キリスト教原理主義者とシオニスト 〜世界最終戦争(ハルマゲドン)を望む権力者たち〜

 このところ、宗教ネタが続いていて申し訳ありません。しかし、キリスト者のはしくれ(というよりイエス主義者)として、今の世界情勢には黙っていることができません。聖書の世界観や正統的キリスト教神学が、それらのことに大きな責任を負っていると思われるからです。 ブッシュ大統領は、なぜこんなに好戦的なのでしょうか。ブッシュ政権は、キリスト教原理主義者(=根本主義者=ファンダメンタリスト)に固められています。ブッシュJr自身、熱心な福音派のキリスト教徒で、その教えに基づいて政治を行うということを公言し、歴代大統領の中でも最も宗教に密着した政治を行って、はばかりません。現在のアメリカでは、イスラム諸国以上に、宗教右翼が政治に深く関与している状態にあります。
 キリスト教原理主義者たちは、聖書に基づく終末論的世界観から、反キリストをこの世から一掃すべしという恐るべき思想を持っています。かつてその矛先は唯物論者=マルクス主義共産主義者に向けられていましたが、ソ連崩壊後、彼らはアメリカで大きな力を握っているユダヤ系政治家たちと結託し、中東にあって反イスラムの唯一の砦であるイスラエルの強硬路線を強力に支持しているわけです。今回の米英軍によるイラク攻撃は、石油が目的というだけでなく、フセインがパレスチナ・ゲリラを支持していたことに対しての、十字軍的な意味合いも含んでいると言えるでしょう。しかし、キリスト教国では、昔から反ユダヤ主義も根強くあって、ユダヤ人迫害が過去に繰り返されてきたように、彼らとシオニスト(イスラエル建国主義者)は、本来敵同士なのです。
 キリスト教は当初、ユダヤ教の一宗派としてスタートしましたが、正統派キリスト教が確立した頃には、ユダヤ教と完全に決別しました。新約聖書は全てギリシャ語で書かれていますが、ユダヤ人に向けて書かれたマタイ福音書などと、ユダヤ人以外に向けて書かれた書物が混在しています。キリスト教は、イエスを十字架にかけて殺したのをユダヤ民衆の責任にすることで、世界宗教への道を踏み出して行ったのです。
 しかし、キリスト教原理主義者とシオニストは現在、エルサレムからイスラム教徒を追い出すという一点において、一致協力しているわけです。共通の目的のためには、共闘しようというわけなのでしょうが、これはどちらにとっても少しおかしなことです。よく知られていないことですが、イスラエルが敵視するパレスチナ人には、実はイスラム教徒だけでなく、キリスト教も少なからずいるのです。そして、イスラム教徒もキリスト教徒も、ユダヤ教徒と同じ旧約聖書を経典として認めているのです。つまり、これら3つの宗教の神は、同じ聖書の唯一の神なのです。エルサレムは、これら全ての宗教にとっての聖地です。そして、パレスチナ人は、ユダヤ人と全く同じ人種であって、宗教と言語が違うだけです。さらに、イスラエル建国以前にも、ユダヤ人は世界中に散らばっていただけでなく、パレスチナにも住み続けていたのです。だから、ユダヤ教徒のパレスチナ人(アラブ人=アラビア語を話す人)も、存在していたのです。
 シオニストとキリスト教原理主義者たちは、イスラエルからパレスチナ人を追い出そうとしていますが、その目的も方法も、両方とも完全に間違っているわけです。彼らがやろうとしていることの真の意味は、根拠のない差別と隔離により、経済的な搾取を永久に可能にしようということだけです。
 今でも世界に散らばるユダヤ人(=ディアスポラ、イスラエルの約3倍の人口)には、銀行家など金持ちも多いことからか、差別を受け続けてきました。日本にはユダヤ人はほとんど住んでいないにも関わらず、日本の右翼には、ユダヤ人が世界を支配しようとしているなどと騒ぎ立て、ユダヤ人攻撃をするものが少なくありません。大分前にイザヤ・ベンダサンという偽ユダヤ人(=右翼キリスト教?文化人?の山本七平)の「日本人とユダヤ人」という本がベストセラーになりましたが、あれはほとんど嘘偽りで固めたトンデモ本でした。現在でも、300万部も売れた「バカの壁」のように、専門家が書いてバカ売れするベストセラーは、科学的に装っているけれど、内実は偏見に基づいて勝手なことを書いているものが多いですね。私は、あの本少し立ち読みしましたけど、バカらしいのでやめました。
