農業・芸術・宗教
トルストイの芸術論と来たるべき世界

  農民が少数者になった現代日本において、農業の重要さや農民の苦労に対する一般の関心や理解は、決して十分とは言い難い。しかし、人間が生きていくために農業が非常に大切なものであることくらい、少し考えれば誰にだって分かる。では、芸術や宗教は、農業と比べてどれほど大事なものであろうか。そんなものはなくとも生きていける、と思われるかもしれない。しかし、そうではないのだ。
 農業と芸術、宗教は三位一体であり、どれか一つを欠いても、それは不完全なものとさえ言える。農業を営む上で、芸術や宗教なんか必要ないと思う人は少なくないだろう。一方で、芸術や宗教の価値は認めるにしても、農業がそれらにとって一体何の意味を持つのかと思う人も多いだろう。しかし今までに、この3つのものを関連づけた人を2名挙げることができる。宮澤賢治とトルストイだ。
 両者とも、その時代の芸術の現状を嘆き、真の芸術は、宗教の理想を実現するための手段であり、農的生活の中から生み出されるものであるということを、説いているのである。これは、時代背景が全く異なる現代においてもなお、光り輝く思想であると私は考える。
 トルストイは、『芸術とは何か』(1897年)の中で、「未来の時代の芸術家は、人間の普通な生活を営み、何か労働をやって自分の生計を立てていくことになる。そして芸術家は自分のなかに流れる最高の精神的な力の果実を、できるかぎり多数の人々に与えようと務めるようになる。」と述べている。それが、「芸術家のよろこびともなり、報酬ともなるから」である。彼はまた、「あらゆる勤労の中で最もよいものは、畑を耕作したり種を蒔いたりすることである。」(『人生の道』1910年)とも述べている。
 宮澤賢治は、トルストイやウィリアム・モリスの芸術論を読んでいたらしく、『農民芸術概論綱要』(1926年)には、彼らの思想が十分に反映している。またトルストイ自身は、「自然に還れ」と説いたルソーや、ラスキンの哲学・芸術論に強く影響されていることがわかる。
 さて、現代日本では、ポップスやロック、演歌などの歌謡音楽や、アニメーション、テレビドラマのような娯楽映像など、大衆文化は過剰なまでにあるけれど、あらためて芸術というと、決してそんなに豊かな状況とは言えない。芸術は、昔のように貴族や資本家といった特権階級にのみ仕えるというものではなくなった反面、質の高い芸術は生き残ることが難しくなった。一部の人にしか分からない言葉が氾濫するスノビズムの世界が、芸術を大衆から遠ざけてもいる。ごく一部の人だけ、ひどい時には作者本人にしか分からない(もしかして本人にも分からない?)ようなものが、高度な芸術として賞賛されたりするのは全くおかしなことだ。質の高い民衆のための芸術は、どうやったら育つのだろうか。
 そもそも芸術とは何か。トルストイによれば、芸術とは快楽や慰安、娯楽ではなく、人間の正しい自覚を感情に移す道具である。それは宗教によって導かれるものであり、暴力を排除した人類の生活の理想の姿であるところの、神の王国を建設することを目的とするものである。
 あり余る物に囲まれ、お金さえ積めば欲しいものが何でも手に入り(しかし、本物は極めて手に入れ難い)、刹那的な生き方がはびこる現代日本において、宗教の話をすれば、多くの人は耳をふさいでしまう。確かに、人々をそういう気持ちにさせる宗教は多いし、眉をひそめたくなる宗教家も掃いて捨てるほどいる。でも、真の宗教は、そういうものではない。人はパンだけで生きるものではない。宗教、つまり信仰、あるいは哲学というものがなければ、人は生きて行くことができないし、生きて行く価値もない。
 先月号の宮澤賢治ついての私見で、トルストイとの比較を少し試みたが、融通が利かないという点においては、トルストイは宮澤賢治の比ではなかろう。彼の残した多くの論文を読めば、その厳格な思想に圧倒される。後期の論文になればなるほど、人間を抑圧する国家(=警察、軍隊、裁判所)や教会、科学に対して徹底的な攻撃を加えている。彼の手にかかれば、世間で偉大な作品と認められているベートーベンの第九交響曲も、真の芸術と言えるものではない。リスト、ワーグナー、ベルリオーズ、ブラームス、(当時の)新しいところでリヒャルト・シュトラウスなどの音楽は、よい芸術ではないと言う。ブラームスをリストやワーグナーと一緒にくくってしまうところはどうかと思うが、言いたいことは、ある程度分かる。彼は、民謡のような、もっとシンプルな音楽を、求めているのである。
