乙女座の憂鬱



 ギリシャ。
 降り注ぐまぶしい太陽の光を、久しぶりに受け、サンクチュアリの白い神殿と木々の緑は、美しい色彩のコントラストを競わせていた。
 そのひとつ、白羊宮の主は、珍しい客人の訪問に穏やかな笑顔を見せていた。
 「お久しぶりですね。サンクチュアリに来ていたとは知りませんでした。」
 自分より階級が下の者に対しても、物腰のやわらかな丁寧語を使うのが、彼の常であった。
 「お久しぶりです、ムウ。」
 まず、星矢が挨拶をした。その後に続いて瞬が小さくお辞儀をした。ほんの数ヶ月前、階級が一番下の青銅聖闘士でありながら、アテナ神殿を抱えるこのサンクチュアリで、黄金聖闘士たちを相手に死闘を繰り広げたとは思えないほど、クロスを脱いだ彼らは、小柄で控えめな少年達に見えた。
 「どうしました?星矢」
 きょとんとした顔で自分を見つめる少年に、ムウは自ら話題を提供した。
 「え?ああ。クロスを着けていないと別人みたいだなぁって。いいんですか?クロスを着けていなくても」
 「ええ。戦闘態勢もしくはアテナの意向がないときは、私たちもクロスは着けませんよ。あなた達も普段の生活ではクロスは着けないでしょう。黄金聖闘士とて同じなのですよ。とはいえ、私が守るこの白羊宮に敵が侵入したときは、アテナの意向なしでもクロスを装着しますけれど、あなたがたは敵ではありませんし」
 そう言って微笑む姿は、己の肉体と精神力だけを武器として闘う、アテナの黄金聖闘士の一人には到底見えず、神秘的な美しさを漂わせた殿上人のようだった。
 もっとも、アテナの黄金聖闘士たちは例に漏れずみな美しい。まるで厳しい容姿の試験でもあるのかと疑わしくなるほど、揃いも揃って怖いくらい綺麗なのだ。
 「それで、私に何か用があるのですね?」
 テレパシストのムウが、事情を察して問いかけてくれなければ、星矢と瞬は永遠にムウに見惚れているところだった。
 「はい。実は、兄さん・・・いえ、フェニックス・一輝がシャカとの死闘の末、生還したのですけれど、まだ意識が戻らないのです」
 実の弟である瞬が口を開いた。
 兄であり青銅聖闘士である一輝は、数ヶ月前の戦いでシャカと一騎打ちとなり、天舞宝輪を受け五感を奪われたのち、シャカと共に異次元に飛ばされた。異次元を漂いながら、教皇の実態を知り、青銅聖闘士の正義を知ったシャカは、一輝を連れ生還した。
 意識を失ったままの一輝は、城戸財閥の庇護のもと、手厚く治療されているが意識が戻る気配がなく、医者もお手上げ状態。思い悩んだ末、アテナに助けを求めに行くという瞬に星矢が同行したことを、ムウは二人から伝え聞いた。
 「異次元から帰還したとき、シャカは五感を復活させたはずですが、一輝のダメージは想像以上に深かったようですね。それでアテナから私に何か依頼があるのですね。たぶん、薬の調合でしょう」
 「沙織さんからの親書を見なくても判るんですか?」
 出会った印象が強く支配され、アテナの生まれかわりとなった仮の姿、沙織の名前で星矢はアテナを呼ぶ。いつまで経ってもアテナを沙織と呼ぶ青銅聖闘士たちに、内心苦笑しながらも敢えて注意も諫言もしない。黄金聖闘士たちの善し悪しの基準は固有名詞の選択結果ではなく、内に抱く力、小宇宙(コスモ)が正義か悪か、でしかない。
 「私はクロスの修復だけでなく、人の身体の修復も得意ですからね。アテナの依頼はおおよそ見当がつきます。でも、私の薬だけでは一輝は目覚めませんよ。アテナはシャカに会うように言いませんでしたか?」
 「はい。ここへ来る前に処女宮に寄ったんですけど、シャカは留守でした」
 瞬が目線を落としたまま呟いた。兄を意識不明にした張本人のシャカへの憎悪をこめた思いでなく、兄を救ってくれる相手の不在が彼の気持ちを沈ませているのだと、テレパシストのムウは感じ取った。
