに近い暮らしをしていた。しかし、日本の法律は、アイヌが川でサケを獲ることを現在も禁じ、ライフル銃で動物を撃つのは許可しても、弓矢で動物を射ることは禁じている。日本では、どぶろくやワインを個人で趣味として造る事も違法行為であり、文明に逆らい自給しようという人間を、犯罪者として取り締まる国なのである。
 アメリカは、世界で一番石油を浪費する文明国でありながら、今でもアーミッシュやオールド・ファッション・メノナイトというキリスト教の一派が、近代文明を拒否した生活を守り、馬で畑を耕し自給している。しかし、現代日本では、そのような生活をしている人は皆無である。ほんの40年ほど前には、この辺の農家はみな、トラクターではなく馬で畑を耕していたし、今のように果物ばかり作るのでなく、田んぼも各自持っていて、田植えや稲刈りは共同で行い、米は自給していた。もちろん自家用車なんかなくとも、ちゃんと暮らしていた。現役の70代の農家は、そういう生活を経験しているのだが、そのような生活を若い人に伝えることは全くなされて来なかった。かつての馬耕の道具も技術も、あっと言う間に途絶えてしまったのである。その点、アメリカは違う。弓矢でのハンティングや、ワイン造りを趣味としている人も、少なからずいるし、そのための道具なども、街で普通に売っている。しかし、日本では、そのような道具を手に入れることさえ、極めて難しいのである。(実は昔アメリカに出張に行った時、ハンティング用の弓矢を手に入れ、小包でこっそり日本に送った)
 日本人には、新しいものに飛びつくと、すぐに古いものを捨て去ってしまうくせがある。もちろん、新しいものには、古いものになかった長所があるが、古いものにも、簡単に捨て去るべきでない優れた点がたくさんあるのだ。なぜ日本では、馬での耕作(本州では牛、沖縄では水牛)が、急速に途絶えてしまったのだろうか。確かに、馬で耕すことは、大変なことだった。トラクターに比べれば効率はずっと劣るし、日常の馬の世話や、餌の確保など、苦労はいっぱいある。だから、トラクターは、農薬や化学肥料と同様に、農民にとっては重労働から解放してくれる救世主みたいなものに思えただろう。しかし、馬でなくてはできないことも色々ある。馬は草だけで育つし、馬糞という最高の肥料を無償で提供してくれる。トラクターは、便利だが燃料は買わなければならないし、肥料の代わりに排気ガスをまきちらす。便利さの代償に失うものは、意外に大きいのだが、多くの人は失うものの大切さに気付くことができず、目先の利益にとらわれ古いものを捨ててしまうのだ。
 さらに、日本という国には、異質なものを排除しようとする傾向が強くある。北海道のアイヌは、明治政府により自然と共に豊かに暮らしてきた生き方を奪われ、耕作に向かない土地を供与され(奪っておいて与えるとはずうずうしいにも程がある)、そこで農業をするように強制されたが、当然多くは失敗して極貧の生活を強いられることになった。アイヌ民族には、狩猟や河川での漁労の権利を回復させるべきであるし、北方領土はロシアでも日本でもなく、アイヌの国土として彼らにこそ返すべきである。しかし、日本政府は、未だにアイヌを民族としてさえ認めず、自民党の議員は相変わらず、日本は世界でも珍しい単一民族・単一文化で優れているなどという妄言を繰り返している。
 このような理不尽な国に生きる私が、現在の生活を捨て、いきなり自給生活を試みようとしても、不可能である。しかし、あきらめたわけではない。それを実現するためには、自給的なコミュニティを構築する必要があるし、それこそ私がずっと夢に抱いていることである。農村のコミュニティが崩壊し、学校や病院、買い物にも車で行かなければならないような現状で、いきなり車を持つことをやめても、豊かな生活などできない。しかし、理想を共有できる仲間と共同体を作り、歩いて行ける範囲のコミュニティで、できる限りのものを自給するようにすれば、一家に一台の車を持つ必要は全くなくなる。電気も自家発電するようにすれば、原発もいらないし、そのような巨大な装置を維持するために必要な、巨大な組織や権力に従う必要もない。これからは、より少なく生産し、より少なく消費することが求められる時代になる。


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