〜お象様お江戸へ行く〜
お象様物語


 昔、と言っても江戸時代、海を越えて象がやってきた事がありました。もちろん車などなかったこの時代、象が九州の長崎から 江戸まで歩いたという話が残っているのです。

***


<<1727年 中国 清王朝時代 康熙帝>>

「皇帝陛下、おはようございます。倭の国、徳川八代将軍吉宗公より、献上物が届いています。」
「ふん、どうせまた壺か何かだろう。見るまでもない。」
「そうおっしゃいますな。手紙も来てることですし礼状かたがた返事も書かねばなりません。」
「あいや、判っておる。まず手紙を見せい。ふむ、以前に送った金の屏風、あれには感心したらしいな。長々と礼が書いてある。むむむ、何! なんだと! 」
「いかがなされました? 」
「辺境の地の井の中の蛙が! 『大体の物は見た。滅多なことでは驚きもせぬ。』等と書いてきたわ。」
「辺境ゆえの無知でございます。」
「何を送ってやろう。この世の広さを思い知らせてやる。」
「まったく生意気な。我が国が、文字、仏教まで教えてやったというのに。」
「それだ。その仏教だ。普賢菩薩が乗っておられる象だ。象を送ってやれい! 」


***


<<1728年 享保13年 長崎港>>

「へっくしょーい! 南国の四月というから暑いと思ったら大間違いだぜ。」
 鼻をすすりながらつぶやいた鈴木康之介は、火鉢を抱えながら一ヶ月前に我が身に降りかかった出来事を思った。

 廊下を騒々しく走る足音と一緒に大声が近づいてきた。
「康之介、康之介はおらんかー! 」
「父上、そんな大声を出さなくてもここにいます。何事です? 」
「将軍様より、直々のご命令じゃ。」
「なれば先日、家禄を継いだ兄上におっしゃって下さい。」
「いや、この話は是非、お前に遂行して欲しいのじゃ。いいか。簡潔に言うぞ。清の国から将軍様宛に象が来る。お前、長崎まで行ってお迎えしろ。そして江戸城までお連れするのだ。」
「えっ……。」
「家禄を譲ったばかりの兄が象の鼻の一撃で死んでも困る。それにヤツは動物嫌いだし鼠にも飛び上がる。タマもなつかない。その点、お前は次男だしタマもよくなつく。」
 にゃぁ〜。康之介の膝の上でタマがあくびをした。

「へっくしょーい! 冷えるな。まったく。親父ときたら猫と象を一緒にしやがる。それにしても象様の乗った船はまだかね。」

 当時、仏教画等で象の形は割と知られていましたが、想像で補う部分が多く実際とは随分違っていました。その中でも鳥獣戯画絵巻の象は特徴が出ていましたが、 あの重量感まではとても伝わってくるようなものではありません。

 康之介は宿の中庭に出た。見上げた空は見事な夕焼けである。季節はずれの寒波も今日で終わるだろう。
 翌日、宿の女将の声で起こされた。
「鈴木様、船が入港します。清国からの船がお着きですよ。」
 康之介は、取る物も取りあえず港へ行った。供こそ連れていないが旗本の次男坊である。人夫を十人ばかり雇ってある。その他にも後で合流する警備の者もある。 その人夫らが港で騒いでいる。
「象ってのはよ、一千貫もあるそうだ。」
「あほらしい。そんなにでかくはないだろう。」
「わしゃ、馬方上がりだからよ、平気さぁ。ケモノは、ひっぱたきゃいいんじゃ。まっ、最初が肝心。」
「こらこら、ケモノとはいえ清国皇帝から上様への贈り物だぞ。くれぐれも怪我などさせぬよう。粗相の無きよう丁重に扱えよ。象、象と呼び捨ててはいかん。 御象様だ。象様と呼べ。」
「へい。」
 わいわいやっている所に船上の大柵の布が取り払われ大勢でコロを使って船から降ろした。
 大柵が壊され、御象様の姿が現れた。その大きさ、重量感、皮膚のガサガサした感触、小さな目、揺れる鼻、その下にある長い牙。 康之介の知識とはまったく別の生き物がそこにいた。
 象様は耳をパタパタと動かし、大きく深呼吸をしたかと思うと吼えた。
「ぱぉぉぉぉぉぁ〜っ」
 そして脱糞。巨大な糞が地面に落ちた。さっきまで威勢の良かった馬方上がりの爺ぃの人夫は腰を抜かして、へたり込んでしまった。
 象様は長崎から小倉までの長崎道をゆっくりゆっくり歩きなさる。街道筋には、町人百姓が押し掛け見物している。途中、象様は急に動かなくなってしまわれる。
「オウ、オウ。」
 人夫達が大声でせかしてもなんのその。くるりと鼻を伸ばし庄屋の塀越しに柿の木をむしっていたりする。街道筋の野次馬は大喜び。
 行く先々で象様の食事の用意をする。水を用意する。警備陣の宿の手配をする。象様が暴れると大変なので「家畜は隠して鳴かすな。火の用心せよ。」と奉行所におふれを出して貰う。 そんな野次馬の見守る中を大勢の警備陣を引き連れて一日五里か六里(二十q〜二十四q)のゆっくりとした歩みで象様は進んで行く。
 康之介の見るところ象様は至って穏やかだが我がまま気まま、半日水浴びをしてその後寝てしまった事がある。揺り起こそうにも動かない。寝返りをうたれて人夫が潰されそうになったことがある。


