クローン人間はなぜいけないか!
 つい先日、スイスに本部をおくラエリアン・ムーブメントなる新興宗教団体が、世界で初めてクローン人間を誕生させたと発表した。その真偽のほどはかなり怪しいため、マスコミや学会もとりあえず無視している様子で、その反応はきわめて当然のことである。しかし、羊や牛などのクローンはすでに誕生しているから、人間でも技術的にはすでに可能な段階に達していると言ってよく、議論を絶やすべきではないだろう。もちろん技術的に可能ならばやってよいということにならないのは、自明のことだ。しかし、倫理的にどうかということは、議論が分かれると思うので、それはさておいて、まず技術的に安全かどうかということに絞って議論することが先決だと思われる。
 まず、クローンとは何かを理解する必要がある。それは、生殖(男女2つの異なる遺伝子の組み換えにより新たな遺伝子を持つ個体が生まれること)によらずに作り出された、全く同じ遺伝子をもつ新しい個体のことである。遺伝子のコピーということ自体は、一卵性双生児と同じことだから、別に恐れるには値しない。遺伝子で人格がすべて決定するわけではないし、単純にコピーというだけで批判する議論が多いのは、残念に思う。もちろん人間の場合、排卵誘発剤でも使わない限り、3つ子(これは一卵性でないからクローンではない)どまりと思うので、クローン人間を何百人も作るとか、過去の偉大な人物のコピーを作るなどということになれば、余りに自然からかけ離れているから、そのような目的でのクローンは倫理的に問題ありということにもなるだろう。しかし、逆に目的さえ正常であれば、つまりラエリアンが今回の目的として述べたように、不妊のカップルが子どもを得るためというようなことであれば、批判は的を得なくなってしまい、クローンそのものを否定する理由として成り立たない。
 そのような目的での生命操作技術は、クローンに限らず急激に進んでおり、凍結保存精子による人工授精は日本でも可能だし、受精卵移植による代理母もアメリカなどで認められ、イギリスでは中絶した胎児の卵母細胞による体外受精まで行われて、遺伝的にはこの世に生まれなかった女性の子どもまで出現している。これにはクローンと同じ様な倫理的な問題があるけれども、子どもが欲しいという欲求自体を否定することは、決してできないだろう。しかし、人間にとってはできないことをそのままに受け入れることも必要なことだと思う。
 そうは言っても、ラエリアンの最終目的は、自分のコピーを作って永遠の命を得るというということであるから、これはまたこれで、倫理上の問題としても大いに違和感のあるところだ。ラエリアンは、世界中に3万人以上、自称6万人の信者がいるとされているが、最も信者数の多いのは日本らしい。彼らの教義の中心は、人類は2万5千年前に宇宙人がDNAをデザインして宇宙人自らに似せて創造したものだということであり、超自然的な神というものの存在を信じていない。創始者であるフランス人のラウルという人物が、30年ほど前にアルプス山中でUFOに乗った宇宙人と遭遇して、そのことを教えてもらったという荒唐無稽なものだが、クローン技術やDNAデザインにより人類を救済しようとしている点は、決して現実離れしたことでなく、実際にそのようなことをやろうとしている科学者は世界中にたくさんいる。
 ナチスの時代にも、優生保護という考え方で人間の遺伝子を操作しようという科学?(優生学)が世界中ではやり、日本にも優生保護法という法律が残っている。現在では、人間のゲノム(遺伝子)分析がかなり進み、当時のような生殖によるコントロールだけではなく、デザイナーベビーという、DNAを直接操作しようという、クローン技術よりはるかに倫理的に問題のある技術が、現実になろうとしている。病気になりやすい遺伝子を取り除くとか、そういうところから受け入れられていく可能性があるが、IQが高いとか、芸術やスポーツといった特殊な能力に長けた子どもを作るとかいうことが試みられる可能性もあるし、最終的には人間の家畜化、ペット化にまで行き着き、従順な人間、戦闘を好む人間など、為政者の都合のいい人間を大量生産することも可能になるであろう。
 それにしても、クローン技術そのものの危険についての議論が、余りにも少なすぎる。植物の場合では、クローンは決して自然界で珍しい現象ではなく、大昔から人類は、クローン技術を十分に利用していた。その代表的なものが、果物である。現在世に出回っている果物の品種のほとんどすべてがクローン、つまり人類が自分勝手に増殖したコピー生物なのである。クローンでない果物は、北海道特産のハスカップだとかヤマブドウのように、ごく一部のまだ野生段階のものくらいである。野生の果物は、一つ一つが遺伝子の異なるものだが、大抵の果樹は挿木や接木という簡単な方法で優れた遺伝子のものだけをコピーして増殖することができるので、果樹の品種改良においては、種子で増殖する作物と異なり、遺伝子を均一化する作業を行っていない。それに、均質化には最低でも数世代の期間が必要だから、実がなるまでに年数のかかる果樹では、ほとんど不可能なことでもある。したがって、おいしい果物から種子をとって育てても、決して同じ形質の果物は成らないのである。この挿木による増殖ということも、クローン技術には違いないのだが、それと動物のクローンを同じものと考えてはいけない。
