危険な原理主義の台頭〜なぜ日蓮系と福音派が伸張しているのか
  仏教における日蓮宗とそこから派生した新宗教、キリスト教におけるルターに始まる福音主義プロテスタントとその派生(ルーテル派→カルヴァン=長老・改革派→バプテスト=浸礼派→メソジスト派→ホーリネス派→ペンテコステ=異言派→アドベンチスト=再臨派、右に行くほど新しく原理主義的)、この両者は次々に分裂を繰り返しながら不気味に増殖している。日蓮宗系の宗派、新興宗教は数十を下らないし、キリスト教福音派(プロテスタントのうちの右翼・保守派)の宗派に至っては、日本の人口の1%ほどを占めるに過ぎないのに、海外ミッションとの関連もあり100ではきかない宗派がひしめいている。
 この両者は、なぜこうも似通っているのか。それは、日蓮とルターが原理主義者であったということに尽きるだろう。日蓮宗と福音主義プロテスタントは、元々既成教団を徹底的に批判することから出発したわけだが、日蓮宗、プロテスタントとも発生から数世紀を経て、主流派は既成教団化して精彩を失っている。一方で、日蓮やルターの思想を受け継いだ原理主義者は、次々に分派活動を起こし、先鋭化、カルト化することが避けられないという経過を辿るのである。原理主義という言葉は、過激なイスラム教原理主義者の台頭で、かなり差別的に用いられるようになってきているので、キリスト教ファンダメンタリストは、日本では自らを根本主義と呼ぶようになっている。しかし、侵略を進出と、敗戦を終戦と、売春を援助交際と、被差別部落を同和地区と、釜ヶ崎を愛隣地区と言い換えたところで、実態は何も変わるわけではない。そんな言葉の言い換えは、全くナンセンスである。
 原理主義とは何か、それは原点に帰ることを至上命令とするということである。そのこと自体は決して間違っているとは言えない。しかし、日蓮はそれを法華経に求め、ルターは聖書(ことに新約聖書のパウロ書簡)に求めた。これが、そもそもの間違いなのである。仏教は釈迦に帰るべきであり、キリスト教はイエスに帰るべきである。しかし、釈迦もイエスも、自ら経典を書いてはいない。どちらも、行動の人であったからである。釈迦はインド、イエスはユダヤにおいて、既成宗教の絶大な力によって差別され虐げられた民衆を救うために、すべての人の平等を求めて非暴力的に一人立ち向かって行った。後の人は、そこに仏を見、神を見たのであった。そして、釈迦やイエス自身を、仏そして神の子と崇拝する人たちにより、彼らの死後数百年かかって仏典や聖書(新約)が著されたのである。現代では、科学的な文献学的研究が進み、釈迦やイエスの実際の言葉と見なされるものは、それほど多くないことが明らかになってきている。しかし、仏典や聖書を科学的な読み方で読み解くことによってこそ、釈迦やイエスの真の生き方が、一層明らかになるのである。だが原理主義者は、経典に書かれていることを逐語的に真実とみなす全く非科学的な姿勢をとり続けており、それこそが純粋な信仰であると勘違いしている。これは、釈迦やイエスの姿勢とは相容れないし、和解と許しをもたらす救いの教えではなく、分断と怒りをもたらす縛りの信仰をもたらしている。私に言わせれば、原理主義は信仰ではなく盲信・妄想である。
 物質的に恵まれているが精神的な豊かさが失われつつある現代という時代において、既成宗派が教勢の伸び悩む中、創価学会やエホバの証人(ものみの塔)のような、従来の日蓮宗やプロテスタント教会からも異端視されるような、極端な原理主義的宗派ほど、既成教団を上回る信者を獲得し、勢力を増しているのが実態である。創価学会は日蓮正宗から破門され醜い近親憎悪の争いを続けているが、母教団をはるかに上回る1200万人の信徒を誇るし、エホバの証人は、既成教団から異端とされカルトの烙印を押されながらも日本では他のプロテスタント全教派の信者総数を上回る100万人近い信者数がある。
創価学会とエホバの証人は、政治指向の点では正反対であるが、他宗派を徹底的に攻撃して自らを唯一の正しい宗教とする点、非神秘主義的である点、聖職の否定、文書を活用しての積極的な布教、現世に理想社会を建設することを目的とするなど、非常に良く似た傾向をもっている。また、その辺りが現代という時代にマッチし、多くの信者を獲得している理由とも言えるだろう。しかし、その攻撃性は時として一般社会との摩擦を生み、仏教におけるオウム真理教、キリスト教におけるダヴィディアン・ブランチのような破壊的行動こそないが、反社会的という点ではカルト宗教と紙一重と言える。仏教とキリスト教という、全く違う宗教であっても、その進化は同じ方向に進むということだろうか。オーストラリアで有袋類が、他の大陸における哺乳類と非常によく似た平行進化を遂げたように。