 「いえ、シャカは処女宮にいるはずです。たぶん、瞑想しているのでしょう。貴鬼に薬を用意させますから、そのあいだに一緒に処女宮に行きましょうか」
 「ええっ、これから処女宮へ?」
 親切に同行を申し出るムウの提案に星矢が微妙な反応を見せた。どうやらこちらはシャカが怖いらしい。
 「なんという顔をするのです星矢。もう戦いは終わったのですから、シャカもあなた達を取って食おうとはしませんよ、安心なさい。それに、シャカに会わなければ一輝は覚醒しません。それでは困るでしょう」
 あくまでも穏やかにムウは言う。穏やかに言いながら、怖がる星矢にシャカを対面させる楽しさを内心思い描く。特に、瞑想後のシャカは一段と神に近くなっているから、一般人が泣いて怖がるほど神々しい。
 (これは楽しみだこと)
 満面の笑顔で、半ば強引にムウは青銅聖闘士二人を、処女宮に連れて行く決意をした。


 アテナを擁するサンクチュアリでは、アテナ直属の黄金聖闘士たちがそれぞれの神殿を守っていた。黄道十二宮の数だけの神殿のその上に、アテナの居住するアテナ神殿と、執政である教皇の間が建っている。アテナ神殿にたどり着くためには、十二の神殿を通らなければならない。それはすなわち、黄金聖闘士全員の了解なくしては不可能といういとでもあった。もっとも、アテナ直々の客に限っては例外で、その客はアテナの小宇宙(コスモ)に守られ、まっすぐアテナ神殿に行くことが許された。星矢たちが黄金聖闘士に会うことなくアテナのもとへ行けたのも、アテナ自身が彼らを招いたのだと、ムウは思う。
 神から与えられた技を持つ黄金聖闘士ですら、サンクチュアリでは自らの足で頂上のアテナ神殿まで歩いて登る。黄金聖闘士の中でも、ずば抜けた超能力者であるムウは、ほんの一瞬念じるだけで瞬間移動が可能だったが、サンクチュアリでは星矢たちと同じように、険しいオリンポスの丘を歩く。ただ、まるで平地を歩くように優雅で軽やかな足取りなのが、星矢たちとは明らかに違っていた。
 「獅子宮や金牛宮に顔を出せば、アイオリアやアルデバランも喜ぶでしょうけれど、少しも早くシャカに会うほうが瞬にとっても安心でしょう」
 全く息を乱さず、岩場を軽々と登っていく白羊宮の主は、息を切らして付いてくる星矢と瞬を振り返って言った。どうやら獅子宮と金牛宮の脇を抜けて、近道をしているらしかった。何かを尋ねようにも息が上がって声にならない。ムウの歩調に遅れず進むのがやっとという有様だった。
 小一時間ほど岩場を登ると、その先に白亜の処女宮が見えた。
 入り口を支える二本の柱には、見事な女性の彫刻がされている。ここが処女宮と呼ばれる所以であろうか。教皇との戦いのとき、星矢はこの処女宮で少しだけシャカを見た。柱に彫られた乙女の像の化身のように、バルゴのクロスに包まれたシャカは神々しかった。その残像と共に、まったく歯が立たない強さだけが、星矢たちの脳裏に記憶として生々しく刻まれていた。
 門の前にムウが立つと、それに感応するように扉が開いた。ムウが同じ黄金聖闘士だから開くのか、それともシャカによる遠隔操作なのか。ただひとつ確かなのは、星矢たちが処女宮に入るとなると、扉を開けるだけでも数時間かかるということだった。
 「おや。まだ瞑想は終わっていないようですね」
 回廊を抜け、大きな扉の前でムウが呟いた。仕方がないといった様子で、ムウは反対側に抜け、温かい光が差し込む部屋に入った。星矢と瞬は黙って後に続いた。
 一見するともぬけの殻のように見受けられるが、ピンと張りつめた緊張感が処女宮全体を支配しているのは感じられた。間違いなく、シャカがいる。感応力がない二人でも、そこまで鈍感にはなれなかった。
