「タラントンのたとえ」・・・キリスト教の犯してきた罪の根

 これから述べようとする文章は、私が尊敬する、敬虔なクリスチャンであり、開拓酪農家であり、またヴァイオリンとチェロの演奏家でもある、瀬棚フォルケ・ホイスコーレ校長の河村正人さんから、「農民オケの演奏会に、残念ながら出られそうになくなった。」という手紙とともに添えられて来た、フォルケの会報に載せるつもりだった文章に対し、返事として出したものです。河村さんは、「聖書にある有名な<タラントンのたとえ>の箇所は、書き替えるべきだと信じているが、とんでもない勘違いだろうか・・・」と述べています。この<タラントン>とは、イエスの譬え話の中で、御主人さまが僕に与えたお金の単位であり、「神から与えられたもの(才能)を生かしなさい。」という解釈によって、<タレント>の語源となったものです。しかし、これはイエスが本来語りたかった意味とは、まるで違う解釈によるものです。河村さんは、そのことをご自身の信仰に照らし、直感的に確信し、これは天の国の話などではなく、誰かが聖書を改ざんしたに違いないと言っています。
 私は、なぜそのような間違った解釈が聖書に書かれるようになったのか、そのことをつきつめる必要を感じています。十字軍、魔女裁判、植民地支配、そして現代の対テロ戦争に至るまで、キリスト教が犯してきた罪の数々、それらはキリスト教の本質とは無関係なのでしょうか。それらの罪を犯すに至った原因の追及をせずに、キリスト教が愛の教えを説くことなどできるはずがありません。この<タラントンのたとえ>は、いわゆるキリスト教国が、資本主義的な搾取の構造を容認し、推進することに、大きな貢献をしてきたと言えるでしょう。
私は、天地創造の神を信じ、神が愛であることを信じます。そして、イエスの十字架と復活(肉体ではなく精神の)を信じ、イエスの生き方にならうクリスチャンとして生きることを誓いました。しかし、イエスの教えに反しているとしか思えない、自称クリスチャンはたくさんいます。それはなぜなのか、人間に原罪があるからなのか。そうではなく、キリスト教神学の中に、非イエス的なものが、たくさんあるからではないのでしょうか。
 私は、イエスを神格化するつもりはありません。逆に、イエスを神格化することこそ、最もイエス自身が嫌ったことだと思います。イエスは、自分を神の子とさえ呼ばせなかった。そのイエスを、新約聖書では神のひとり子と位置付け、三位一体神学では神そのものとさえ認めるのです。カトリックは聖書以外にも使徒の継承と称して様々な権威を認めたためイエスの本質から遠ざかり、それに抵抗してプロテスタントが生まれたとされています。一面ではそうでしょうが、聖書のみを神格化したプロテスタントは、聖書自体に反イエス的なものがあることにまでは気付かず、ある面ではかえってイエスの生き方から遠ざかっていると思うのです。
 イエスという歴史上の人物、その生き方、死に様が、キリスト教を誕生させたことは事実です。それが新約聖書によって、世界的なものとなったことも、事実です。しかし、それは神の真理そのものとは、決してイコールではない。イエスの意志とは関係のない、また矛盾した教えをも取り込むことで、キリスト教はこの世の権力に迎合し、否、もっと積極的に権力の道具として、キリスト教は利用されてきたのです。そのことを、徹底的に検証する必要があると考えます。この検証は、私には力不足でできませんが、以下の文章の根拠は主に、私が尊敬する、聖書学者の田川健三氏や、札幌から川崎に移られて牧師をしている大倉一郎氏によって得た知見に、基づいています。
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 河村さん、あなたは決して間違っていません。聖書、というより福音記者マタイ?が、イエスの言葉を改ざんしたのです。<タラントンのたとえ>(マタイ25:14〜30)は天の国ではなく、まさしく地の国の話です。マタイは全くもって、イエスの言っていることをねじ曲げたひどい奴です。イエスがどう言ったのかは、ほとんど同じ形でルカによる福音書19:11〜27に、<ムナのたとえ>として出ています。たとえ自体は、ほとんど同じ、いやもっと強烈です。でも、マタイは一番肝心な言葉を削除して、そのたとえを全く誤解させる言葉を勝手に追加している。これは有名な<山上の説教>(マタイ5:1〜12)でも全く同様です。イエスが本当に語ったと思われる言葉は、ルカによる福音書6:20〜26に、弟子達に対する<平地の説教>として書かれています。そこに書かれているのはこうです。「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。・・・人々に憎まれるとき、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名をきせられる時、あなたがたは幸いである。・・・しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である。あなたがたは飢えるようになる。・・・すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。」これこそ、イエスの語った言葉に違いありません。しかしマタイは、これでは多くの人にイエスをキリストとして受け入れてもらえないだろうと考えて、勝手に創作したのです。マタイはこれを、群集に向けた説教として「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。・・・義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる。・・・わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。・・・」と書いています。イエスが語っていた現実社会の貧困、飢餓の問題を、心の問題にすり替え、地上に実現すべき神の国を、天国にしてしまっています。そして、貧困、飢餓の元凶である金持ちに対する怒りの言葉を、完全に抹消してしまいました。削除された後半こそ、イエスは言いたかったに違いないのです。エルサレムの神殿で、貧しい人から金銭を巻き上げる商人たちを追い払ったイエスならば、搾取の構造こそ闘うべき敵でありました。マタイによる福音書は、キリスト教を世界に広めるのには役立ったかもしれませんが、イエスの考えを正しく伝えているとは、とても言えない代物です。
