乙女座の憂鬱 後編

 軽井沢のずっと奥深いところに、城戸財閥の所有する別邸があった。外灯もなにもなく、夜になると辺り一面真っ暗になり、広大な城戸邸は闇と森にすっぽりと包まれた。
 城戸邸は、財団総帥の光政公が晩年養生していたこともあり、広い邸の一角に大病院のICUと遜色ない設備を抱えている。主亡き後、ずっと使われなかった病室に、今は一輝が意識のないまま横たわっていた。
 運ばれた当初は24時間待機していた医者と看護士も、1ヶ月以上も続く小康状態のため夜は帰宅している。誰もいない暗闇のなか、いつ目を覚ますともしれない友を、氷河は辛抱強く見守っていた。
 規則正しく刻む一輝の心音と、かすかな計器の音だけが時計代わりに時を刻む。いつも看病していた瞬がギリシャに発ってから5日。何不自由のない城戸邸に、つながれた鳥のように縛られているのも目の前で眠る戦友のため。
 自由に羽ばたくことを天命と信じ、自らの赴くままにどこにでも飛んでゆく。その翼が羽ばたくことを止める時があるとしたら、それは命が尽きるときだと自分で決めていた。そのために生まれ、そのために戦い、そのためにだけ死ねる。
 それは一輝とて同じことだった。同じ生き方しか出来ない友が、生涯こんなところに繋がれていて幸せなはずがない。待っていろ、いま救い出してやる。もう一度お前を、広い空へ解き放してやる。そのためになら、俺はひとときの間、虜の身になろう。
 そんなことを思いながら、傍らの一輝をのぞき込む。
 安らかな顔してるよな、まったく。人の気も知らないで。こんなとこでダラダラしてたら身体がなまってしょうがねぇ。目を覚ましたら、リハビリを兼ねて模擬バトルの相手をして貰うからな。
 (綺麗な顔をしているわりには、言葉遣いが乱暴ですね)
 誰もいないはずの部屋なのに、声がした。
 「誰かいるのか?」
 立ち上がって振り返るが、相変わらず計器の音がかすかに響くだけである。真っ暗で広すぎる邸に、好んで残る使用人はいない。万が一泥棒であれば気づかないわけがない。悪意を持った侵入者に対し、氷河は最高の用心棒でもあった。
 (明かりくらい点けたらどうです?キグナスの氷河)
 そう呼ばれて、氷河は初めて声の主が判った。
 「ムウ?ムウなのか?ここに来ているのか?姿を見せて下さい」
 (私もあなたに会いたいのは山々ですけれど、残念ながらサンクチュアリに、処女宮に居るのです)
 「処女宮!?シャカの神殿に?星矢たちもそこに?」
 (ええ。ここには居ませんが、処女宮にはいます。隣にいるのはシャカです)
 シャカですと言うところでムウが笑ったように感じたが、それに気を留めている余裕はない。一輝を異次元に送った張本人はシャカなのだ。そのシャカが隣にいるということは、どういうことなのか。
 (もっともな質問ですね)
 口に出してもいないのに答えが返ってくる。どういうことなんだろう。
 (氷河。私は強い精神派を送ってあなたの意識と、直接会話しています。あなたの意識を通して、そこに寝ている一輝を見ることも可能です。これから、その一輝のためにあなたの力を貸して戴かなくてはなりません。少々痛い目に遭うかもしれませんが、覚悟はよろしいですか?)
 「一輝の意識が戻るなら、覚悟はいつでも出来てますよ」
 (勇敢ですね。わかりました。これから、私が導き、回路を作ってその穴に、シャカが生み出す覚醒のための小宇宙(コスモ)を送ります。それをそのまま一輝に送ると衝撃のために二度と目覚めない危険があります。小宇宙(コスモ)を一旦あなたに送りますから、受け止めて下さい。そして、あなたから一気に送るのです)
 「シャカの小宇宙(コスモ)を、俺が受け止めるんですか?」
 (そうです。十二宮で黄金聖闘士を相手に互角で闘ったのなら、そう難しいことではないとシャカが言ってますから、ご安心なさい)
 「嫌味かよ、それ」思わず口をついて出る。
 (シャカに伝えておきましょう)
 「結構です」
 (覚醒を促す小宇宙(コスモ)なので、ほんの一瞬ですがシャカの念動力が感化するかもしれません。混乱するといけないので予め言っておきます。一時的なことだし、一瞬なので心配には及びません)
 「一輝が元に戻るんなら、何が起こっても耐えるさ。シャカに言ってくれ。安心して思い存分やってくれとな」
 (判りました。氷河、あなた達が何故、黄金聖闘士と互角に渡り合えたのか、わかるような気がします。あなたの内なる小宇宙(コスモ)は気高く強い)
 「そうかい?誉められて悪い気はしないけど、素っ裸を見られているようで、ぞっとしないな。事情は呑み込んだから、早いとこ始めてくれ」
 (感情的で粗野なあなたも好きですよ。それでは、はじめましょうか)
 「ムウ」
 (なんでしょう)
 「シャカの小宇宙(コスモ)を無事に一輝に送り込んだあと、あんたはまた来る?」
 (残念ながら無理です。シャカの念動力を抑えなければいけません)
 「そうか。それじゃ、先に言っとくよ。ありがとう。恩に着る。シャカにもそう伝えてくれ」
 聞いているのかいないのか、さっきまで感じていたムウの気配がふっと消えた。
 数秒後、ひとすじの閃光が夜空の向こうから飛来するのが見えた。氷河が記憶として見えたのはそこまでだった。
 その閃光に包まれたのも記憶している。おびただしい思考と祈りが身体を包む。ともすれば、祈りの念に身をゆだねてしまいそうになる誘惑と戦い、横たわる一気に送らなければならない。

