暗い。



私は、気がついたら暗い所にいた。
風はなく、寒い。
何かが………いる?
何? 誰?
怖い。
追ってくる。
追ってこないで。
追ってくる。
迫ってくる。
目の前には明かりだ。ここは洞窟みたい……。
息遣いが聞こえる……。
私のじゃない、別の……。
獣みたいな……。
走らなきゃ。
捕まる……。
明かり………。

大きな樹だ。
洞窟を出ると、そこには大きな樹がそびえていた。
太く、高い。
思わず見とれる……。だめ。
見とれちゃ、捕ま………。
肩を、大きな手が掴んだ。
痛い。捕まった……。
世界が高速に動く。何か臭う。
………怖い。
どうなるの?


私は、地面に横になっている。柔らかい白い何かが私の顔に押し付けられて。
覚えのある感触……ワイシャツ?
ワイシャツだ。
ボタンのちぎれたワイシャツから、女性の胸が覗いている。
安らかな寝息が聞こえた。
顔をずらし上を見る。女の人がいた。
黒い長い髪の女性が、眠っている。何故だか男物のスーツを着た、女性が。
私を子供の様に抱き締めて。強靭な腕の中に。
私を軽く撫でて……。

木陰で私と彼女はまどろむ。
爽やかな風と木陰で和らぐ日差しに包まれて。
まどろみの中に消えていく疑問。
私は何故ここにいるの?

まどろみ。疑問。まどろみ。疑問。まどろみ。別な疑問。なんだっけ……。まどろみ。
まどろみまどろみ。ぎもん。まどろみ…………。



再び、洞窟の中。
輝く瞳が浮かんでいた。
彼女だ。
私が声をかける前に彼女は私の元に来た。
嬉しそうに私の元に来て抱き締めてきた。

ガリッ

一瞬、私の肩を噛み切っているかと思った。
彼女の口から石を砕くような音がしたのだ。
ガリガリッ、ガ、ガリ、コリコリコリ……。
最後はクチャクチャ。
咀嚼している。そう思った刹那。
口に肉の味が広がった。
すとん、とその味は胃袋に落ちた。
何があったのか、わからなかった。
どうしたの? そんなふうに輝く瞳が覗いてきた。
なんでもない。自然に微笑むと彼女は安心したのか、私の傍らに座った。
彼女の体温を感じる。新しいスーツの生地の感触と共に。
………胃から反芻される、肉の味。
食べさせてもらった……? そうだ、食べさせてもらったんだ。
どうやって? 彼女の咀嚼は肉の味を感じたと同時に終っている。
口づけ……口移し?
なんでそんな事を? 一瞬湧き上がった混乱。
ああ、そうか。食べられないだろうから。
あの砕く音は骨の砕ける音。
狼が子供にするようなことだ……。



肩を叩かれ、私は眠っていた事に気づいた。
輝く彼女の瞳が目前にあった。
考えてみれば、初めて彼女の瞳の色を見た。
エメラルドグリーン。綺麗な色。
襟を引っ張り、立ってと促す。
そして、洞窟の外へ出た。
緑の世界が広がっている。
彼女は駆け出した。思ったより背が高い。着ているスーツも窮屈そうだ。
それにしても、なぜスーツを着ているのだろう?
新しい小さめの男性用スーツに背の高い狼のような女性。
胸元は収まりきらず、はだけている。
ついでに野生を象徴するかのような長い爪を持つ裸足。手。
それでも彼女は崖を手を使わずに一気に駆け上り、木に飛び乗り跳ね回る。
狼と言うより、まるで猿。首に締めたネクタイが待ってくれと言わんばかりにたなびいている。
人も猿から生まれたのだから当然かも。
楽しそう。
くるくると体操選手のように体を回す。枝に着地。
ベキ。
あ、落ちた。
ばしゃん。
で、水溜りか何かに落ちた。

私の元に来た。
全身びしょぬれの彼女がとぼとぼ歩いてくる。
怪我したのか足を引きずっている。
私が駆け寄ると、彼女は身震い。私もびしょぬれだ。
ふふ。あははは。
彼女と私は互いに笑う。
私は彼女と共に走り回った。
とても彼女の足に敵わないけれど。
走り回る。
その時は、洞窟の目前にあの大きな樹がないのに気づかなかった。



