フェミニストとしてのイエス

 女性も男性も、人権は平等であるべきだ。だからといって、男らしさ、女らしさを否定することは、全くおかしなことである。男は男らしく、女は女らしくあった方がよい。しかし一方で、女らしい男や、男らしい女がいても、それは認めるべきである。目は見るためにあるし、耳は聞くためにあるが、目の見えない人も、耳の聞こえない人も、そのことにより人間の価値は全く減じないのと同じように。
 民族差別を否定しながら、民族文化を否定することが全く道理に合わないように、性差別を許さないのであれば、性差というものをはっきりと認める必要がある。性は決して単純に2つに分けられるだけではなく、セクシャル・マイノリティーも、厳然と存在する。他人の人格を否定するような性的嗜好は許されないが、ゲイやレズビアンは子どもを作れないこと以外、何の問題もない。性同一性障害者や、同性愛者にも、それ以外の人々と同等の権利を認めるべきだとして、アメリカでは性転換手術や、同性の結婚などを合法化する、リベラルな自治体も出てきている。
 私は、このように多様な性の形態を認めることは、正しいことであると思う。私の所属する日本聖公会は、英国国教系のプロテスタントで、数年前にようやく女性司祭が認められたばかりの保守的な教派だが、アメリカ聖公会では同性愛者の主教も誕生しており、いずれは日本でもそれが当然のことになると、私は思う。
 しかし聖書では、旧約新約を問わず、同性愛については神に背いた行為として罪に定めている。でも、罪に定めているのは神ではなく、人間である。聖書は別に、神の言葉でも何でもない。新約聖書のテモテへの第1の手紙では、女性が男性の上に立ったり指導することはよくないとし、女は慎み深く貞淑、従順であるべきで、子を産むことにより救われる、と説いている。フェミニストならずとも、こんな女性差別が聖書に堂々と書いてあることには、憤慨するのである。大体、聖書は最初からして、神が最初に男を造り、そのあばら骨から女を造り、その女にたぶらかされて禁断の木の実を食べたのが罪の始まりだなんていう話なのだから、女性蔑視はいたるところにある。聖書を神の言葉とする教えによって、世界の進歩がどれほど妨げられてきたことだろうか!!
 私は、自分のことをクリスチャンであると思っているが、聖書に書いてあることが全て真理であるなどという馬鹿げた考えは毛頭ない。パウロの名を語ってテモテヘの手紙を書いた作者は、全くとんでもない男であるが、こんな私がクリスチャンであることを止めないのは、イエスという人間だけは、信じることができるからである。
 新約聖書が今の形になったのは3世紀で、聖書にあるイエスは、神の子として崇められ余りにも脚色されているが、彼は生前、大酒のみで大喰らいと揶揄されていたのである。聖書にもはっきり、そう書いてある。水を葡萄酒に変えるという、なかなかオツな奇蹟も起こしている。まあこれは、別に驚くほどのことはないトリックだったろうし、イエスは実に人間臭い奴なのである。しかし、彼が内に秘めた信仰は、きわめて強いものだったし、たった一人でユダヤ神政国家と大ローマ帝国を敵にまわし、最も残虐な刑罰である十字架刑に処せられてもなお、自分の信念を決して曲げなかった。聖書を書いた連中のことは信じられなくても、こういう男のことなら、信じられるってものである。
 イエスが、ユダヤの律法により罪人と定められていた最下層の人間達と親しく付き合ったことは、確かであり、その中には娼婦もいたと、聖書に書いてある。イエスはどんな人間も差別しなかったから、同性愛者について語った記録はないが、もし彼(彼女)らと出会っていたら、もちろん全く分け隔てなく付き合ったに違いない。またイエスは、「あなたの信仰があなたを癒した」と語り、多くの女性を不治の病から救ったことも聖書に書いてある。娼婦以外に、女性の職業がなかったような差別のひどかった時代において、イエスは女性を全く差別しなかった。だからこそ、多くの女性にも慕われたのだろう。今で言うところの、フェミニストだったのだ。
 さて、世界最初のクリスチャンは、誰だっただろうか? それは十二弟子ではなく、マグダラのマリア(マリア・マグダレン)であり、最初に復活のイエスに出会ったとされる、罪深い女である。いや、罪深い女と聖書にしたためてあるのは、彼女らを陥れて初代キリスト教会を男性だけで牛耳ろうとした連中(テモテへの手紙の作者もその一人)の陰謀によるものだろう。彼女は、元娼婦(売春婦)だったと見なされてきたが、聖書にはっきりそう書いてあるわけではない。いかにもそう思わせるような、書き方がされているに過ぎない。