 金色の長い髪が宙を舞っている。まるで菩薩のように。氷河は思い切り手を伸ばして、遠のく菩薩を捕まえようとした。金色の菩薩像は氷河が手にしたとたん、弾けて消えた。早く捕まえなければ、間に合わない。理由のない焦りに追いかけられる。
 金色の菩薩が現れては消え、氷河を翻弄する。まるで輪廻のように繰り返し、疲れ果てて膝をついた氷河の前に人の影が現れた。
 「シャカ?」
 人影は金色の弥勒像だった。一輝のもとに連れていかなければ、シャカを連れて帰らなければ。呪文のように呟き、弥勒像の手を引いた。歩いても歩いても景色は変わらない。手を引いている弥勒像がどんどん重くなる。振り向いた氷河は、金色の弥勒像が血の涙を流しているのを見た。
 そのまま、氷河の意識は消えた。


 「星矢、見た?」
 「ああ、処女宮の脇から、強い光の帯が」
 「兄さんもとまで、小宇宙(コスモ)を送ってるんだね」
 二人は、小さな窓から、サンクチュアリの空を横切って走る光の筋を、いつまでも見つめていた。

 「星矢、瞬。さぁ、もう起きて下さい」
 心地よい声に誘われて、少年達は小さなあくびと共に起きあがった。あたりはほんのりと明るくなり、夜明けを迎えていた。
 「僕たち、何時の間に寝ちゃったんだろう」
 「疲れていたのでしょう。いろんなことがあった一日でしたからね」
 ムウは叱りもせず、にっこりと微笑んだ。
 「それで、一輝は・・・」
 「おそらく大丈夫です。氷河が無事に努めを果たしてくれたでしょう。薬を差し上げますから、それを氷河と一輝に飲むようにと伝えて下さい」
 「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
 瞬は涙を流しながら、何度も頭を下げた。
 「帰ったら氷河に言ってあげて下さい。彼は立派でしたよ。よい友人をお持ちですね」
 「ムウ。シャカは?」
 さきほどから辺りを見回していた星矢が言った。
 「シャカはあのまま瞑想しています。3日は戻りません」
 「3日間も、飲まず食わずで!?」
 「ええ。でも、アテナから戴いたお菓子を食べたので、心配は無用です」
 驚く二人に、またしても冗談か本気か判らない口調でムウは笑う。シャカが性格の悪さを指摘するのも今なら判る気がする。
 「小宇宙(コスモ)は私の仲介を経て氷河のもとに送られます。そうなると、私の感応力から身を守るため力を余計に使いますから、シャカも疲れたのでしょう」
 「???」
 「防御壁を張らないと、私に心を読まれてしまうでしょう」
 きょとんとしている青銅聖闘士たちにムウはウインクして続けた。
 「冗談はおいといて」
 冗談だったんだ、二人は思う。
 「シャカは一輝を覚醒することに神経を集中しましたからね。しばらくは放心したままでしょう」
 「そんなにまで兄さんのことを」
 「ええ。シャカは後悔しているのですよ。おそらく、聖闘士になってから初めてする後悔でしょう。教皇の本心を見抜けなかった自責の念。そのために正しかった一輝を異次元に放り出し、戻した後も意識不明にしたわけですから」
 「シャカほどの人が、どうして教皇の本心を見抜けなかったのですか?」瞬が訊く。
 「シャカの前では、教皇は・・・サガは、以前のサガであり続けたからです。悪に墜ちる前のサガは、聖闘士すべての理想であり尊敬であり憧れでした。神の化身といわれ、キリストの再来と言われました」
 「うん。死ぬ間際のサガは高潔な聖闘士だった」
 サガの最期を見届けた星矢がポツリと呟いた。
 「そのサガが、悪に取り憑かれ、蝕まれていくのに気づかす、止められなかった。悪のサガも、シャカの力が恐ろしくて本心を押し殺し、善のサガを利用して欺き通したのでしょう。シャカが事実を知ったのは一輝と異次元をさまよっていたときで、もう遅すぎました。命をかけてサガを悪から連れ戻そうにも、もう手遅れです」
 三人は、処女宮を後にして白羊宮への道を再び歩き出した。昇る太陽が、形あるものに影を作り始めている。
 「シャカと会うときのサガが以前のサガなら、どうして本当のことを言わなかったのでしょうか」
 さきほどまでの話が気になるのか、瞬がムウの傍らに歩み寄り尋ねた。
 「言えなかったのでしょう。彼はシャカを愛してましたし。悪に縛られてしまったこと明かせず、死ぬことも出来なかったのですから、さぞ苦しかったでしょうね。」
 「・・・・愛って・・・?」
 意外な言葉に瞬は押し黙ってしまった。
 「ああ、驚かせてしまったようですが、あなた達の考える「愛」とサガの愛は全く違います。聖闘士同士で生まれる愛は、もっと高潔で尊い感情です。恋愛感情とは同じ次元ではありません」
 それをきいて瞬は少し安心した。あのサガやシャカがロマンチックな言葉を交わすことを考えたら、世界の終わりが来そうな気がする。
 「それで、兄さんを連れ帰ったとき、一週間も瞑想したんですね」
 「ええ。異次元から連れ戻すために道先案内人をした私にも、シャカの悲しみと後悔の念は感応しました。防御をはるだけの余裕もなかったのでしょう」
 聞いていないふりをして、すぐ後を付いてくる星矢を感じながら、ムウは続けた。
 「悪のサガが暗殺した先の教皇は、私の師であり、前のアリエス保持者でした。やはり、高潔で美しく素晴らしい方でした。私は彼を愛していました。あなたもいつか、聖闘士として愛せる相手が現れるでしょう。それまで鍛錬して下さい」
 シャカの気持ちは、どうだったんだろう。
 瞬はそう尋ねようとして、その言葉を永遠に呑み込んだ。
 すぐ目の前に白羊宮が姿を見せた。朝日に照らされた白い壁が、やけにまぶしかった。