目が覚める。彼女に抱き締められている。



目が覚めた。
日光が私の目を刺激し、目覚めを促した。
彼女はいない。
でも、緑の茂みの向こうに気配がした。
ガサガサ分けてこっちに来る。
彼女の頭が見え、口に鳥を咥えてきた。
互いに、おはよう、そんな意味の微笑を交わす。
そして彼女は口と手で素早く捌いた。
頭がねじ切られ、羽毛が剥がされ、血が顔に張り付き、散っていく。
私の元に来る。
ガリ。
食べながら。
あっと言う間に喉の奥に入れた。
長い爪を持つ右手には肉が残っている。
血が滴る、獣の様な手………。思わず私は見とれてしまった。
彼女が私を覗き込んだ。どうしたの? そう言いたげに。
美しい緑色の瞳。こんな色だっただろうか?
私はその肉を取り食べた。
多かったので彼女に渡した。口移しに。
普通に渡しても食べないだろうから。
彼女は驚いた風だったが、また微笑みながら私の髪を梳いた。
不思議と髪を梳く感触が嬉しかった。
私は彼女の血のついた顔をぬぐった。

また私たちはまどろむ。



ゆらゆら景色がゆらめいた。
冷たい感触が全身を包む。
起き上がる。水の中から。
何故か、入口から洞窟の中に多くの水が入っていた。
今日は別の洞窟に入って眠っていた?
でも、水の中で眠る物だろうか?
周りは冷たく、息はできないのに。

洞窟を出ると彼女がいた。
服を着たまま、洞窟からつながる大きな湖で、水面から顔を出した。
彼女がいる。
それだけで、とても安心できる。
ここがどこなのかわからなくても。
私が何故ここにいるのかわからなくても。
彼女が私を守ってくれる確信みたいなのがあったから。
でも覚える違和感。
彼女の瞳が、水色だったのだ。

彼女は私を見つけるとすぐに寄ってきた。
服を着たままだったけれど、余り気にならない。
彼女が力強く引っ張ってくれるから。

まるで人魚の様に自由に私達は泳いだ。
白い光が放射線状に差し込む中を。
いつまでも向こうが青い、湖の中を。
自由に泳げる、冷たい水の中を。
こんなにも私は泳げただろうか?
そんな疑問は、彼女の姿を見れば消えた。
その嬉しそうな姿を見て。

少し遅れた私に彼女は手を差し伸べる。
また、泳ぎ出す。
黒い深い溝の上を通った。
何かが、いた。
あの世にでも続くような、黒い世界。
こことは全く違う、異界。
何かの存在が私を見つめていた。

ぬめぬめしたような、怖い何かが……。二つの瞳で。これは錯覚?

強い両手が私を抱きかかえる。
大丈夫だと言うように、黒い溝を通過する。
二人で水面から顔を出すと、太陽が沈もうとしていた。



黒い森の中に私はいた。
暗い。夜の森だ。
様々な生き物の恐ろしげな声が聞こえて来る。
色々な視線が私に注がれる。私を狙うための様な。
でも、安心していられた。
彼女がいてくれたから。どこが危険なのか察知し教えてくれる。

私達は茂みに隠れる。
急に彼女が緊張した。
それは、私にも素早く伝わった。
彼女が肩を抱いた。
森が、沈黙した。


大きな何かが通る。
木々には触れないけれど、何かガスの様な存在が。雲の様なものが。
彼女の体に力が入る。
見えないけれど、黒くて悪いものが通る……。
目で、辺りを見回す……。
ふたりで体をひどく縮める。呼吸もしない。


彼女の輝く瞳が、もういいよと伝えた。
森がまた少しずつ騒ぎ出す。

"今のはなんだったの?"
私は通じないだろうけど彼女に聞いた。
やっぱり通じないようで彼女は微笑んだあと、空を見上げた。
空が明るくなるような星々が輝いていた。
綺麗な光が瞬いた。
彼女と私はいつしか眠りに落ちていた。

でも私は、まどろみの中で感じた。
湖の底と夜の森に存在したものの、邪悪さを。
いつか私が知らなくてはならない気がした。
彼女がついてきてくれるのを信じて。



木が、切られて押されて悲鳴を上げるような音で、私は気がついた。
一筋の明かりが私の顔に当る。
暖かくて、もう少しここにいたいのに。
ここでなら、もっと眠れるのに。
あれ。何だろう? 動けない……。
もう一度、木の悲鳴を聞いた。
一筋の光の幅が大きくなり、強い日光が私に当る。
逆光で、人影が見える。
長い爪の手が差し伸べられた。
彼女の手。それにすがりついた。

