生命の惑星の末期的状況をどう乗り切るか
今こそ人類は、農業革命に端を発した7千年の文明を築き上げてきた価値観と、決別しなければならない最終局面に直面しているのである。今後20年、長く見積もっても50年が、この文明の終末期である。このような終末が訪れることの警告は、何千年も前から預言者たちによってなされてきたのであるが、その警告を人類は正しく受け止めて来なかった。
人類が破滅から救われるためには、宇宙と生命の神秘に従う、永続的でエコロジカルな倫理に基づく人類本来の価値観に立ち返らなければならない。この価値観を最初に失ったのが農業革命であり、先住民のエコロジカルな生き方と決別し、自然と人間を搾取して剰余生産により文明を築く生き方が始まった。そして、これに拍車をかけたのが、デカルト−ニュートンの自然哲学−物理学により打ち立てられた近代科学である。近代科学は、西欧のプロテスタンティズムと共に、資本主義経済を伴って発展し、それまでは曲がりなりにもスプリチャルなものとして畏敬する対象であった自然観から人類を解放し、自然を人間によって支配・搾取する対象にしてしまった。近代科学は、神の創造した自然を解き明かす道具としてではなく、自然を自由に改造し、エリート以外の人間をも支配するための道具として働いており、何よりもイデオロギーとして機能しているのである。
産業革命後の文明は、何億年のもの歳月をかけて大地自然が作り出した化石である石炭・石油をエネルギー源とし、またそれを様々な薬品やプラスチックスなどの物質資源としても用いることによって成り立っているが、資源の搾取、労働の搾取なしに、このような文明の発展はなかった。しかし、この文明の基礎となっている化石燃料はあと数十年で使い果されてしまうわけで、我々は1千万年分の資源を1年で浪費するという、はかない文明の上に生きている。
そして、この文明の最終段階において、人類は天地創造の神の領域にまで踏み込もうとまでしている。その領域とは、2つの核技術であって、これは人類はおろか全ての生命をも破滅の危機にさらす技術でもある。2つのうちの一つは言うまでもなく原子力であり、もう一つは、この10年余りで急速に進んだ細胞核の遺伝子操作である。これら2つの技術は、生命にとって何のメリットもない。人類は、この技術により、先のない化石燃料に依存する現代文明の危機を乗り越えようとしているのだが、それは全く間違った解決方法であることに気付かなければいけない。宇宙と生命を創造した神の力に背くことは、およそ不可能なのである。宇宙の創造は原子核によってなされ、生命の創造は遺伝子核によってなされた。これを人類が操作できると考えるのは、不遜なことでしかない。これは神=自然に対する倫理、価値観の問題であって、科学を絶対的に信奉する人たちと、技術の安全性についてどんなに議論しても、話がかみ合うことはない。
科学を乗り越える正しい宗教の確立を!
現在の文明世界を牽引して来た宗教は、近代科学と同時期にルター・カルヴィンらにより誕生したプロテスタントである。もちろん、それ以前より、植民地支配による搾取の地ならしとして、カトリックも大きな意味を持っていた。では、キリスト教の思想そのものが、天地創造の神から人間を引き離してきたのか? それは、おかしな話ではないか。キリスト教は、天地創造の神に立ち返ることを説く宗教のはずである。しかし、キリスト教を自然から引き離し観念化させてしまった元凶は、ローマ帝国で権力との妥協により生まれたカトリックと、そして新たな植民地支配と工業化社会を目指した北ヨーロッパで生まれたプロテスタントであることは間違いない。これらキリスト教主流派は、決して聖書に記されたユダヤ・キリスト教の本質ではない。聖書の中には、カトリックが否定し切り捨てた神秘主義が少なからず残っているし、また正当的プロテスタントが弾圧対象とした農民運動の主体となったアナバプティスト(再洗礼派)こそ、聖書を最もラディカルに解釈したのであった。ルター・カルヴィンらの宗教改革は、封建制からの解放を進めた一方で、資本主義的ナショナリズムを推進し、金銭に最高の価値をおく社会に拍車をかけたことを認識すべきである。キリスト教の原点に帰れば、現在の主流派キリスト教は、大きな方向転換を強いられるであろう。イエスが「日ごとの糧を与えたまえ」と祈ったことを、食糧ではなく精神の糧だなどと曲げて解釈することは、もはや許されない。「パンこそ神」、「飯こそ天」と素直に理解する必要があるのだ。自然の中にこそ神は宿り、我々の生命を育んでいる。
また、世界3大宗教の残る仏教、イスラム教は、この現代文明に対して一体何ができるのであろうか。生きとし生けるものを尊び輪廻を説く仏教、そして自然や土地を神のものと認め、労働の対価以外は金銭で支払うことを禁じ、利子を認めないイスラム教には、自然と労働を搾取することによって成り立つ現代科学・資本主義文明を築き上げたキリスト教主流派に対し、その過ちを指摘することができるのではないだろうか。そして何よりも、文明を拒否してきた先住民の宗教であるアニミズムにこそ、自然と共に生きるための倫理が最も強く示されていることは確かだ。また、日本古来の神道にも、アニミズム的な自然観があるが、国家神道=天皇制は、稲作という農業革命により封建制を支える道具であったので、これにはまた、別の理解を必要とする。また、日本で発展した仏教諸派にも、ナショナリズムと結び付いた側面など、検証しなければならない面が多々ある。
ユダヤ教−キリスト教−イスラム教の基礎となっている旧約聖書は、アダムという人間の創造物語から始まる。アダムが神の国パラダイスから追放され大地を耕す罪を背負ったということは、神と共にあった先住民の行き方を捨て、農業革命により神から離れた文明を歩み始めた人類の歴史を示している。今こそ我々は、自然を搾取せず、人間を搾取しない、神の摂理にかなった正しい宗教を回復しなければならない。それだけが、この惑星を破滅から救う唯一の方法である。そうすれば、この世に神の国を復活させることができるだろう。