***


 街道筋にある三田川村は、朝から異様に騒がしかった。「昼過ぎ象様が来るので家畜鳴かすな、火の用心せよ」と奉行所からおふれがきたのだ。
 百姓のせがれ悟作は、朝から両親に畑の草むしりを言いつけられていた。
「おーい、悟作、聞いたとか。象が通るんだと。見に行かんとか。」
「草むしり終わらせてすぐ行く。」
「象ってのは鼻が十尺もあって、耳なんか畳半畳もあるんじゃと。」
「大げさに話しが伝わっとるんじゃ。そげん長い鼻でどうやって前が見える。耳もそげん大きかったら横が見えんだろうが。」
「そらおおごどじゃな。じゃあとで。」
 悟作は、いつになく熱心に草むしりをし、昼、木陰でつい寝てしまった。目が覚めるとひんやりして西の空が赤く染まり始めていた。
「しまった。寝過ごしてしまったとか。」
家へ帰る道々、人々は興奮覚めやらず象の話で持ちきりだ。
「おかぁ、なして俺を呼ばんかったと。」
「象は、よかったとぉ、凄かねぇ、大きかねぇ、鼻の長かこと。」
「ううううううっ」
 悟作は家を飛び出した。先ほどの友に会った。
「悟作ぅ、何処へ行く。やっぱり鼻十尺あったなぁ。」
「ううううっ、耳も畳半畳分あったとか?」
「何だぁ、見なかったと?あはは、こぉんなでかい足だったとよ。体なんか家よりでかかったとよ。」
 悟作は走り出した。悔しくて悔しくて寝過ごしたの残念でたまらなかった。
「見たかった、見たかった、俺だって象を見たかったとぉ〜。」
 夢中で走って村境に来ていた。辺りはもう暗かった。石につまづいて転び、右手が思わず握った物は馬糞に似て非なる物だった。
 翌日、悟作は得意だった。
「俺ぁ、象の本物の糞を持っとる。凄かろう。」
 悟作の面目は立った。その後、悟作はこの象糞が良質の肥料になる事に着目し、その田畑はその年、驚異的な生産高を記録する事となる。


***


 鈴木康之介は、象様と同行するうちになんとなく象様が判ったような気がすることがある。 水をかけられたこともある。鼻汁をかけられたこともある。おならの風を受けたこともある。 それらの後、象様は康之介に笑いかけたような気がするのだ。 暑くて暑くて、皆ひぃひぃ言いながら行進している時、ちょっと体をずらして康之介に日陰をつくってくれたような気がするのだ。
 その様に思うゆとりが出てきた康之介にも心配事がある。関門海峡である。 わずかな距離とはいえ、あの我が儘な象様が素直に船に乗ってくれるとは思えないのである。

 さて、目の前に関門海峡。象様は船を知っている。知っているだけに事は難しい。この海峡は流れが速く潮の満ち引きが激しい。 船を出せるのが一日に二度と限られる。海の方も我が儘らしい。
 案の定、象様は立ち止まってしまった。優しく誘導するが、象様動かず。皆で縄を架けかけ声と共に引っ張るが、象様後ずさり。 時間ばかりが過ぎる。すでに一回目の船出の時間を逃してしまい半日無駄に過ごしている。
 康之介は、象様が決して動かぬ小山に見えてきた。無駄と判って人夫に尻を押させる。象様知らんぷり。警備陣の気の短いのが「やっ」とばかり 象様の前に躍り出て刀を抜いた。
「象様、なんとしても次の船出の時間までには乗って貰いますぞ! 」
 象様に向かって啖呵を切っている。康之介は象様が傷でも負ったら大変と間に割って入ろうと駆け出したとき、象様は刀の男に向かって鼻を上げた。 男は重心を崩しよろけてつまづき海へ落ちていった。象様は涼しい顔をして上げた鼻で頭を掻いていた。
 船出の時間が来た。象様は相変わらず大岩の様に動かない。縄で引っ張ってそのまま泳がそうと言う者もいれば、餌でおびき寄せようと言う者もいる。 ひっぱたいて言うことを聞かせようと言ったのは馬方の爺ぃの人夫だ。皆、象様そっちのけでわいわいと騒ぎ始めた。
 康之介としては、ここらで結論を出さねばならない。ふと見ると象様がいない。さては海にでも落ちたのかと思いきや、なんと象様は自ら進んで窮屈な船に乗っておられた。