外に出ると、深い森の中に私達がいるのに気づいた。
私の足元には大きな湿った木があった。
その洞の中に私はいたのだ。
いや、閉じ込められていた。
彼女が救ってくれたのだ。
でも、どうして私はここに入っていたの?
この木はなんだか気持ちが悪くて、近寄りたくないのに。
それにどうして、あなたはここに私がいるのに気がついたの?
彼女はやっぱり話してくれなかった。
ただ、私の髪についた樹液をスーツの袖で拭っていた。
その後、息を吹き込んで毛づくろいをしてくれた。
やっぱりこの人は、猿か狼か何かなんだろうなと思った。



私は顔に落ちてきた水滴で、意識を取り戻した。
ぼんやり。ぼんやりと。
雨が降っていて、この世界が喜んでいるかのようだった。
でも私は……動けない……。
意識がはっきりしない。
白い物で縛られ動けない。
大きな蜘蛛が、視界に入る。
動けない。
蜘蛛が、私の胸に落ちてきた。不気味な顔を私に見せ付ける。
動けない。
助けて。私はこんな目に遭う為に今まで生きてきたんじゃない………。


優しい感触がほほに触れる…………。

彼女が抱き締めてくれているのに気づいた。
新緑色の瞳が意識を出迎えてくれた。
あの蜘蛛は石に潰され、もがいていた。
彼女はその蜘蛛を両手の中に入れ、少しずつその隙間を無くし、再び両手を開いたときだった。
三羽の白い鳩が飛んでいった。
穢れのない者を象徴するかのように。

私は"食べないの?"と聞いたら、食べないよと言いたげに微笑んでくれた。



空が曇っている。
それに私は気づいた。
そういえば、私はそれまで何をやっていたのだろう?
どうして、この沼にいるんだろう?
森の中の黒い沼の中に。
ああ、そうか。
引き込まれたんだ。

沼から黒い三つの塊が私を取り囲んだ。
これが、私をここに連れてきたんだ。
汚す為に。

来ないでよ。

近よらないでよ。

何も私はしていない。

あなたたちには何も。

私はただ、いただけじゃない。

そこに、ただいただけ…………。
"いじめないで"
手が、太い手が、私に掴みかかった。
私は沼の中に沈められた。
でも、あの黒い塊は消えていた。
沼の中、綺麗な水だった。

穏やかな浅い、透明な水の川に私は顔だけ浮かせて眠っていた。
水音がして、誰がそこにいるのか理解できていた。
彼女だ。水にずぶ濡れの、彼女だ。

あの沼の水の中に、連れて来てくれた手にすがりつく。
ありがとう。
その一言を、彼女は理解したのかしないのか、私に寄り添う。
黒いスーツと私の服を日光に乾かしながら。



「そんな酷い目に遭っていたの?」
そんな声がした気がした。
………誰の声だろう。彼女じゃないと思う……。
彼女がしゃべった事はないから……。
ブンブン何かが飛んでいる。
痛い。何? 何があったの?

目を開けると、小さな虫が辺りを飛び回っていた。
私の体にまとわりつきながら。
刺している。不快感を注入するかのように、侵略するかのように、私の体に、たくさん。
痛い。痛い。痛い。痛い痛い。
痛い……。


"助けてよ"
「助けるよ」


再び目を開けた。
風を鋭く切り裂く音がした。
5本の爪が、虫を残骸に変える。
余りにも多い虫を、彼女は一歩も怯まず立ち向かう。
私についている虫はわずかしかいない。
逃げないと。
彼女が作ってくれた機会に。

「だめだよ。そっちは」

私は走って溝に飛び込む。
すると嫌な音がした。
虫の羽音……。
大きな虫の羽音……。
三匹の大きな、虫……。
"私の何が気に入らないの? 普通にしているだけの私の"
溝に沿ってまっすぐ虫と言う恐怖がやってきた。

助からない。でもこれを望んでいたかのように体が動かない。
風が切り裂かれた。
彼女の手が、三匹の虫と共に。
汚らしい体液と共に虫の体が私に強烈に当る。
続いて彼女が抱き締める。
少し怒っている感じだった。
ごめんなさい。あなたをほっといて。溝に飛び降りて。逃げてしまって。
憎みもせずただ怯えて。
あなたみたいに強くなくて。
藍色の瞳の彼女はこれが罰だと言わんばかりに、強く抱き締めてくれた。
少し痛いくらいに、抱き締めてくれた。



暗闇。
私の目の前に、果てのない闇が続いていた。
ここは、どこなんだろう。
何も見えない。私の体すら。
夢、悪夢……?