 私が大学の農学部で学んだ時には、クローンが可能なのは植物だけということになっていた。植物の細胞だけに全能性があるからだ。つまり、種子によらずとも、葉とか茎とか、うまくすれば細胞一個からでも植物全体を再生することが、植物の場合には可能ということである。しかし、一つの細胞核内の遺伝子に個体全ての情報が入っているはずなのに、動物の細胞からはなぜかそれができなかった。だから、例えば皮膚や髪の毛から人間を再生するなんて、孫悟空みたいなことはできないと信じられていた。しかし、97年にイギリスでクローン羊が誕生し、それまでの常識が一挙に覆され、生殖細胞によらない体細胞クローンが動物でもできることが実証された。この羊は、乳腺細胞から生まれたので、グラマーな歌手ドリー・バートンの名前にちなんでドリーと名付けられた。ちなみに、イギリスでは83年にヒツジとヤギの細胞をばらばらにして混ぜた生物(これをキメラといい、植物では昔から知られていた)も作り出され、ギープと名付けられた。この技術を応用すれば、人間とサルのキメラ生物も作り出すことができ、これはクローン以上に不気味なことである。
 もともとクローン動物を作る研究がなされた目的には、良質の家畜を大量生産することが一つにあるが、それだけではなかった。遺伝子組換え技術を併用することにより、動物に体内で薬品を製造させたり、人間移植用の臓器を作らせる、動物工場ということを、大きな目標としていたのだ。事実、ドリー誕生の5ヶ月後にはすでに、人間の遺伝子を組み込んだクローン羊ポリーがイギリスで誕生しており、すでに、牛や羊、豚に人間の遺伝子を組み込んで薬を生産させることが、実用化されている。また、豚や猿の臓器を人間に移植する実験も、アメリカを中心に行われている。
 人間の遺伝子を他生物に組み込むことは、大腸菌などではもっと早くから行われており、現在では植物の遺伝子組換えも、従来のように除草剤抵抗性や害虫抵抗性などというものをウイルスから導入するだけでなく、B型肝炎ワクチンとか避妊薬というようなものまで、植物の遺伝子に組み込んで作らせるようなことが行われるようになっている。このような組換え遺伝子が、他の作物や自然界の植物に自然交雑して拡散する遺伝子汚染ということが、すでにアメリカやカナダでは大変な問題になりつつある。普通に野菜などを食べただけで避妊薬を摂取することになるという、恐ろしい時代が迫って来ている。また、遺伝子組換え作物には、組換えを確認するマーカーとして抗生物質に耐性を持つ遺伝子が必ず組み込まれており、それを食べることによる免疫力の低下等が指摘され、内蔵、脳に発育不良の影響があるという報告も出されている。
 そして、体細胞クローンについて重要な点は、決して双生児のような細胞全体のコピーではないということだ。現在の技術では、体細胞にある核遺伝子だけをコピーし、細胞質に関しては別の卵母細胞を用いるので、この細胞核以外の細胞質にも少なからず含まれている遺伝子は、クローンの元になった個体とは異なっている。この技術の現時点での最大の問題点は、遺伝子の経時的変化を無視していることである。通常は、授精により生命が誕生した時点で遺伝子にスイッチが入るわけだが、クローン家畜では、これが誕生の時点で既に成年に達した状態になっているため、短命化が顕著であり、先天異常などの確率も異常に高いのである。技術的に、まだまだ人間に応用できるような段階には到底達していない。
 もちろん、技術はこの先どんどん進歩するかもしれないが、果たして人間がそこまで生命をコントロールするだけの智恵を本当にもっているのだろうか。そしてまた、家畜に人間の臓器を作らせるようなことをしてよいものなのかどうか。最終的に臓器を得るためにヒトのクローンを作るなどということになれば、これはとんでもないことになる。もちろん、子どもを救うために命の危険を冒してまで生体肝移植を行うようなことをしなくてすめば、それはよいことに違いない。しかし人間は、部品を交換すれば修理できる機械とは違うのだ。外科的な手段で寿命を延ばすことよりも、霊的に救われることの方が、人間にとっては、はるかに重要なことではないだろうか。このように考えると、クローンなどというものは、人間にとって全く必要な技術とは思われないのである。
 また、原子力とか遺伝子組換え技術は、人間が管理できる能力をはるかに超えた危険性をもった技術である。つまり、放射能汚染も、遺伝子汚染も、一端環境中に放出されれば、ほとんど不可逆的に拡散し、元通りにすることは決してできない。人間は、決して完璧を期すことができないのであるから、失敗が許されない技術というものは、用いてはならないのである。

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