 「シャカはあの戦いから戻ってから、以前にも増して瞑想する時間が増えてましてね。瞑想している間は、客人が来ても気づきません。もっとも、敵意を持った招かざる客ですと、話は別ですが」
 「シャカは瞑想していてもそれが判るんですか?」
 この部屋に入ってから、勝手になにやら部屋の棚を物色するムウに面食らいながら、星矢は尋ねた。
 「ええ。小宇宙(コスモ)を感じれば済むことですから。シャカが戻ってくるまで、お茶にしましょう。瞑想の途中で邪魔をすると後で大変ですからね。二人とも、まだ死にたくありませんでしょう」
 優雅な微笑みを浮かべながら、物騒なことを口走る。
 「処女宮を勝手に物色していいんですか?」
 ずっと思っていた心配ごとを、勇気を振り絞って瞬はぶつけた。兄との一騎打ちを途中まで傍観していたが、シャカは潔癖なうえに神経が細やかそうだった。悪くいえば神経質かもしれない。そんな男が、留守中に部屋をかき回されたら不快に思うかもしれない。それが原因で怒らせてしまったら、元も子もない。
 「構いません。シャカは現実の生活にあまり執着していませんし、修行するために最低限足りるだけの衣食住があれば、それでいいらしいのです。」
 「言われてみれば、ここはちょっと殺風景かも」
 美しく飾られた外観とは、おおよそ似つかわしくない、ガランとした部屋には、粗末な飾り気のない椅子と机、もともと造られてはいるものの、使用形跡が感じられない釜戸があるだけだった。
 「食はインドから送られたお茶を口にする程度。そのお茶も、入れ方ひとつで美味しく戴けるのですが、彼はそういった楽しみを持たない人ですから」
 「ひょっとして、味オンチ?」
 「さぁ。霞を食べて生きられるなら、間違いなくそちらを選ぶでしょうね」
 目を丸くしている星矢に、ムウはおどけて見せた。


 和やかなお茶のひとときを打ち壊すような気配を、星矢は背中に感じた。隣に座っている瞬も、きっと同じことを感じたはずである。
 対座するムウが、懐かしそうな視線を星矢たちの肩越しに向けた。
 「おや、瞑想タイムはもうお終い?」
 「勝手に白羊宮を抜け出していいのかね」
 手前で凍り付いている青銅聖闘士の少年を飛び越え、声の主はムウに向かって言った。涼しげだが、幾分冷ややかな低い声。間違いない、シャカだ。
 「ご心配をどうも。白羊宮は貴鬼が留守番をしてくれてます。あなたもお茶を如何です?立ち話もなんですから、お座りなさい。シャカ」
 「ここは私の神殿のはずだが」
 そう言いながらも、あまりに気にしていない様子でシャカは空いている椅子に腰掛けた。
 「今日はアテナの使者を連れて来ました。青銅の星矢と瞬を、覚えているでしょう」
 熱いお茶を注ぎながらムウは押し黙ったままの二人を紹介した。
 「アテナの使者?」
 おそるおそる顔を上げた星矢と瞬は、こちらに向けたシャカの視線と目を合わせてしまった。シャカの目を見た者は例外なく命を奪われる。念仏のように、頭にインプットされた方程式が頭の中で縦横無尽に回っていた。
 「うわっ」叫ぶのと椅子から飛び上がるのは同時だった。
 そんな二人を見て、こらえきれないといった様子で、ムウが笑っていた。
 「大丈夫ですよ、二人とも。そんなに怖がらなくても平気です。戦闘体勢にならなければ、シャカの目を見ても何も起こりません」
 笑いながらそう言われても、はいそうですか、と素直に信じるにはシャカから発せられる気が恐ろしすぎた。といって、ずっと目をそらすわけにもいかない。
 「ムウ。青銅たちをからかうのはよしなさい。星矢、瞬。ムウの言うとおり、クロスを装着していない今は、力に抑制をかけている。目を閉じても開いても、ほとんど変わらないが、閉じたままでは、ふとしたことで目を開くと、そこに力が生じてしまう。だから、なるべく目を開けているようにしているのだ」