「まだ意識をはっきりさせないで」

私の背中に、大きな存在がついてくれていた。
彼女の大きな腕が、私の腕を持ち上げる。
彼女の顔が、私の頭上に見える。
この世界で、強く励ましてくれる。
ただ、私の側にいてくれるだけで。

毅然とした表情が私の側にある。
大丈夫。何があっても、もう私は逃げはしない。
あなたを置いては。二度と。
かすかに、音がした。
声……?
おぼろげに、何か見える。
彼女の腕が、空気を切り裂き、走る。
その何かは彼女の腕を避け、まだいる。
連続的に彼女は空気を切る。
当っていない。まだ、見える。

私が行こう。
声がした方へ。うっすらと見える無気味な顔の方へ。抱きつけ。動きを止めろ。
その何かに私は腕を伸ばし、しがみついた。
離れろという、うるさい声がこだまする。
そして、衝撃と共にその声は途切れた。
彼女の攻撃が当った。
その何かは力なく崩れ落ち、なくなった。
暗闇に溶け込んでしまって。
不気味な顔を一瞬私に向けて、なくなった。
彼女は、私の手を取りいつの間にかできた傷口を舐めた。
長く腕に伝った血を舐めてくれた。
紫色の瞳を、私に向けて。



彼女が私の肩を叩き、その日は目覚めた。
嫌な臭いが鼻につく。
いつもの洞窟じゃない。
灰色のコンクリートが見える。
私の服は水で濡れている。
下水……?
なんで、こんなところに?
彼女の瞳は青い。
手をつなぎ、歩いてゆく。
それにしてもここは、どこなのだろう。

しばらく歩いても、出口は見えない。
彼女が私の手を強く握る。
何か来る。そう伝えていた。
音がした。
水……、水の音だ。
膨大な水の。波が来た。
彼女は獣の様な爪を壁に突き刺す。
もう一方の手は私を抱き締める。
水が襲い始めた。

彼女は自分の背を盾に私を守る。
膨大な水は勢いよく私たちを流そうとする。
何も出来ない。出来るのは耐える事だけ。
私たちは無力だ。
彼女の手が壁から抜ける。
力尽きたの? しょうがないよね。
あなたがした事には何も言えない。
………彼女は私を抱えたまま横に一回転。

ザクッ

何かを突き刺した。
コンクリートの壁じゃない。
もっと、有機的な……。生き物の様な……。
振り向くと、彼女は何か鉛色の丸い物を突き刺していた。
そこから粘性の強い水が流れ落ちていた。
それは手から滑り落ちる。
水は消えていた。
あの丸い物を突き刺した時から。

私は彼女の黒スーツにしがみついたまま、聞いた。
"あれはなんだったの?"
彼女は、抱き締めるだけで答えてくれなかった。


彼女の叫び声がした。
どう言う声だったのか不思議とわからない。でも彼女の声。
意味もわかる。
「起きて」
何か天井の様なものが見えた。窓から日が差し込み始めている。
「そっちはまだ早い。こっち側に起きて」
そんな彼女の声がした。そんな風にしゃべってはいないだろうけど。
起きると周りは、暗かった。
彼女の声がし続ける。
どこにいるの?
わからなかった。

急に何も無かった空間から何かが現れてくる。それも私を取り囲むように。
剣。
私がいる空間が狭まってくる。
近寄ってくる。
逃げ場が……ない。


彼女の声がした。
どこ?
もうひとつ彼女の声。
どこ? 上?
手が差し伸べられる。
私は飛び跳ねて、その手を握り締めた。
近づいてくる剣を蹴って。

足元の影の様な黒い空間は、閉じた。
私のいた空間はなくなった。
彼女に引き上げられ、私達はいつもの森の中にいる。
"ありがとう"
彼女は水色の瞳で笑ってくれた。



暗い中でワイシャツとスーツの感触、それに彼女の香りで目が覚めた。
私達は胎児のように体を丸め、何かの中に居た。
真っ黒な箱の中みたいだ。
でも、不思議と彼女は見える。
彼女の様子がおかしい。
息が荒い。
彼女の手足の先端が段々近づいてきているのに気づいた。
あんなに力の強い彼女なのに、押さえ切れていないのだ。
守るかのように懐に眠る私を抱えながら。
犬歯だらけの歯を食いしばり、空間が狭くなるのに抵抗する……。
もう、座高の分の高さもない。
"私もやるよ"
全身を踏ん張り、彼女と同じような姿勢を取る。