***


 無事、下関に着き、京をそして江戸を目指し大勢の供を従えた象様の大行列が山陰道をゆっくり進む。
 康之介は江戸から長崎まで行った道中と同じ道を引き返しているのだが、こんなにも川があったかと改めて思っている。 橋に差し掛かるたびにドキドキするのだ。みしみしと橋が嫌な音をたてる。今まではこの程度で済んだ。しかしいつかは恐れていることが起こるのではないか。
 今、目の前に橋がある。
 その橋は象様が通るには、狭いと思われた。古いと思われた。傷んでいると思われた。乗ると嫌な音をたてながら沈む。中程まで来たとき、ぎぃぃいいぃぃ〜とやけにゆっくりとした音がして 橋が大きく傾き、象様と人間達は川になだれ込むようにして落ちた。康之介も川に落ちた。象様に怪我はないか。この先、道中はまだ長い。祈るような気持で象様を見た。
 象様はこのアクシデントが大層気に入ったらしい。大喜びで水と戯れている。自身に水をかける。人に水をかける。とうとう一日水遊びを楽しまれ、その後体にたっぷりと小石混じりの砂をかけ、 横になられてうとうととしながら砂を乾かし、乾くと木に体をこすり付けて砂を落とし、すっかり身綺麗になる代わりに、川べりの木々はボロボロになり、時間だけが無意味に過ぎていった。
 康之介は、行く先々の橋の補強を徹底させる事にした。


「お上からの伝令である。あと十日の内に橋の幅を広げ強化するように。」
「へい。お言葉ですが、村の橋は出来てまだ三年しか経っておりません。もしよろしければ訳をお聞かせ下さい。」
「この奥の村の橋が御象様が通ったため壊れてしまったのだ。幸い御象様には怪我が無かったもののこういった事を避けるためだ。」
「通っただけで橋が壊れてしまうとは。いったいどちらのお嬢様で。」
「嬢様ではない。象様だ。ほれ、あの鼻の長い。」
「天狗のような? 」
「いや、耳が大きくて、目方が一千三百貫余りの。」
「一千貫……。」(象は約5t。一貫=3.75kg)

 田舎なもので、どうも象の事がわからない。それでもお上の命令なので突貫工事で橋を仕上げた。そして村中で固唾を飲んで御象様を待ち受けたのである。
 象様は、もう、随分前から水の匂いをかぎ分けていた。もうすぐ水のある場所に着く。楽しみにしていた。だから川に出たら橋など渡らずにまっすぐに水に入っていった。そこで気の済むまで水浴びをし、 砂浴びをし、木に体をこすり付け、上機嫌で村を去っていった。村には象様が使わなかった真新しい丈夫な橋が残った。


***


 山陽道も無事終わりそうである。もうじき京の都である。京についたら天皇の御所に寄らねばならぬ。
 長崎から出発して五十二日目。時はすでに六月である。京の六月は蒸し暑い。象様の同行の人間達は長旅と暑さで参っている。象様は暑いのは平気らしい。今日は鴨川でお戯れである。 象様が右を向けば右岸の野次馬が「うおぉぉぉ〜っ」。左にしぶきを飛ばせば左岸の野次馬が「うわぁぁぁ〜っ」。京でも大人気である。

 記録に寄れば日本に象が渡ってきたのはこれが初めてではありません。1408年に一度、1574年に象と虎。1575年に明より象一頭、虎四頭。1602年に象と虎が交跡より家康公に送られています。この物語は 家康から百年以上も経っており、なによりも長崎から江戸までの大行進です。現代で言えば恐竜の大行進以上のインパクトがあったのではないでしょうか。