 「つまり、必要な時以外は、力を均等に放出しているってことですか?」
 「いや。力は使うべきときにのみ存在するもの」
 答えになっていない。心の中で言い返してみるけれど、星矢にはそれを口に出して言えるほどの勇気はない。
 「綺麗な目」
 シャカとの沈黙の押し問答中の星矢の横で、瞬の平和な声がした。
 反射的に横を見ると、うっとりした視線をシャカに向けている瞬がいた。そして、シャカのほうを交互に覗く。
 金色に輝く長い髪に、色白の小さな顔。こちらを見ている双眼は、どこまでも澄んだ青だった。これが聖闘士を震え上がらせているシャカの目?吸い込まれそうな美しい瞳のどこにそんな力が潜んでいるのか。
 「まるで後光がさしているようでしょう、星矢」
 固まっている星矢に屈託のないムウの声が響く。はい、本当に。暗示をかけられたように答えそうになる瞬間、現実味の帯びた声が遮る。
 「人の顔で面白がるものではない。ムウ、君は性格が悪すぎるのが欠点だ」
 「おや。誉め言葉と承っておきましょう。さぁ、お茶をどうぞ。アテナから、あなたへの親書と共にお菓子も届いていますよ」
 「菓子は星矢と瞬に差し上げよう。私はお茶だけでいい」
 「またですか。断食は度が過ぎると危険ですよ。それに、あなたは少し痩せすぎです」
 まるで痴話げんかのような会話を、なかば呆然と聞いていた星矢だったが、瞬は勇敢にも会話の中に割って入った。
 「沙織さんは、アテナはシャカを心配して、ひとかけらで何日分もの栄養を補給できる、このお菓子を僕たちに託したんだと思います。それに、空腹すぎたら精神統一にも影響あります。ひとかけらでいいから、食べて下さい。お願いします」
 ほんの一瞬ためらう素振りをみせたが、瞬の目をじっと見つめていたシャカは、「いただこう」とだけ言い、粗末な皿の上に置かれた菓子をひとつまみ口の中に放った。
 瞬は満足そうにシャカを眺めていたが、ムウはまるで信じられないものを見るようにシャカを見ていた。
 「驚きましたね。あなたがアテナとサガ以外のいうことを素直にきくなんて」
 「私は君と違って性格は悪くない。正しい意見には従う」
 ぶ然とした顔で反論するシャカだが、シャカの性格が良いことを裏付ける根拠はどこにもない。自分の言うことを素直に聞き届けてもらった瞬にとっては、シャカは「いい人」に格上げになったのだろうが、星矢にとってはまだ怖い人の域を出ていない。
 「ところで、アテナから親書を託されたと言ったが」
 お茶をすすりながら、シャカは話題を核心に導いた。
 「はい。これを」
 星矢は大事に懐に抱いていた親書をシャカに差し出した。アテナの印で封印された親書は、宛名に書かれた者以外には開けられない。
 シャカの手に渡った親書は、ほのかな光を発し、花が開くように自ら開かれた。しばし親書に目線を落としていたシャカは「承知した」とつぶやき、星矢たちに向き直った。
 「異次元から戻ったとき、一輝の五感は戻してあるが、意識の一部が脳の深層部分で混沌としているらしい。天舞宝輪を受けながら自らの必殺拳を使ったため、どうやら完全に覚醒しなかったようだ。一輝の意識を戻すのは可能だが、少々荒療治になる。一輝の近くに聖闘士は?」
 「氷河が瞬の代わりに看病しています」
 「氷河?」
 「キグナスの氷河です」
 青銅聖闘士の名前を知らないシャカに、ムウが耳打ちする。
 「成るほど。それなら可能かもしれぬ。この処女宮から一輝のもとへ覚醒を導く奥義を飛ばす。それを一旦受け止め、意識のない一輝へ送り込んで貰う役目を氷河とやらにして戴く」
 「つまり、兄さんに覚醒の一撃を送るまえに、氷河を中継するってこと?」
 「そうだ」
 こともなげにシャカは答える。
 「そんなことをして、氷河は大丈夫なんですか?」