大きな音がして、彼女と遊んだ森が出現した。
私が全身で低くなる空間を少しでも支えようとした時、急に狭くなっていく箱が崩壊したのだ。
麗らかな日光と風が私達を包む。
彼女はありがとうと言うかのように、抱き絞めた。
彼女は金色の目をしていた。



なんだろう。大きな木造の建物がある。
ああ、歴史の教科書に載っていた大仏殿だ。
薄暗い中にそびえている。
なんでこんな所に建っているのだろう。
そこに行こうと歩み始めると、彼女が上にあった台座からから降りてきた。
一緒に進もう、そう言いたげな彼女の赤紫色の瞳に励まされ、その大仏殿に入っていく。
何もない、大仏殿に。

大仏殿には何もなかった。
少し不安になって、思わず彼女の手を握り、彼女も私の手を握った。
お互いが、不安だった。
暗闇が侵食するかのように彼女の手さえも見えなくさせる。
ただ、感じるのは手の感触だけ。
だんだん、それさえも感じなくなってくる………。
この時大仏殿の大仏は、この闇に抵抗するために造られた気がした。
………別に何の意味もなく。


「あっちだよ」
           "こっち?"
      「そっち」
               "そこ?"
「こっちこっち」


「……………ここ、ここ」


私は彼女の肩をゆすり起こした。
彼女は茶色の瞳を開け、ゆっくり体を伸ばした。
大きな樹が私達の目の前に堂々と立ち、その樹には小さな手のひら大の仏様が彫られていた。
彼女と初めて抱き合ったこの場所に。
彼女を見ると、寂しそうに私を見ていた。
ここを去らないといけない。
私達はそれを理解していたから。この聖域を去らないといけない。
私達は手を取り合い、歩いてゆく。



気がついたら、走っていた。
暗い、何もない場所の中を。
彼女に手を引かれて。
暗い。
手に、彼女の手が食い込む。
"なんで、走り続けるの?"
その疑問を口にするも、彼女はまだ足を止めない。
見えるのは、彼女の後姿だけ

足を踏ん張り、彼女に抵抗する。
おかしい。
おかしいよ。
ねえ、どうしたの。
何から逃げようとするの?
一体何が怖いの?
あなたは、どんな物にも戦いを挑んでいたのに。
私を守る為に。
あなたは、何も恐れなかったのに。
彼女は、後ろを向いたまま進み続ける。
私を見ないで。

私は彼女の手を振り解いた。
彼女はようやく止まる。
でも、後を向いたままだ。

ゆっくりと私の方を向いた。
生気のない顔があった。
その瞳は、暗い。黒い。周りの闇の様な………。
目は黒一色………。
その瞳から、闇が漏れ出てきた。
周りより、黒い闇が……………。
私を覆い始める……………………………。

声がした。
私を抱き締める腕が来た。
その存在が、身の周りの闇を払いのける。
彼女だ。
今度は本物の、彼女だ。
獣の様な唸り声は、私を安心させた。
目前には偽の彼女が自身の瞳から湧き出てきた闇に飲まれていた。
私を覆うためだっただろう闇に消えていった。

"本当のあなただよね?"
そう彼女の顔を見た。
本当のだよ、と言いたげな赤い瞳が私を見つめてくれた。



彼女が起こしてくれた。
何かに少し怯えているような、強い警戒を持つ顔で。
赤紫色の瞳だった。
周りには、多くの本。赤や緑の大きな本。図書館のような様々な本が並んでいた。
この本が襲ってくるかと思えるほどの。
"大丈夫だよ"
そう声を掛けた。

この空間を歩くも、彼女は私の側をいつも以上に密着して、離れない。
彼女はこの空間を少し怖がっているようだった。
ここは知識が集まっている場所だ。
それが怖いの?
野生の彼女には遠い物だから?
しばらく歩く。
本の背表紙が変わるだけで同じような風景が続いた。
でも、私が読める日本語の背表紙になってくる。
私がかつて読んだ事のある本が増えてくる。
遠くに、何か別な物がある。
机。
そう言えば図書館なのに、机がなかった。
そこまで行くと、誰かが本を読んでいた。


私だ。


私が、そこにいる。
いつもの灰色のブレザーの制服を着た、私と同じ服装の私が、そこにいる。
その私は、本を閉じ、突然彼女に攻撃を開始した。
何の説明もなく、読んでいた本を投げつけた。
その本は私の側にいる彼女を激しく傷つけた。まるで刃物の様に。
血が滴った。
彼女は私をかばう様に覆い被さる。
そのたびに血が流れた。
彼女の素足に、落ちた本が触れる。
それだけで彼女は傷ついた。