 ここでは反ユダヤ主義を反駁するのが目的ではないので、シオニストとキリスト教原理主義者に話を戻しますが、彼らは、聖書を自分達の都合のよいように解釈しているに過ぎません。聖書に表された、ユダヤ選民思想や、キリストを信じるものだけが終末に救われるという信仰は、被差別状態からの解放を目指す状況下で生まれてきたものです。しかし彼らはそれを、支配を正当化するための思想とし、差別する根拠として用いているのです。状況が変わっているにも関わらず、字句通り解釈しようとするから、おかしなことになるのです。
 そのような理解の仕方は、聖書を神の言葉と信じるところから来ています。聖書が唯一の真理であり、聖書に従って神の計画はこの世に実現し、その計画を遂行するのが自分達の務めであると、固く信じているのです。そういう考え方を原理主義と言うのであって、イスラム教原理主義者も、コーランを同様に硬直的に解釈して民衆から自由を奪っています。
 聖書は我々にとって(欧米人にとっても)、はるか昔の異文化、異言語で書かれた物ですから、それが書かれた時代背景も同時に学ばなければ、真の意味を理解することは困難でしょう。しかし、前号でも明らかにしたように、原理主義者らのような誤った解釈が生まれる原因は、聖書そのものにもあるのです。新約聖書においては、歴史的事実は一つのはずなのに、イエスの言葉や行動が、4つの福音書によって、すべて異なっています。正典とされなかった外典や偽典も含めれば、もっと多くのイエス像があります。聖書が成立する時点で、すでにキリスト教は支配階級に取り込まれており、当初の革命的な思想を反革命に変化させる作業がなされのではないかというのが、私の想像するところです。人間の考えなど千差万別ですから、イエスの死後、イエスについての評価が様々であったことは、仕方のないことかもしれません。ですが、イエス像を自分勝手に作り上げられてはたまりません。しかも、福音記者ヨハネやパウロにとっては、イエスがどんな人間であったかということは重要なことではなく、神の独り子であるイエスの死と復活による人類の贖罪ということを、信仰の根幹としているのです。私には、これが決してイエスの遺志を引継ぐ信仰であるとは思えないのです。
 私は、イエスの生き様、死に様により生まれた信仰の原点を、聖書よりも尊いものであると確信します。福音書の中では、マルコ、次いでルカに最もイエスの生き様が表されているように思えます。聖書の中で、あまり宗教的でないところ(マルコ福音書は、キリスト教神学では最も軽視されてきた)にこそ、真実が隠されているのではないでしょうか。
 新約聖書が成立する以前の原始キリスト教、さらに、キリスト教成立以前のイエス自身には、戦争のような暴力や、人による人の支配を肯定するような思想は、どこにもなかったのです。ところが正統派神学は、アウグスチヌス以来、正しい戦争というものを認めて来ました。小泉首相も、イラク戦争は正しい戦争だったと言い張っていますが、弱い者だけが殺されることになる戦争が、どんな理由であろうと正しいものであるはずなどありません。暴力は憎しみしか生まないのですし、戦争以外の方法でイラクを救う道はいくらでもあったのです。イエスの思想の真髄は、人間を抑圧するすべてのものからの解放、完全な自由を、非暴力的手段で実現することであり、それこそが永遠の命の意味するものです。
 新約聖書に劣らず、いや、それよりはるかに旧約聖書の世界は多様です。人間の生々しい罪の姿が、実にたくさん描かれています。でも、基本的には戦争を虚しいものとし、権力の暴虐を厳しく糾弾するという視点が、随所に見られます。イエスは行動の人でしたから、自ら経典を書いたりはしませんでしたが、唯一の父なる神を信じ、非暴力に徹して、権力から最も遠いところにいる人達と共に歩みました。イエスが行った業の数々は、当時のユダヤ教の常識を、はるかに超越していたので、ユダヤ上層部と鋭く対峙することになりました。しかし決して、旧約の神の概念とは、矛盾するものではなかったのです。けれど、あまりにラジカルだったため、権力によって殺されました。しかし、イエスはその死を無駄にはせず、弟子や多くの人たちに、彼の精神が受け継がれました。それこそが、復活の意味であると思いますし、そのことに私は大きな勇気を与えられるのです。