 では<タラントンのたとえ>で、イエスは何を言おうとしていたのか。ここでは天の国の御主人様は、あくどい商売をしてもうけた僕をほめ、厳しい御主人様を恐れて銀行にも預けず1タラントンを隠しておいた僕をほうり出し、「持っている人は更に与えられて豊かになり、持っていない人は持っているものまでとりあげられるであろう。」と語ります。マタイはおそらく、ルカによる福音書か、あるいはその資料となったイエスの言葉の記録を元にして、分かりやすく解説したつもりだったのでしょう。しかし、イエスが言いたかったことと、全く逆のことを言ってしまったのです。全くマタイは罪なことをしてくれたものです。
 ルカの<ムナのたとえ>では、御主人さまは僕に対して全く同じことをして、同じことを語っていますが、マタイよりさらに詳しい説明があります。この御主人さまはある立派な家柄の人で、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つのです。当時のユダヤ教の掟では、隣人に対して利子をつけて貸出しすることは、禁止されていました。あくどい商売に加担せず、利子でもうけもしなかった農民とおぼしき僕、つまり御主人さまよりも神に対して忠実であった僕を、王の位を得たご主人は悪い僕だとして裁いただけでなく、「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」とまで言うのです。殺すことはもちろん、十戒にもあるように神の教えに反する行為です。それにしても強欲で残忍な王ですが、この世の権力者とは、いつの時代にもこのような者です。
 この話を直接聞いた者たちには、これが天の国のことを話しているのではないことなど、すぐに分かったはずです。ルカ伝では、イエスはこのたとえ話を語った理由を最初に述べ、「イエスがエルサレムに近づいておられ、人々が神の国はすぐにも現われると思っていたから」と書いてあります。ここが肝心です。しかし、たとえ話しの解説は全くありません。それはそうです。そんなことをしたら、イエスのみならず、ルカによる福音書もこの世から消されていたでしょう。イエスの幼少時代、かのヘロデ王の息子の一人であったアルケラオが、父の死後にローマに旅立ち、皇帝アウグストからユダヤ・サマリアの領主としての支配を認められました。帰国後アルケラオは、彼の就任に反対していたエルサレムの貴族達を容赦せず殺しました。しかし、その後も民衆を脅かす恐怖政治を行い、安定した支配を築けなかったアルケラオは、結局10年余りでローマにより解任されました。そのことを、イエスの言葉を聞いていた誰もが、知らなかったはずはありません。
 エルサレムに入城しようとしていたイエスは、ローマの植民地支配を覆す、政治的・軍事的指導者としてのメシアを期待している民衆に対し、自分はあなたがたの望んでいるようなメシアではないし、権力者になるつもりはないということを暗に語っているのです。イエスはこの<ムナのたとえ>の前後で、金持ちを徹底的に批判し、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言っています。「持っている者は、更に与えられるが、持っていない人は、もっているものまでも取り上げられる」というくだりは、イエスの時代に民衆がよく語ったことわざだったようです。つまり、民衆の憤りを語った言葉を、偉そうにして民衆を苦しめている御主人様に語らせたのは、イエスの気の利いた強烈な皮肉であったわけです。金持ちを批判している最中に、神が金持ちをほめるなんてたとえ話を語るなど、そんな馬鹿なことがあるはずがないではないですか。それなのに、これを天の神の言葉にしてしまったマタイは、全くとんでもない解釈を施したものです。マタイが間違っていることは、聖書学者でなくとも、ルカ伝を読めば明らかにわかるのです。
 イエスがエルサレムに入って最初にしたことが、神殿から商人を追い出したことです。商人を利用してその上前をはねる神殿に巣食うユダヤ支配者たちは、ローマの傀儡でありながら、ローマを憎む民衆を利用してイエスをおとしいれようとしました。イエスは、ローマに税金を納めることは正しいかどうかと問われ、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」と答えましたが、これは決して、この世の権力に妥協してローマ帝国に税金を納めることを正しいと言ったのではありません。ましてや、政治のことは政治家にまかせ、よき信徒は信仰にはげみなさいという巷の教会で説かれるような意味ではありません。ローマ皇帝の肖像のある貨幣は、異邦人の偶像があるから、神殿税には使えなかったのです。当時、イエスのような身分の低い一般民衆は、ローマの税金なんかより、神殿税にこそ苦しめられていたのです。イエスの言葉は、ローマに多額の税金を収めていた神殿にいる支配層への、きわめて痛烈な皮肉の言葉だったのです。神のものというのが神殿税のことを指しているのは、彼らにはすぐに分かったはずです。イエスはもちろん、ローマ帝国からの支配を脱して民族国家を復活させようとしたのではありませんでしたし、ここでもエルサレムの神殿に対して対決姿勢を明確にしているのです。イエスはさらに、民衆からの搾取により建てられた神殿の崩壊を予言し、エルサレムの滅亡も予告します。だからこそイエスはローマにそむく者ではなく、神にそむく者として十字架刑にされたのです。イエスは、自分の命を救うために間違ったことを言うようなことは、決してしませんでした。政治的・暴力的に権力と闘う道も決してとりませんでした。あくまでも虐げられた者たちと歩み、最後はすべての弟子に見捨てられても、非暴力的に権力と闘うことをやめなかったのです。
 そのイエスの教えが、イエスの生前には、イエスを迫害する側だったパウロによってローマに伝えられ、初めは迫害されたキリスト教が、ローマ帝国の国教となるのです。そのためには、ルカやマルコによる福音書だけではだめで、どうしてもマタイによる福音書は聖書にいれておく必要があったのでしょう。農民革命を憎んだルターが特に好んだパウロ書簡だけでなく、マタイ福音書によってこそ、イエスの言葉に潜んだ革命的思想を、反革命思想に変質させることが可能になったのです。
  私は、自分がキリスト教徒というよりも、イエス主義者と言う方が的確かなと思っています。

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