私はそこから走り出し、机にいる私に大きな本で殴りつけた。
その時の音と共にその彼女を傷つけた私は、目を閉じ机に伏した。

彼女には多くの傷を負っている。
痛そうに膝を抱え、私が駆け寄るとその傷口から何かが出てきた。
芽。
植物の、芽。



急に飛び込んできた喪失感が、それを伝えた。
彼女がいない事を。
いつも私の側にいた彼女が、私を守ってくれた彼女が。
どこを見回しても、いない。

あるのは暗い学校。
ああ、私が通っていた学校だ。放課後の暗い嫌な時間の学校だ。
彼女はここにいる。きっと、捕らえられているんだ。
私も、捕らえられていたから。この建物の空間に、人に。

紙の様な半透明の薄い人間が、その建物から出てくる。
私はその間をすり抜け、走る。
薄い人間が時折私を邪魔しようとする。
ふざけないで。私は助ける為にここに来たんだ。毒ガスの様な建物の空気も気にならない。

彼女はまだ見つからない。
空気は瘴気と言うくらいに息苦しい。理科室にも音楽室にもいない。
次々に現れる薄い人間が、粘つく手を伸ばしてくる。

力を振り絞れ。冷静になって。私。

一番この建物で、嫌な場所。きっと彼女はそこで閉じ込められている。
弱った彼女が、何もできなくなった彼女が、かつての力を失った彼女が。

体を爆発させろ。
まるで彼女のように。助けないといけないんだ。
全ての薄い人間を振り払い、私は一番嫌な場所に行く。
空気は瘴気を越えて、泥沼の中のように汚く呼吸もままならない。
扉を開ける。
トイレの、一番の奥の個室を。
薄い紙の人間が、そこからも出てきた。彼女を渡さないと言うかのように。
その閉じた洋式便器に力なく座り込んでいるのは彼女だ。
傷つき、顔を伏している。
私は紙の人間を破り捨て、彼女に駆け寄る。
彼女は、片目が赤で、もう片方は黒い瞳をしていた。
そして、力なく笑ってくれた。
体の茂る植物が、彼女の全ての力を奪っていた。



ひどい体の違和感を覚え、私は気がついた。
体がやけに軽いのだ。
赤や緑のガラスか何かの破片が、模様を描き部屋中に張り付いている。
全面鏡張りの三角形の部屋にいる。万華鏡の中のよう。
彼女は……、いない。
辺りを見回しても、彼女はいない。
ずっと一緒に居てくれた彼女がいないことに、不安を感じた。

でも、彼女がいた。それも植物が生えていない元気な彼女が。
鏡の中に。私の姿がだ。
黒いスーツ、長い爪。
少し不安げな灰色の瞳……。
私だ。
私が、彼女になっている。
たくさんの鏡の中の彼女が、彼女になった私を見つめていた。

突然、壁の赤や緑の破片が動く。<_br 部屋が回転し、その破片は綺麗な幾何学模様は一度として同じ模様を造ることなく動き続けた。
すると体が、全身が、逆立つような衝動が襲い掛かかる。
私の体は、爆発したかのように動く。

ガリ。

何か見えないものを、私が噛み付くまでの間、何も覚えていない。
血液の味が口の中に広がり、噛み付いた存在が息絶えたのを感じた。
骨を噛み砕いたのを感触で知った。

鏡には安心した表情の彼女がいた。
もう安全、大丈夫。そう言いたげな。
私がいた。

ねえ、あなたはどこ?
私はあなたになったけれど、あなたじゃないのだから。

鏡の中にたくさんのあなたがいる。
でも、どれもあなたじゃない。私だ。
悲しくなって涙が出てくる。
でも、大丈夫だよね? 私はあなただから。



気がつくと、私は白と灰色の世界にいた。
街。
その路地裏。単調な灰色と白で出来上がった街。
安っぽいCGみたいな世界。
その他の色は……彼女だけ。
でも、彼女は瑞々しい新緑の植物が全身から生えていた。
元気がない。植物に全ての力が吸い取られているみたいだった。
この街には私達はいてはならないから、きっと色々な物が襲い掛かってくる。
彼女はどうにか起きた。病人の様な仕草で。濃い灰色の目をしていた。
前見たときより植物が大きくなっている。
彼女には頼れない。私が守らないと。

路地裏から出ると、大勢の人が往来していた。
人………? 違う、ロボットだ。
同じ容姿の髪も顔のないロボットだ。
灰色の棒の様なものを頭として表している、無機質な銀色のロボットだ。
体には有刺鉄線の様なものが螺旋を描くように巻きついている。
私にはそれが排除を意味するように思えた。
彼女の手を握り、一緒に走る。