                                           後編/完



 

★あとがき★

 畳みかけるように終わってしまいました。書き足しが必要な香りがプンプンしますが、時間がないのでひとまず完結です。
 ここんとこ、どうなってるの?的な疑問。

その1 結局、一輝は覚醒したわけ?氷河はどうなったの?
その2 ムウからの薬って、なにを治すために必要なの?
その3 扉の向こうの場面を割愛したのはなぜ?
その4 この一大事に、紫龍がいないのはなぜ?

 うーむ。見事な攻撃だ。
 十二宮の聖戦のあと、ポセイドン編、ハーデス編と続いてるんで、一輝も氷河も復活しているはずです。ハーデス編なんてさ、オイシイとこさらってばっかよ>一輝
 その4はですね、ワタシはもともと少年には興味はないところに加え、祈るしか能のないうっとおしい彼女がいる男は視野の外なのよ。いい場面でさ、「紫龍、死なないで」とか念力送って戦意を喪失させるんだもん。挙げ句の果てには余計なことして人質になり、聖闘士に迷惑かけてくれるし。怒りも甚だしいわよ。しかも、しかもですよっ。ハーデス編のその女ときたら、見事な棒読みでワタシの怒りも沸点到達だったわっ!!!
 よって、ワタシの二次的読み物に、紫龍は出て来ません。出ても名前だけ。
 思わず我を忘れて熱く語ってしまいましたわ。ふっ。

 ハーデス編のアニメ化以降を原作で読みました。
 ・・・・・・・感動・・・・・・・・(涙)
 いやぁ〜〜、もう勢い前面&クサイ台詞のオンパレードで、無条件降伏でございます。床にひれ伏して奴隷宣言したワタシ。いい。いいね、こういう少年ジャンプ王道劇画。ハーデスを倒すときのアテナのカッコいいこと。惚れたわ。やっぱねぇ〜、こういう強いオンナが出なきゃイカンね。
 そして黄金聖闘士のお兄さんたち、もう、もう、スァイコゥゥゥゥーーーッッッ!!!どこまでも付いていきます宣言しちゃうわワタシ。死してなを、アテナを護ろうとする精神。どんなにベタでも、ワタシはそんな場面が大好きでございますぅぅ。
 腐女子油に火がともり、大火災発生中。火の勢いは衰えることを知らず、現在もなを周囲を焼き尽くし延焼中。警告レベル10。
 二次的読み物は、まだまだ続くかもしれません。

 さて、ここまで読んで戴いている奇特なアナタにご褒美です。
 煩悩の結晶をお見せしましょう。

 エラーになっていましたが、修正しましたので開けます。
                                    煩悩の結晶