 彼自身は若い頃、放蕩生活を経験してもいるが、一途な性格は生まれつきであったと思われ、晩年にはガチガチのキリスト教原理主義ともいえる禁欲主義的な宗教哲学思想を確立する。しかし、その彼の思想は、全世界に影響を与えることになるのである。
 トルストイの思想を簡単にまとめれば、権力悪に対抗する唯一の手段としての無抵抗主義(非暴力的抵抗と言った方がわかりやすい)と、それを貫くために自給自足的労働の必要性を説いたことである。前者の方は、もちろん「悪に抗するなかれ」というイエスの言葉(新約聖書の福音書にある、いわゆる「山上の垂訓」の中の一節)を言葉通りに解釈した結果であるが、彼はそれを自分の良心から導いたのであり、決して聖書を神聖化したのではない。そこが、一般のプロテスタント教会や聖書原理主義のエホバの証人(=「ものみの塔」)などと違うところである。
 後者の自給自足ということについても、彼の生い立ちから出た思想であり、農業に携わりながらも小作料のために悲惨な生活を送る農奴の姿をその目で見て来た経験によるものだ。彼は、自分が貴族出身の地主であったことを悩み、土地を農奴(小作人)に解放しようとする。これは後に有島武郎が同じこと(有島はトルストイ以上にクロポトキンの思想に影響されていた)をもっとドラスティックにやって成功したが、トルストイの方は当の農民に拒否されてしまい、彼らの理解を得るまでに相当長い年月を要した。また彼は、純潔にこだわり、生涯一人の伴侶と共にある一夫一婦制を強固に支持したが、彼自身の妻は、必ずしも彼の思想のよき理解者ではなかったため、ついに彼は80歳も過ぎた高齢にも関わらず家出をし、肺炎で死んでしまう。彼自身、決して理想通り生きられたわけでなく、宮澤賢治と同様、悩み多き人物であったのである。有島武郎に至っては、若い女性と情死までするのだから、所詮人間は弱いものだと言ってしまえばそれまでだが(死を美化する文化は大嫌いだ!)、今の私にはとても理解できない。
 トルストイの影響を受けた人物の筆頭は、インド独立の父ガンジーであるが、ガンジーは最初にアフリカで虐げられていたインド人を救うため自給自足の農業を実践する運動から始めた。日本でも、宮崎県で自給自足の新しき村(現在も埼玉県で存続)を作った武者小路実篤、前述のように個人的に農地解放をして共生農場(北海道ニセコ)を作った有島武郎、武蔵野で半農生活をした徳富蘆花など、白樺派の作家連中にトルストイが与えた影響はよく知られているが、彼のアナキズム思想(彼自身は決してアナキズムとは言わなかったが)に心酔して自給生活を試みた思想家は、青森の江渡狄嶺や、山梨の丹沢正作など、日本全国に存在した。現代日本においてさえ、彼の思想を信奉して自給自足の禁欲的生活を送るトルストイアンが、まだ何人か残っているのである。今年101歳の天寿を全うした沖縄伊江島の阿波根昌鴻も、相互扶助に基く農業学校創設を試みた中途で太平洋戦争にまきこまれ、戦後は米軍に奪われた土地にしがみつき、百姓をしながら基地反対闘争を非暴力的にやり抜いた。
 私はトルストイの言うような禁欲的生活はとてもできないが、彼の思想にはシンパシーを感じる。現代は、あまりにも彼の理想とした清貧の生き方に逆行している。物質的豊かさを追求する現代資本主義は、弱肉強食の競争原理を唯一の基礎にしており、少数の幸福と多数の不幸を生み出す不正義な状況は、植民地時代よりすさまじくなりつつある。これからはクロポトキンの『相互扶助論』のように、競争ではなく共生の思想が社会の基礎とならなければならないだろう。エコロジーの観点からも、競争よりも共生の原理が一層重要であることが明らかになってきている。
