有機農業と農民芸術(『余市文芸』 第26号に投稿)

 有機農業は、消費者には人気があるのに、農民には人気がない。無農薬なんて、現実的でないというわけだ。一方、消費者には、農家の苦労が分からない。安全で、おいしく、なおかつ安くとは、生産者から言わせれば虫が良過ぎる。では、有機農業はどうしたら、成り立つのか。
 確かに、市場の規格に合ったものを安定的に生産するためには、農薬は必要不可欠である。多くの農家は、定められた基準を守って農薬を使用すれば、安全だと信じている。しかし、それは大きな間違いだ。現在禁止されている農薬の多くが、過去には安全だと言って使用されていた。現在日本で使用されている農薬の中にも、すでにアメリカなどで発ガン性などを理由に使用が禁止されているものがある。それらが日本で禁止されるのは、時間の問題だ。エイズの時の厚生省もそうだが、危険だと分かっているものを禁止するのに、日本の役所は時間がかかり過ぎる。国民の安全よりも、在庫を抱える製薬会社の利益の方を優先しているのかと勘繰りたくもなる。
 国の言う安全という言葉ほど、信ずるに値しないものはない。全ての合成農薬は、どんなに微量でも生態系を狂わせ、人間の健康に悪影響を与えている。生命は、経済に優先するべきである。どんなに豊かになっても、生命を失っては何の意味もない。有機農業以外の非永続的農業は、いずれ廃れなければならないのであり、さもなければ、人類の方が滅びることになるのである。
 もちろん、農家の経済が成り立たなくては、消費者の生命も保障されない。農薬を使わない有機農業が、経済的に成り立つ仕組みが必要である。それは、現代の市場流通では非常に困難だ。大量生産、大量流通の仕組みが、地場少量生産に適した有機農産物の流通を疎外している。有機農業を実践する農家は、一般の市場流通をあきらめ、直接理解のある消費者と結びつくことによって初めて、経営的に成り立つ。
 このような現実の中、有機農業を実践する農家は余りにも少ない。特に余市・仁木のような果樹栽培地域は、農薬の恩恵を最大限に受けており、両町合わせても、無農薬で栽培する果樹農家は片手に満たない。彼らは栽培上や経営上の困難と闘うだけでなく、周囲の農家の無理解とも闘うことを強いられる。そこまでして無農薬を貫くことには、非常に勇気(有機?)が必要である。
 さて、私は本州のワイン会社勤めを辞め、学生時代からの夢であった有機農業を始めて九年目。肝心のワインブドウだけは無農薬が実現できずにいるが、消費者に直接販売しているブドウを始めとする果実、野菜は、すべて無農薬で有機栽培している。このようなことができるのは、ある意味では新規就農者ならではの強みである。従来の農家ができなかった思い切った実践を試みていると思うし、消費者とのつながりは就農以前からの大きな財産である。
 さらに私は学生時代から、有機農業と共に、農民オーケストラを創ることを夢みてきた。同志との出会いがあり、これは思ったより早く、就農三年目にして実現にこぎつけた。オーケストラは農民には余りなじみがないかもしれないが、農民がやるのには、本当はとてもふさわしいものだと考えていた。特に北海道の長い冬の農閑期は、芸術活動に打ち込むのに絶好の時間である。そして、宮沢賢治が言っているように、芸術は職業芸術家に任せるべきものではなく、農民にこそ真の芸術が生み出せるはずなのである。
 そして、数ある芸術の中でも、なぜオーケストラなのかというと、その音楽が自然の素材でできた楽器によって演奏されるため、音楽由体がナチュラルで大地にふさわしいものであること。個人的には演奏技術の未熟なアマチュアでも、他人と心を合わせるアンサンブルの訓練を積めば、決してプロに負けない感動的な演奏に参加できること。これはやってみなければちょっと分からないが、とても大きな喜びである。
 現在、農家がどんどん減り続けている。これは農業を大切にしない国の政策にもよるが、農民自体が農業の魅力を感じることをできずにいるからだと思う。農家の労働はきつい。でも、日本の農業は単なる労働者ではない、自作農である。経営者でもあるわけだ。戦争に負けたことでこの恩恵を受けることができたのだが、このことのすばらしさに農家自身が気付いていない。まじめに働いてもサラリーマンの何分の一の収入しかないなら、辞めたほうがましだと安易に考えてしまう。しかし、そんなことはない。日本の農家は、自分の経営を自由に考え、自分の労働を自由に管理することができる。その、すばらしい自由を自ら無にしてしまっている農家がいかに多いことか。国の言いなりに米を作り、規模拡大に励み、補助金を当てにして、いいことなんか一つもなかったではないか。なぜみんな、もっとこの自由を有効に使わないのだろうか。
 真の芸術は、自由の中からしか生まれない。国家のためとか、お金のためとか、そういうところから生まれるものではない。だからこそ、自由な農民には、芸術を生み出せるはずなのである。宮沢賢治の時代には、大半の農家は小作だったから完全な自由は望むべくもなかった。現在の農家は自作農なのに、経済の仕組みにがんじがらめにされてしまっている。農薬も肥料も、種子までも商社に牛耳られ、生産物の価格は安い輸入農産物のおかげで安値安定。どう頑張っても、もうからないようにできている。この状況から脱するためにも、有機農業しかないのである。
 有機農業は、本当に自由な農業。やっぱりお金はもうからないけれど、お金もかからない。色んなものが自給できてしまう、何にも縛られない生き方ができる。したがって、芸術活動に最もふさわしい職業なのである。

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