 一方、キリスト教の教義の中心ともなっている新約聖書に記されたパウロの思想は、イエスの思想を無視したところにあり、極論すればイエスの思想を殺してしまっているのです。パウロやペテロにより作られた初代教会は、イエスの十字架と復活を、ユダヤ教のメシア再臨思想と結びつけました。しかし、イエス自身は自分が神の子であるとか、メシア(キリスト)であるとか、そういうことは決して言うことがなかったのです。イエスは、唯一の神のみを信仰し、自分を神格化しメシアに祭り上げようとする企てを、決して良しとはしなかったのです。 それなのに、新約聖書に取り入れられた文書のほとんどは、旧約聖書の言葉を実に多く引用し、ユダヤ民族のアインデンティティーに過ぎなかった旧約聖書の解説書のようにして書かれ、イエス=世界人類を救うキリストとし、民族宗教を脱皮して一元的な世界支配が到来するという世界観をもった宗教へと変貌させて行ったのです。
 もちろん、元々原始キリスト教団を迫害していたパウロ(当時はサウロ)が、権力の手先だったというわけではないでしょう。パウロやイエスの弟子たちが、権力による殉教をも恐れずに宣教したのは事実であって、それは極めて尊いことでした。それがなかったら、キリスト教が世界に広まることもなかったでしょう。しかし、神の独り子であるイエスの十字架による死で、全人類の罪が贖われたとするキリスト教神学は、史的イエスの思想とは何の関係もないばかりか、彼の革命的な思想と矛盾する可能性を包含しており、この神学によりキリスト教は、世界の権力者たちにとって、非常に都合のよい宗教として利用されることになってしまったというのが、私の推論です。
 キリストの再臨とは、終末にイエス・キリストの肉体が三度現われることなどではないでしょう。そのような根拠のないことを主張する必要が、どこにあるでしょうか。ユダヤ人の手により肉体を殺された後、皮肉にもキリスト教によってさらに殺されてしまったイエスの思想こそが、再び蘇るべきなのです。人間イエスの解放の思想は、十字架によっても抹殺することができなかったように、世界の終末においても、世を救う思想となることでしょう。それは、強いものだけが勝利を治める一元的なグローバリゼーションを肯定する思想ではありません。世界の終末は、もう始まっているのです。戦争、飢餓、環境破壊、凶悪犯罪、人類とすべての生命に及ぶ様々な終末的危機に対して、イエスの非暴力による解放という思想こそ、世界を救う鍵となるでしょう。

おまけ: ユダヤ人と音楽 
 ユダヤ人には、音楽家がきわめて多い。日本でも、音楽はもともと、被差別階級や盲人のやるものだったように、ユダヤ人が差別されてきたということが、その理由の一つではあるのだろう。「屋根の上のバイオリン弾き」というユダヤ人を主人公にした有名なミュージカルがあるけれど、少し前まではヴァイオリニストと言えば、アメリカでもロシアでもほとんどユダヤ系だった。最近は、日本人や韓国・中国系が世界的に台頭しており、ヨーロッパの一流オケでも弦楽器に東洋人がいないのは、ウィーン・フィルくらいになったが。もう亡くなったが、ヴァイオリン界の重鎮だったアイザック・スターンのアイザックは、イツァーク・パールマンのイツァーク(日本語聖書ではイサク)の英語読み。ピアニストはヴァイオリニストほどじゃないが、アシュケナージなど活躍しているユダヤ系は、やはり少なからずいる。
 先日ビデオを借りて「戦場のピアニスト」を見た。主人公が隠れ家に潜んでいる時の姿が、私にそっくりという話を何人もの人に聞いたからなのだが、結局は髭も髪も伸び放題というだけのことであった(笑)。それはさておき、この映画では、ナチスドイツのユダヤ人ホロコーストの残虐性が恐ろしいまでに描かれているが、シュピルマンというユダヤ人ピアニストが、その芸術性故にドイツ人将校から命を助けらたという実話に基づいている。映画の中で、彼の弟は、銃による蜂起に参加してドイツ軍により殺される。主人公は、弟の蜂起を助けながらも、自らは生き延びることだけに執着して身を隠す。芸術を理解する友人らに助けられながらも、最終的にドイツ軍将校に見つかってしまうが、彼は自分がピアニストであることを告げて、そこに偶然あったピアノを何年かぶりに弾き、命を拾う。ナチスもワーグナーの音楽を戦意高揚に利用したが、彼の弾くショパンが暴力を止める力を持っていたことに、救われる思いがした。

>>>> えこふぁーむ・にゅーす見出し一覧