ロボットの鉄線に体を引っ掛けながら、別の場所に行こうとした。
どこに行けばいいのかわからないけれど、体が自然と動く。
合っている。この方向に行けば問題ない。そんな確信があった。
きっと、彼女もこんな理由のない確信をもっているのだろう。
そしてそれはいつも当っていたんだ。

走っていると、多くのロボットが佇んでいる場所があった。
赤信号なのか、中央に溝がある広い道を渡ろうと待っているようだった。
私は彼女を見る。行ける? この道の向こうに。
行ける。そう彼女は表情で伝えた。
再び走り出す。
ロボット達を残して。

広い道の中央にもうすぐ着く頃だった。
何かが道の向こう側から来る。四角いもの。
とても速い、灰色で四角いもの………。
避けて。あなたは。
私は、動けない………。

轢かれると思った。
でも轢かれなかった。彼女も私も。
誰かが、私達の背中を押してくれたから。
その人は、大きな音をたてて、壊れた。
小石の様なものが、私達に注がれ、溝に流れる水に注がれた。
それは金属の部品だった。
後を見ると、一人のロボットが身代わりになってくれたのがわかった。
他のロボットとは違って、ちゃんと人間のような風貌だった。
もう、眠っていた。
二度と動かない、眠り方だった。
彼女はその女の人のような顔をしたロボットを抱き締めた。
彼女と同じ顔をしていた。

ロボットの彼女はここで死んだ。



うるさい息遣いで、私は意識がはっきりした。
病院みたいな場所だ。古く、暗い。
その中を私は走っている。
行き先はわからない。どこに行きたいのだろう?
ただ足が、その方向を理解していた。
私は、何も考えず駆けていく。風の用に軽やかに。

扉を押し壊し、立ち入り禁止の場所に突入する。
金色の機械に満ちた部屋を飛び越え、その向こうにあった柵を破った。
赤い、進入禁止とある看板を私は壊した。
そこに、きっといるから。
手術室に、彼女が。

"でも、何で知っているの? 私は"

扉を力ずくで壊した。
彼女が手術台に乗せられている。
三つの白い大きな塊が彼女を切り刻もうとしていた。
私は、そのとても柔らかそうな三つに襲いかかろうとした。
声がそれを止めるまで。
「それは、やっちゃいけない」
緑色の瞳をした彼女が私を見、言った。
私の服を着た彼女が。彼女の服を着ていた、私に。
学校の制服を着ている彼女が、黒い男物のスーツを着ている、私に。
「許してあげて」

光が来る。
ベットに横たわり、人工呼吸器を付けている私がいた。



暗い空間の中、彼女が眠っている。体中から植物を茂らせて。

明かりが来る。
私が入っている部屋の天井が視界に入ってくる。
やめて。私は目覚めたくない。

彼女は、体中の植物に覆われ始めている。

明かりが来る。
私のベッドの感触が肌に伝わり、私の目はその色を確認する。白い色を。
人工呼吸器の苦しい感覚も。
やめて。まだ来ないで。

彼女は、更に植物を茂らせている……。

明かりが来る。
私の目覚めが……迫っている。
まだ来ないで。私は彼女をまだ見ていたい。

彼女は地面に伏して、種の様に空に向かって植物を茂らせていた。

また明かりが来る。
私は無理に目を閉じる。

彼女から生えている植物は、赤い花を咲かせ、その下に果実の様なものを実らせた。
何かが、その果実から出てくる。
誰かが、その果実から出てくる。
"誰なの?"
「あなただよ」
彼女が着てたような黒い男物のスーツを着た、見慣れた顔。
でも、彼女じゃない。
「私と言うあなただよ」
私、私自身だ。彼女が着ていた服を着た私だ。
私は、何かを思い出し始める。
「ご苦労様。がんばったね」
"何の事?"
「思い出して」

明かりが来る。
……私はこの世界の人間。
暗くなる。
私が目の前に現れる。彼女が着ていたようなスーツを着た私が。
"ここは……夢"
「思い出して」

私は彼女が身につけていた爪を生やしていた。
でもそれはすぐにいつもの私の手になる。
口に違和感を感じる。
舌で口を探ると、痛みが走る。
全ての歯が犬歯になったような。獣の様な。
彼女の物だ。
それも消えた……。
「思い出して」