 「聖闘士であれば。気を失う程度の後遺症はあるかもしれぬが、気にするほどのことではない。この十二宮で我々を苦しめたほどの聖闘士であれば問題はあるまい」
 最後の台詞は誉めているのか嫌味なのか、感情を表に出さないシャカからは読み取れない。それだけに、ダメージは軽いといわれても、仮とはいえシャカの拳を受ける氷河の身を、案じないわけにはいかない。けれど、目の前の黄金聖闘士たちは、友人の身を案じる少年達を気づかう気配はないらしい。
 「では、早いほうがいいだろう。ムウ」
 「ええ、承知していますよ。私がテレパスを氷河のもとまで送り、このことを予め伝えます。事情を知らないまま、シャカの拳を遠隔で受けて、もし反射的に反撃するようなことがあれば、一輝を覚醒させる機会を永遠に失うかもしれませんから」
 「ムウにまで力を貸して戴くなんて。有り難うございます」
 親切に申し出たムウに、涙を浮かべて瞬が頭を下げた。
 「礼には及ばぬ。ムウは最初からそのために処女宮ま来たのだから」
 感動の場面に水を差すようなシャカの言葉に、青銅聖闘士たちはどうしていいか判らない。
 「まったく、あなたは、どうしてこんなに無粋なのでしょう」
 瞬に感謝されて気分をよくしていたムウだけが、穏やかに噛みついていた。
 「偽善者ぶるのは感心しないな。ほとんどの黄金聖闘士は、サンクチュアリ程度の範囲でなら会話できる程度の感応力しか持たない。日本にいる氷河に思考を送ることのできるのは、アテナを除いては君だけだ」
 「人間だって送れますよ。あなたを一輝のもとへ送ったほうが早いかも」
 冗談なのか本気なのか、もう見当すらつかないレベルの会話が展開される。どちらでも構わないから、早く奥義を送って帰して欲しい。星矢は本心から思った。
 「バルゴのクロスを着けて日本に現れたら、一輝が目覚めるどころか、永遠に目覚めなくなるぞ」シャカは冷たく言い放つ。
 「あなたにはロマンというものはないのでしょうか。一輝を覚醒させるため、時空を超えて馳せ参じる。素敵だとは思いませんか?」
 「思わない」
 取りつくしまもなく冷静な答えを返され、不毛な会話は打ち切られた。
 「星矢と瞬はここで待っているように。四半時ほどで戻る」
 そう言い残し、シャカとムウは回廊の先にあった、大きな扉の向こうに消えた。
 扉の向こうに何があるのかは判らない。処女宮が扉の先まで続いているのか、また別世界に通じているのか。黄金聖闘士の神殿では、現実にあり得ないことが起こる。それは先の戦いで、二人とも身をもって経験していた。
 ここで待てと言われればそうするしかない。勝手に歩き回ると、この建物がどんな姿に変貌するか想像もつかない。
 仕方がないので言われたとおりにしようと、椅子に座り直したとたん、瞬が忙しく動き回り始めた。
 「なにしてるんだ?勝手に歩き回ると、双児宮のように迷路になったりするぞ」
 「この部屋からは出ないから安心して。二人とも、何時間も力を使って兄さんのために頑張ってくれるんだよ。きっとお腹すくだろうから、何か作ろうかと思って」
 「ふーん。でもシャカは食べないんじゃねーの?」
 「僕が頼めば食べてくれるよ」
 瞬はそう言ってニッコリと微笑んだ。そうかなぁ・・・と少し疑問に思ったが、わざわざ言うようなことではないので黙っていた。白羊宮から険しい岩肌を歩いたためか、身体に疲労を感じる。うとうとしかけた頃、自分を呼ぶ瞬の声が聞こえ、星矢はうたた寝をしていたことを自覚した。
 「どうたんだ、瞬」
 寝ぼけ眼で顔をあげると、心配そうな顔をした瞬が、のぞき込んでいた。
 「星矢。この部屋、キッチンのはずなんだけど、なんにも無いの」

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