目からうろこの滝澤マルコ伝

キリスト教との出会いと転機
 私の実家はクリスチャン・ホームではなかったが、小学5年生の時に、ふとしたきっかけで近所にある教会(日本聖公会甲府聖オーガスチン教会)の日曜学校に通うようになり、中学1年生の時に洗礼を受けた。日曜日の礼拝では、サーバーやオルガニストを務めていたこともあり、高校卒業までほぼ毎週教会に通っていた。この頃の私の信仰は、全く正統的なものであった。キリストの神の子としての犠牲の愛により、罪人である人類は救われると信じていた。
  北海道大学に進学すると、しばらくはまかないつきの下宿に住んでいたが、半年ほどでそこが廃業してしまい、やむなく北大の南門のわきにあった聖公会の教会(札幌キリスト教会)をたより、同じ聖公会の札幌聖ミカエル教会付属の青年寮に入れてもらい、ここで5年ほどを過ごすことになる。この寮に入る学生はクリスチャンである必要はなかったが、毎朝7時の礼拝と、毎週水曜日夜の聖書研究会の出席が義務づけられていた。私は日曜礼拝には、オーケストラの練習と重なっていたので余り出席できなかったが、聖書研究会には必ず出席し、食卓を囲んで同年代の青年たち、そして牧師と寮母さんも交えて毎回白熱した議論を闘わせるのが楽しみだった。そして、私のキリスト教観も、ここで180度変えられることになる。

ラディカルなマルコ福音書
  これから紹介する「マルコの世界」(日本基督教団出版局 2001. 1. 20.初版)の著書である滝澤武人氏も、私より20年ほど遡る1960年代に、聖ミカエル青年寮にてキリスト教に触れ、北大文学部の宗教学科にて新約聖書のマルコによる福音書を研究し、以来一貫してマルコ伝にこだわり続け、現在大阪府にある日本聖公会の桃山学院大学で教鞭をとられている。私は、ふとした偶然からこの滝澤氏にこの通信を定期的に送ることになり、先日この著作の贈呈を受けたのである。
   滝澤氏がこだわるマルコ伝のイエスは、正統的なイエス観、つまりマタイやヨハネ、ルカといった他の福音記者、またペテロやパウロによるものとも全く違う。マルコによる福音書は、他の福音書に比べると、最もイエスの言動を正確に伝えていると考えられる。しかし、それでもなおマルコの意図する編集作業が加えられていることは確かである。滝澤氏の分析によれば、このマルコ福音書は、ペテロやシモンらによって成立しつつあった初代教会に向けられた徹底的な糾弾の書物である。聖書には、異端の書として葬られた偽典、外典が多数あるのだが、このマルコ伝が正典として残されたことは、まさに奇跡としかいいようがない。しかし、このマルコのように本当にイエスの生き方を実践すべきだと考えた者たちも少なからずいて、聖書にマルコ伝を残すように努力したということなのだろう。
  イエスは決してキリスト教の創始者ではない。少なくとも現在のキリスト教会を彼は認めないだろうと思う。彼は、被差別民衆をユダヤ教の呪縛から解放し、彼らと共に飲み食い、彼らを苦しめるローマ帝国とその傀儡になり下がったユダヤ王朝という2大権力に、全く非暴力的にたった一人で立ち向かった田舎大工のせがれに過ぎないのである。「イエスはもちろん神などではない。彼に従って自らの十字架を背負い、彼のように生きることこそ、我々の生きるべき姿である。」というのがマルコの主張なのだ。
  イエスを旧約聖書に預言されたキリスト(メシア)、また神のひとり子であるとして、ユダヤ教の一派としてのキリスト教団を形成しつつあった初代教会のありかたに対し、マルコは大きな疑問を抱き、この福音書を書いたと思われるのである。滝澤氏が指摘するところによれば、マルコは決してイエスを「神の子」とは呼んでいない。彼を「神の子」と呼ぶのは、サタンとローマの軍人だけである。それどころか、「キリスト」とも、「主」という称号でさえも呼ばない。イエスはキリストと呼んだペテロに「サタンよ、しりぞけ!」と叱り飛ばしている。イエスは自分自身を「人の子」であるとだけ言っている。イエスは人間、それだけで十分である。だからマルコによる福音書には、イエスを神の子やキリストに仕立て上げる処女降誕物語や、復活顕現物語がない。弟子たちが見たと言っている肉体の復活を彼は否定する。十字架刑の時に彼を見捨てて逃げた弟子たちの中にではなく、最後まで彼に心から従った、イエスが愛した、蔑まれた女たちのところにこそ、彼は復活するであろうと、マルコは未来型でもって述べているのである。
  マルコ伝のイエスは、ユダヤ教に真っ向から対決する。安息日は人間のためにあるのであって、貧しい人々にとって何のためにもならない安息日を守る必要はないと言う。断食も必要がないと言う。「外から人間の中に入るもので、人間を穢し得るものなど何もない。」ときっぱり言う。事細かに律法を定めて民衆の生き方を規定しておきながら、民衆から税金を取り立て立派な神殿を建てるようなユダヤ教を、許しておくことなど彼にはできなかった。イエスは、人間には何でも許されていると言う。神は生きている者たちにとってのみ神だとも言う。これはもう、ユダヤ教の否定というよりも、宗教の否定とさえ言ってよいくらいのものだ。だがイエスは、ユダヤ教で認めていた離婚については認めない。なぜならば、それが男の側だけに一方的に認められていた権利だったからだ。イエスは類まれなフェミニストでもあった。彼は、らい病者や精神病者に対しても全く偏見を持たず、彼らを治癒することや、飢えている人たちに食物を与えることを活動の柱にしていた、人間愛に満ちた行動の人であった。
  マルコは、キリスト教の根源である罪の赦し、悔い改めということも、ヨハネの教えに過ぎないとする。罪人と決め付けられていた被差別民衆こそ、神の国に生きることができるのであり、イエスは常に彼らと共に歩んだ。キリスト教の儀式として受け入れられていた水による洗礼や、弟子たちが始めた信者だけのパンとぶどう酒による聖餐式についても、マルコは否定的に書いている。彼は、教会の閉鎖性、権威主義といったものを何よりも嫌ったのである。