 日蓮系は、民族主義的な傾向も強く、軍人の石原莞爾のように世界最終戦争による理想社会実現のため侵略を肯定する思想家も輩出した。この点、アメリカの福音派の熱心な信奉者であるブッシュJr.もそっくりである。しかし、日蓮宗でも不受不施派のように、反国家主義を貫いて弾圧を受けた教派もあり、戦前の福音派では最もファンダメンタルだったホーリネス派が、やはり天皇と国家に従がわずに厳しい弾圧を受けた。また、日蓮宗に身をおきながらも、既成教団の姿勢を批判し、反資本主義、反国家主義、反戦平和運動を行った妹尾義郎のような人がいたし、プロテスタントにあっても、日本キリスト教協議会のように、宗派を超えて社会派と言われる人たち同志で連帯した組織もある。しかし、最近は社会派や自由主義神学的な主流派は落ち込み、福音派が急進している。様々なプロテスタント系の合同によって生まれた日本基督(キリスト)教団の中でも、聖霊刷新協議会(ペンテコステ系)や旧同盟基督教会(アライアンス系)など福音派の力が増してきている。
 現代ではマスコミを通じた布教活動も活発であり、日蓮系では霊友会がことに熱心である。ここからは、民族主義右翼の仏所護念会や、他宗派やキリスト教などとも協調しつつ平和運動にも力を注ぐ立正佼成会など、数え切れぬほどの新興宗教が生まれている。キリスト教ではペンテコステ系が、アメリカでTVなどを通じて多くの信者を獲得し、日本ではこの系統は大きな宗派こそないもの、ここからフルゴスペル系などきわめて多くの宗派が生まれている。これに近いレストレーショニズム系(「キリストの教会」系〜チャーチ・オブ・クライスト系キャンベル派〜有楽器派・無楽器派、ボストン派、クリスチャン・チャーチ系などいくつか分派がある)は、日本でも最近若年層を中心に大都市で急速に伸びているカルト的な異端的宗派で、アドベンチスト系に分類することもできるだろう。
 日蓮系(法華宗系)では、法華経に登場する帝釈天や鬼子母神のようなインドの神々だけでなく、三十番神という日本独自の神々をも守護神として崇拝している。降霊の秘儀を行う神女(古神道の巫女に当たる)というシャーマンまで存在する法華神道という仏教か神道か区別がつかぬ系統もあるし、最上稲荷教も、日蓮系であるが現世御利益を強調して仏教か神道かよく分からない。キリスト教でも、このような民族主義傾向、神秘傾向に逸脱した異端として、ユタ州が聖地のモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)や、文鮮明をキリストの再臨と見なす統一教会(世界統一神霊キリスト協会)、スウェーデンボルグ派(ジェネラル・チャーチ・オブ・ニュー・エルサレム)、シュタイナー派(人智学協会)などがある。
 私の所属する聖公会(英国教会系)は、儀礼的にはほとんどカトリック同様で保守的だが、教義的には一応プロテスタントながら全くといっていいほど自由で、それが故に世界的にも分裂した宗派はほとんどない(イギリス、アメリカにはいくつか存在する)。カトリックも思想的にはプロテスタント以上に幅広いものを内包しており、主流は保守・右よりであることは間違いないが、南米の解放神学のようにプロテスタントにもないような極左派の思想まであり、イエズス会や正義と平和協議会は、カトリックの中にあって反権力・反戦平和を貫いている。キリスト教にはもう一つ、オーソドックス(日本ではハリストス正教会、ロシア東欧圏で主流)という流れがあるが、これはカトリックよりさらに古い儀礼を守っている宗派である。
 私は、仏教では浄土真宗(親鸞)の教えがキリスト教に近いので親近感があり、特に社会派の多い真宗大谷派には、シンパシーを感じる。キリスト教では、メノナイトやフレンド派、ユニテリアン、(内村鑑三の)無教会派などが自分の考え方に近いだろう。しかし、どの宗教を信じるかということよりも、どのような姿勢で、どちらを向き、どのように生きるかということが大切なのだ。その意味で、多様性を認めず分派を繰り返す原理主義者は、終わりのない無間地獄の深みにはまってしまっていると言える。

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