森を駆けるヴィジョンが頭をよぎる。
全力で走る足の疾走感。目の前の木々は横目に見れば、緑の光線に変わる。
一気に地面を蹴って、空を舞う。
黒い横穴にダイブ。
そして、中にある柔らかい何かを抱き締めた。
ヴィジョンの中で、私の顔が微笑んでいるのがわかる。
そして、抱き締めているのは……私だ。

「思い出して」

ヴィジョンの中で、激流に耐えている私がいる。
抱き締めているのは……私だ。
私が……私を抱き締めている………。
壁から突き刺した手を抜いた。流れされながら反転、何かを手で突き刺す……。
このヴィジョンでは……私は彼女だ!
あの私を守ってくれた彼女だ!

私の部屋の整然と詰められた正方形の天井が目に飛び込む。
点滴と病院にありそうな電子機械が傍らにある……。

ヴィジョンの中で白の無機質な都市で、ロボットが轢かれた。
轢かれた?
私は、普段見る事のないトラックの下の構造を覚えている。
覚えているのを思い出す。いつそんなのを見たの?

そうだ、私は轢かれたんだ。大きな、四角いものに……。トラック。
なんで?

暗くなる。
私は、何があったの?

ヴィジョンの中で白い薄い人間が狭いトイレの中、何か言う。
その人間は肌色を帯びる。ちゃんと人間らしい顔や体を持ち始める。
私が着ていた制服を体に通している、三人の人間。

汚い言葉。(もういい加減死になさいよ。うざい。消えて)
その人間が発する、言葉。

傷ついた彼女を思い出す。

「そこはもう思い出さなくてもいいよ。十分だから」
駄目だよ。もう少し思い出さないといけない。
傷つくのを恐れないのは、彼女に教えてもらったこと。
あなたに教えてもらったこと。
何か、悪い事をしたの? 私は。

あの感触を思い出す。
黒い沼の感触。汚れた三つの黒い塊がいた沼。
引きずり込まれた沼。
何も悪い事をしていない私を。
ただ、大人しくそこにいただけの。私を。
でもその沼は、綺麗な川に通じていた。
そこは彼女が連れてってくれた場所。
私が私を、導いた世界。



「怒りがある? 憎しみがある? 恨みがある? あの三人に」
ある。その感情全てがあの三人に向けられているよ。
でも……。

あの水は、清浄だった。あの森の風は……気持ちよかった。

彼女は私を守り、力をくれた。

私の中の汚れたものは私を攻撃するも、触媒になった。
彼女という存在を私により良く教える触媒に。
強さを与えてくれた。

私は三人のいじめから逃れる為に自殺をしたのを思い出す。
トラックへ飛び込んだ。
今、ベットには痛々しい姿の私が寝ている。
こんな目に遭わなくて良かったのに。
でも、彼女に出会う事ができた。

一瞬、二人の私がいる暗闇の中に森が現れ、消えた。
その質問への答えは決まっている。
もう怖くない。
彼女の、強さを私は手に入れたんだから。

"私はあの子達を許すよ"



白い、天井。
白い、壁。
白い、シーツ。
無機質な、たくさんの機械。
落ち続ける、点滴の液体。
まだ、動けない私。
この世界で、現実と言うこの世界で、まだ、動けない私。

大丈夫。ゆっくりと呼吸しよう。
大丈夫。失ったものはあるかも知れないけれど、たくさんのものを貰ったから。

あの三人の子達は……、また出会ったら私をいじめるのかな?
しないかもしれない。あの子達はできないかもしれない。
彼女と出会うまでなかった力を今は持っているから。
いじめに遭ったら、そうだな……それに見合ったパワーを出して、反撃というか、話そう。
私はもうあの子達へのマイナスの感情はないから。

いろいろ、考えないと。
せっかく私は、生きる事ができたのだから。



涙が出てきた。
人工呼吸器のせいで、上手くしゃべる事ができない。
でも漏れるように口から声が出た。

「ありがとう」

彼女への言葉。
私をどこまでも守ってくれた。どこまでも一緒にいてくれた。
男物スーツと野生で包んだ、狼か猿のようなすばしっこさと力と愛を持っていた。
ボロボロになりながら、私を導いてくれた。
どんなに傷だらけになっても、私に力をくれた。
最後には私の弱さを引き受けて、植物に覆われていなくなった。
私を産む為に。
新たな私を。


もう一度言おう。
上手くは言えないけれど。

「ありがとう」

彼女への言葉。
私の心の部品の中で、一番大切な存在。
もう会うことのない、大切な心の一部。