クリスチャンとして生きること
 キリスト教徒になれば救われるとか、洗礼を受ければ永遠の命が得られるとか、マルコはそういうことを決して言っていない。イエスが示した生き方はそんなものではなかった。クリスチャンである、つまりイエスをキリストと証しすることは、イエスのような生き方をするということでなくてはならない。イエスの復活を信ずるということは、自らがイエスの生き方を実践するということに他ならない。
  では、現代日本にあって、クリスチャンであるとはどういうことか。現代日本にユダヤ教はない。しかし、そっくりなものがある。天皇制である。天皇は今なお国民の象徴とされ、世界にも類のない多額の税金をその皇室維持のために注ぎ込み、天皇を侵すべからざる聖なるものとすることにより、天皇にまつろわぬ民であるアイヌ、琉球人、朝鮮人、被差別部落民、共産主義者などを、差別し排除するシステムが戦前より生き続けている。かつてのような天皇中心主義は敗戦によって否定されたが、今まさに戦後の民主化教育を清算し、日の丸と君が代により、国民を統合しようとする勢力の動きが強まっている。「新しい教科書をつくる会」など、戦時中の侵略行為を美化し、再びアジアにおける覇権を狙い、海外進出による経済復興を目論む連中が活発に動き始めている。私は、現在の日本にあって、最もクリスチャンらしく生きるということは、天皇制と闘うということであると思う。戦時中、ほとんどの教会が天皇制を支持し、翼賛体制を担っていたという負の歴史を二度と繰り返してはならない。三浦朱門・曽野綾子夫妻のようなキリスト教を装う天皇主義者には、特に警戒しなければならない。


>>>> えこふぁーむ・にゅーす見出し一覧