テロと闘うべきなのか?

 ビン・ラディンの予告通りと言うべきか。国連を無視した米英軍によるイラク侵略を支持し、フセイン(一体彼は生きているのだろうか?)を追放した米国傀儡政権に協力して自衛隊を派遣しようと計画している日本国の外交官2名が、ついにイラクでテロの犠牲となった。小泉首相は、テロリストの脅しに屈するべきではないと言っている。しかし、派遣される自衛隊員はたまったものじゃない。何のために殺される危険を冒してまで行かなければならないのか、納得できるのだろうか。国際貢献と言うけれど、ゲリラにとっては侵略軍でしかないのだ。名目は何であれ、日本の自衛隊が侵略戦争に加担しているという風に見なされても仕方がない。
 小泉首相は、なぜこれほどまでに自衛隊をイラクに派遣することにこだわるのか? 自衛隊はもはや世界有数の軍隊である。百歩譲って自衛隊が軍隊ではないとしても、自衛隊の海外派兵は明らかに憲法に違反している。もちろん、自民党は憲法を改正(改悪?)することを党是としているのだから、これは当然といえば当然のことかもしれない。
 イラクの戦後復興(まだ明らかに戦闘状態だが)に協力するのに、自衛隊でなければならない必要など、どこにもありはしない。戦後復興に協力することが目的なのではなく、自衛隊の海外派兵そのものが目的であることは、見え見えである。 日本も早く、普通に戦争ができる国になりたいということなのだろう。民主党に合流した小沢一郎も、かつてそんなことを言っていたし、民主党も基本的に改憲ということらしい。今回の選挙で2大政党化が進み、護憲派の社民党と共産党が衰退したことで、日本はとても危険な、かつて来た道を歩む可能性が高まってきた。大体、2大政党制など、民主主義にそぐわないことは、はっきりしている。共産党の一党独裁と、どれほど違うのだろうか。世界で2大政党制になっているのは、アメリカとイギリスくらいのものじゃないのか。そういえば、どちらも抜きん出て好戦的な国なのは、決して偶然ではないだろう。様々な意見をたった2つに分ける事なんかできはしない。イギリスの労働党もアメリカの民主党も、もともとはリベラルだったはずだが、段々と保守党や共和党と政策に差がなくなってきた。そうしなければ、選挙に勝てないからであり、正義を実現することよりも少数を切り捨てることによって、多数派を勝ち取ろうとする。そして、戦争というものは、国民を一致させるのに、最も都合がいいものだ。戦おうとしない者は、必ず非国民とか、卑怯者というレッテルを貼られる。多くの人は、戦うことが好きなのではなく、卑怯者として差別されることがいやで、仕方なく戦うことを選んでしまう。
 それにしても、なぜ人間同士が殺し合いをする戦争が、正義の名の下に行われるのだろう。どんなに正しい目的のためであろうと、人を殺すことは正しくない。どんな戦争も正義ではあり得ないし、殺し合いは悲惨以外の何物でもない。権力による殺人である死刑というものも、私はなくすべきものと思う。死というものは、生と同様、神だけが人間に付与できるものであると思うし、被害者の肉親の意識として極刑は必要という考え方があるが、そのような復讐心は戦争と同じで、本当の救いにはなり得ないと思う。また、冤罪の場合、死刑を執行してからではとり返しがつかないことになる。話はそれるが、札幌出身の星野文昭さんという人が、学生時代デモ中に機動隊員を殺したということで無期懲役の判決を受け、もう30年くらい収監されている。当てにならない証言だけしか証拠はなく、無実を訴えつづけていているのに、再審が認められない。明らかに政治的な意図での冤罪としか思われず、日本の司法が人権に対して余りにも抑圧的であることに、怒りを禁じえない。ちなみに、衆議院選挙と合わせて行われる裁判官の承認の投票では、私は必ずほとんど全員に×印をつけている。何人くらい×印をつけているのか、あれって発表されているんだろうか?
 話を本題に戻そう。テロリズムというものは、常識的には悪と見なされている。少なくとも、テロリストのやっていることに、表立って賛成するような人は、マスコミには絶対に登場しない。そんなことをしたら、袋叩きに合ってしまうだろう。しかし、イスラムのテロリストが正義を信じて自爆による殺人を行っていることは間違いがない。イスラム世界には、その勇気を賞賛する人たちも少なからずいるのだろう。かつての皇国日本のカミカゼ特攻隊のように。あれは、明らかにテロ行為だった。テロとは敵側の呼び方に過ぎず、やっている当人にとっては、ゲリラ行為ということなのだろう。
 テロリズムは、憎しみを増幅させる行為である故に、決してその目的を達することはできない。しかし、その目的自体は、決して間違っているとばかりは言えない。パレスチナゲリラが、イスラエルの不当な占領政策に対して抵抗しようとすることは当然であるし、イラク国民がアメリカの占領をすんなりと受け入れることができないのも理解できる。権力によるテロは別として、虐げられた側が解放を求めてテロに走ることには、同情の余地がある。
 しかし、だからと言ってテロリストの行為が許されるものではないし、新たな憎しみを生むだけのテロ行為は、彼らの目的とは正反対の結果を生むだけなのである。しかしながら、テロリズムに屈するのは悪いことで、テロリズムには毅然と立ち向かわなければならないのだろうか? 私はそうは思わない。なぜそうやって、暴力の連鎖を助長しなければならないのだろうか? なぜ、パレスチナとイスラエル、北アイルランドのカトリックとプロテスタント(聖公会)など、あのような暴力の応酬を何十年も続けなければならないのか。暴力の連鎖を断ち切るのは、いとも簡単なことだ、どちらかが暴力をやめればいいだけのことである。テロと闘うのをやめたら、テロに屈したことになるのだろうか? いや、そうではないのではないか。テロを根絶するために、テロリストと和解する他にとるべき道があるだろうか。暴力に屈して、要求をのむ必要はない。正当に話し合いをすれば、済むことなのである。それができないのは、テロを受ける側に非があるからではないのか。権力側は、軍隊や警察という暴力装置を使って支配しようとするが、権力に不満をもつ人々にとって、暴力による支配は、暴力を生むだけである。ブッシュのテロに対する闘いが勝利を収めることは、決してないだろう。

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