 1945年にエジプトのナグ・ハマディで発見された、正典聖書から排除されたグノーシス派文書、トマス福音書やフィリポ福音書などによれば、マグダラのマリアはイエスの伴侶とされ、イエスとの接吻の記述もある。マグダラのマリアを始めとする女性たちは、イエスの十字架刑の場にもいたが、十二弟子の男どもは恐れをなして逃亡中であった。イエスに最初に従ったのが女性たちであったという事実を、さすがに正典福音書の著者らも隠せなかったのだが、初代キリスト教団を、復活のイエスに出会ったという男の使徒たちだけで独占し女性を排除するために、マグダラのマリアらを罪の女として陥れたというのが事実だったのではなかろうか。
 女性差別主義者は、いつの世にもいるものだが、権威をかさに着る勇気のない男は、間違いなく女性を差別するものだ。これは男性の肉体的優位性と暴力とが結び付き、暴力による支配が未だに社会のヒエラルキーを決定しているためである。最近、早稲田や東大というエリート学生がメンバーになっているナンパ・サークルでの集団レイプ事件が明るみに出たが、それを受けて自民党の太田誠一議員は「強姦するくらいの元気があった方がよい」と人格を疑うのに十分な発言を平気でし、森善朗元首相も、「子どもも産めない女に云々」という女性蔑視発言をしている。彼ほど失言の多い議員もいなかったが、学生時代に売春防止条例で逮捕歴のあることを隠していたようだし、さもありなんというところだ。こういう議員は、どんどん失職させなければならない。女性を差別する人間は、あらゆる差別をする人間であるのだから。小泉首相も離婚原因はDVという噂だから、気をつけた方がいい。
 ところで、アジテーターとして右に出る者のいない太田龍は、最近アメリカのネオコンによる対テロ戦争同様に、ラディカル・フェミニズムによるフリー・ジェンダーも、ユダヤ資本家ネットワークによる世界家畜化の陰謀であるなどと言っている。彼はかつて、共産党から世界同時革命を目指す極左に転向し、革マルや中核派の前身である革共同の創設に加わり、北海道に潜入してアイヌ解放闘争などと称して爆弾テロをけしかけたりしていたが、その後先住民のライフスタイルへのこだわりから自然食運動(イサキ自然食生協)やエコロジー運動(日本みどりの党)を始めたかと思ったら、最近では日本神道を再評価し始め、西欧近代文明を否定する余り反ユダヤ主義の著作を次々に発表し、いつの間にか極右民族主義者になってしまった。彼は、「家畜制度全廃論」などという本も出すディープ・エコロジストでもあるが、人間家畜化というコンセプトはもちろんハックスレーやオーウェルのアンチユートピア小説からヒントを得たのだろうが、それとフェミニズムと結びつけるところは何とも強引である。ジェンダーとは社会的な性差のことであり、家畜化に必要なセックスの管理とは全く関係がないのである。
 太田が西洋キリスト教文明を批判しているだけならまだよかったが、最近では「聖書の神は宇宙人だった」なるトンデモ本まで大まじめに書いて、世界中で日本人(縄文人)だけが宇宙人の影響を受けておらず、世界の邪悪を倒せる唯一の民族だなどと言っている。まあ、こんな説にまともに取り合う人間などいないだろうが、これがかつての極左の行く末かと思うと、最近の日本の右傾化の流れも心配になってくるというものだ。
 太田とは姿勢としては全く正反対、世間的にも好感度は抜群な、有機農業では世界的な一大勢力となっているバイオダイナミックの創始者であり、日本ではリトミックやオイリュトミーなど教育方面で有名なルドルフ・シュタイナーの女性観について、触れておきたい。人智学というものを確立したシュタイナーは、オカルトの教祖ともいえる神智学を創始したブラヴァツキー夫人の流れを引いていて、人間を差別することが極度に推し進められたナチスドイツの時代に、女性性ということを人間性の重要な要素であるとしたフェミニストでもあった。しかし私は、彼のキリスト教を装った神秘主義を、余り好きにはなれない。イエスという男は、神秘的、神話的、宗教的な権威というものを非常に嫌った人間であったと思うし、悟りということからほど遠い所にいたイエスにこそ、私は心底惚れるのだ。

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