神・自然・人間

    人間とは何か。人間が、自然界を構成する生物の一種であることは、誰にでも分かる。しかし、他のすべての生物と何か違う特殊なものであるのだろうか。精神とか、理性というようなものは、人間に特有なものなのだろうか。それは、人間だけに与えられ、神の特性と共通するものなのだろうか。そもそも、神は存在するのか。神とは何なのか。
 人間は、どうやって存在するようになったのか。自然に発生したのか。それとも、神が創造したのか。創世記にあるように、自然界すべては神がプログラムし、発展させたのだろうか。そして、最後に創造した人間だけに、特別な霊的な賜物を与えたのだろうか。それとも、それは人間の勝手な空想であって、神などは存在せず、自然が勝手に進化を遂げているだけなのだろうか。
 自然界こそ、神そのものだという考え方もある。しかし、そのような汎神論は、無神論と紙一重である。もし、神が存在するとすれば、それは精神であり、意志でなければならない。自然とは本来、意志に関わらない、あるがままの状態を意味するはずである。神が自然そのものであるのなら、神という言葉は必要なくなってしまう。神が存在するならば、創造主であるだけでなく、現在の宇宙を統率する意志でもあるだろう。意志とはつまり、現状を変革する力であり、混沌から秩序を生み出す力である。
 科学の発展により、迷信や俗説の類は否定されてきた。しかし、どんなに高度な科学も、宗教そのものを否定することはできない。それどころか、現代科学の発展は、キリスト教的な自然観によりもたらされたと言ってもよい。一般に、自然科学は宗教と決別することにより発展してきたと考えられがちである。例えば、教会がガリレオの天動説を認めなかったことから、彼は宗教より科学に信頼をおいていたかのように考えられたりしている。しかし、事実は逆なのである。当時の最も進歩した科学では、地球から見た惑星の複雑な運動について、天動説よりも地動説の方がかなり合理的に説明できていたのである。しかし、敬虔なカトリック信者でもあったガリレオは、神の創造した宇宙は地動説のように数理的に複雑にしか説明できないようなものではなく、もっと単純なものであるはずだという、決して科学的とは言えない根拠により天動説を主張するようになったのである。現代科学で肯定されている約150億年前にビッグバンにより無の世界から宇宙が始まったという宇宙進化論なども、キリスト教的な自然観がなければ生まれて来なかったのではないだろうか。汎神論的、仏教的な世界観からは、宇宙進化論は出て来にくいだろう。
 現代科学は、実に複雑に見えるこの宇宙が、非常に単純なシステムであることを示している。無限にある物質も、原子に分解すればたった100種類程度であり、それも共通するたった3つの電子、陽子、中性子という3つの粒子の異なる組み合せでできていることが明らかになっている。地球上に何百万種とある生物も、DNAという全く同じ構造を持つ遺伝子により生命現象が維持され、すべての生物に共通するDNAは、アデニン、グアニン、チミン、シトシンというたった4種類の塩基の配列が異なっているだけである。この配列情報だけで、複雑な生命現象すべてが司られているのは驚異である。
 原子や細胞といったミクロの世界と、太陽系や銀河といったマクロの世界が、非常に似た姿であることも、自然界が統一されたシステムであることの現れである。人間自体が一つの宇宙であるとも、よく言われる。それは時間的においても言えることで、ヒト個人の一生は地球上の生命の歴史の凝縮である。ヒトは母親の胎内において、海に泳ぐアメーバのような単細胞生物から魚類、両生類と進化をとげ、原始的な哺乳類から高等な哺乳類の形態とたどって初めてヒトの姿になるのである。
 このような生命や宇宙が、偶然から生まれたと考えるよりも、神が創ったと考える方がごく自然なことのように思える。万が一それが、間違っていたとしても、そのように考えることで不合理は生じないだろう。神が存在するとしたら、その意志にそって生きることこそ、人間の生きるべき道である。
 では、神の意志をどうやって知ることができるのか。神の創造した世界における天体の運行、生態系のバランス、人間の心と体の健康、そのような調和がとれた状態の中にこそ、神の意志を知ることができる。しかし現実には、その調和がいたるところで崩れている。生態系を壊している一番の元凶は、他でもなくこの人類である。現代の科学技術は、自然界に存在しなかった物質を作り上げ、DNA情報を勝手に作り替える技術まで手に入れてしまった。神の計画を狂わせてしまっているのである。人間は自らのために自然を搾取することを何とも思わなくなり、明らかに非永続的であると分かっている物質文明で欲望を満たす一方で、犯罪やガンなどの病気に侵され多くの不幸をも招いている。
 このような科学技術の誤った用い方も、またキリスト教的な自然観から生まれているという批判がある。しかし、キリスト教が間違っていたのではなく、キリスト教神学が間違っていたのである。仏教の方がエコロジー的であるという意見もあるが、現在では聖書の中にエコロジー的な思想を読み取る神学も生まれてきている。中世カトリック教会内にも、アッシジのフランシスコのようなエコロジストがいたのであるが、それは特異な例に過ぎず、主流派神学は時代の制約から逃れられなかった。
 生態学的に、かつてない危機に直面している現代社会において、我々人類がとるべき行動は、この不可逆的文明と決別し、神の創造した調和の世界を取り戻すことにおいて他にはない。原子力はもってのほか、石油のような古代植物の化石を搾取することによる文明ではなく、エントロピーを保つ清らかな水と緑による生活を復活しなければならない。


>>>> えこふぁーむ・にゅーす見出し一覧