 自然においても社会においても、真理は一つである。つまり、多様性を認め合う共生ということこそ、宇宙に平衡をもたらす原理なのだ。現代の経済や政治におけるグローバリズムの行き方は、この宇宙の原理に逆らうものだ。競争により成立する資本主義とも、画一化を強要する社会主義とも異なる、多様化を基礎とするアナキズムに基く世界を模索しなければ、未来はないであろう。そして、共生ということは、依存し合うことではなく、自立ということに基かなければならない。つまり、基本的にできる限り自立自存し、どうしても自活することの不可能な部分だけを助け合う、これがアナキズムの正しい生き方だろう。金さえ積めば必要なものは手に入れられるという生き方とは正反対に、できる限り自分でできることは自分でやることが必要なのだ。そこには、富の集中はあり得なく、したがって清く正しく貧しくという生き方のみが許される。
 <トルストイに話を戻そう。彼は、飲酒も肉食も罪と定めるのであるが、私はそこまで徹底したいと思わない。たまには酒も肉もおいしくいただきたい。でも、タバコ、ギャンブル、女はやらないので、まあ世間一般の男どもよりは多少まじめな方だと思うが、頭の中はそんなにまじめとは言い難い。「情欲を抱いて女を見たものは、心の中ですでに姦淫したのである。もし右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てよ。もし右の手が罪を犯させるなら、切って捨てよ。五体の一部を失ってでも、全身が地獄に投げ込まれるよりはましである。」というイエスの教えを忠実に守ろうとしたトルストイのようには、とてもいかない。人を傷つけずに欲望を解消することができるのならば、そのような手段まで否定することはないだろうと思う。しかし、歪んだ空想に囚われることは危険だ。テレビゲームで人間を殺していくゲームに慣れた子どもたちが、生身の人間に正しく接することができるのだろうか。そのようなバーチャル体験で欲望を発散させる必要のない世界を築くことこそ、大切なのではないか。しかし、遊びは必要なものである。トルストイのように遊びを完全否定してしまったら、世界はつまらないものになってしまうだろう。リストやワーグナーの音楽だって、芸術として最高とは言えないかもしれないが、決して悪いものじゃない。
 <最後に、ベートーベンの第九交響曲について、トルストイに反論しておこう。確かに3楽章までは、長たらしくてしつこい。第3楽章なんか、天上の音楽のようで最高だという人もいるけれど、どちらかと言えば私は退屈を感じてしまう。もちろん魅力的なところはいっぱいあるのだけれど、それほど面白く感じる人は多くないのじゃないか。しかし、第4楽章は、交響曲というちょっと堅苦しいジャンルの音楽の中に、初めて合唱を取り入れ、今までになかった民衆の音楽を現そうとした画期的なものだ。それは不協和音で刺激的に始まり、続いて3楽章までの旋律の断片を次々提示し、どれも違う、こんな音楽じゃない音楽をやろうと、ベートーベン自身が自分の音楽を否定する。自分で自分の音楽をパロディーにするのだから、バルトークがショスタコーヴィッチの第七交響曲をパロったのよりもすごい。その後に続いて現われるのは、サウンド・オブ・ミュージックの世界である。とても覚えやすい単純なメロディーをチェロとコントラバスが伴奏なしで一通りやって、次に伴奏と対旋律が加わり美しいハーモニーを作る。続いて、まずバリトンの歌手が先ほどの古い音楽を否定する言葉を確かに述べてから、お手本を歌ってみせる。そして、続けてみんなで歌いましょうというわけで、実に明快なメッセージだ。シラーの歌詞も人類すべての兄弟愛を訴えたものであって、明らかに一部の限られた人間のための音楽ではない。一通り合唱が歌った後には、トライアングル、シンバルなど、かしこまった交響曲には似つかわしくないリズムセクションが出てきて、ピッコロ、コントラファゴットというちょっと面白い音を出す楽器も加わる。さあ、どんな楽器も一堂に集って、これから一般大衆の大好きなお祭り騒ぎをやりましょうってわけだ。もちろん、フーガなどのクラシック音楽の高度な技法も加わるので、重厚なお祭り騒ぎではあるけれど、間違いなく歴史的価値のある優れた芸術作品と言えるだろう。私も死ぬまでに、芸術作品たり得るシンフォニーを書きたいと、ずっと思い続けているのだが・・・

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