 ともかく京都。御所にて中御門天皇と霊元法皇に拝謁。康之介は、象様が何かやらかすのではと、暑さの中冷や汗のかき通しである。象様は水浴びのせいか機嫌が良く涼しげだ。

     時しあれば  人の国なる けだものも
              けふ九重に みるがうれしき

 その際の天皇の御製である。「従四位白象」という位まで受けて大歓迎である。


***


 無事京都を発ち東海道を江戸へ向かう。今でいうとあと500km。途中難所がある。

     箱根八里は馬でも越すが
          越すに越されぬ大井川

 竹蔵は、薬売りを担いでいる。仕事は大井川の川越人足だ。川の中程で足を取られ転びそうになる。少しわざとらしい。
「おいおい、気を付けてくれよ。」
「旦那、この先見た目より深いし、流れが急だ。こりゃぁ四十八文じゃあわねぇな。六十文は貰わねぇと。」
「そんな。四十八文と言ったじゃないか。」
「嫌ならいいんですぜ。ここで降ろしても。大事な商売道具がおじゃんになっても俺ぁ知らねぇ。」
 竹蔵は気の弱い客相手に結構稼いでいる。
「竹、仕事だ。相手は役人だ。ざっと三十人はいるぜ。皆でどんどんこなそうや。」
 岸を見ると象がいる。竹蔵は役人を担いだ。
「すまぬが象様と離れずに渡りたい。」
役人は康之介である。
「旦那、変わったお役目ですねぇ。」
「無駄口をたたくな。人足、もっと象様の方へ。」
 馬が水中で駄々をこね人足が怒鳴っている。象様は好奇心を起こしたのかゆっくりと馬の方へ進み出した。竹蔵は象の鼻先まで来た。
「旦那、この先、見た目より深いし思ったより流れが急だ。こりゃぁ、四十八文じゃあわねぇ、八十文は貰わねぇと。」
「この象様はな、私の言う事はよく聞いてくれる。鼻の一撃を食らった者もいたが象様はおとがめ無しだ。」
 象はと横目で見ると牙が恐ろしげだ。
「ああぁ、気のせいでした。急に浅瀬に出ました。」
 竹蔵は、象連れの客などこの先二度と取らねぇぞと、空を睨んだ。


***


 箱根の山奥の掘ったて小屋に、浜島庄兵衛があぐらをかいていた。山賊頭である。小屋に来る途中、妙な行列を見た。今、手下に様子を探らせている。
「お頭、霧が深くてよくわからねぇ。しかしあれだけの人数だ。どこかのお姫様の護衛だろう。いい仕事になるかもしれねぇ。」
 庄兵衛、手下を数人連れて林の中を行き、霧の中のゆっくりとした行列を見つけた。お姫様の駕籠は何処だろう。杉の木の影で息をひそめて行列を見た。霧が濃い。 何か見慣れぬ巨大な物が目の前を行く。それは立ち止まり庄兵衛を見た。目が合った。「何んだぁこりゃぁ。化け物だぁ。」心底恐ろしかった。山は何が出るか判ったもんじゃねぇ。
 彼はこの事をきっかけに山を降り、仕事場を里に移した。そしてその後、日本左右衛門とも十右衛門とも呼ばれる日本史に残る大盗賊となっていくのである。
 まだ山賊をやっていた頃の若き日の日本左右衛門のエピソードである。


***


  明日は江戸城という夜。康之介は皆が寝静まってから象様の所へ行った。お互いの長旅の苦労を分かちあおうと考えたのである。
 大きな十六夜の月と城が見える。康之介は象様相手に酒を飲みながら、ふと思いついた事があった。
「象様の背中に乗ってみよう。」
 しゃがんでくれればなぁ。仕方がない、よじ登るか。酔っぱらいの行動であるからうまくはいかない。何処からかはしごを持ってきて再挑戦するがはしごごと倒れる。屋根からから飛び降りて乗ろうとしたが、象様の背中にたたき付けられた。 酔っぱらいは諦めない。木に登り枝を伝いそろりと降りるが、枝が折れ騒がしいだけ。
 さすがの酔っぱらいも諦めて、今夜は象様の隣で寝ようと思い横になる。すると突然象様は康之介の横で足を折ってしゃがんでくれた。まるで「乗ってもいいよ。」という様に。
 十六夜の月と江戸城を背景に象にまたがる康之介。象様はゆっくりゆっくり歩いてくれた。酔っぱらいの夢だったのか、後で思い出しても曖昧な記憶しかない。


***


 翌日。将軍徳川吉宗に謁見。長崎から七十八日目である。
「おおお、遠路はるばるさぞ苦労であった事よ。よく来た。噂通りの長い鼻じゃな、気に入ったぞ。清国からの大事な贈り物じゃ、鈴木康之介、今後も面倒を見てやってくれぬか。」
 お言葉を貰ってるその側から象様は、吉宗公自慢の見事な枝振りの松の木に体をこすり始め、吉宗以下を慌てさせた。

 さて康之介はその日から象様と共に過ごす事となる。象様はいたって元気でよく食べよく飲みそして水浴をなさる。水浴の後には、砂を浴び体を木にこすり付けての砂落としである。この砂落としでお城の池の周りの木はぼろぼろになってしまった。 干し草は充分用意しているのだが、やはり生の草、生の木の枝の方がお好みらしい。

 康之介は、象様を時々城下の川へ連れていく。象様は相変わらず上機嫌で見物人も多い。大人気だ。川べりで腰を降ろしている康之介は憂鬱である。城内での象様の評判の事である。よく食べる。林檎、人参、薩摩芋を各5kg。それに干し草400Kg。 これが一日の量で毎日続くのである。これだけの負担が、ある日突然やってきて、しかも何の生産性もないのである。加えてお城の緑が目に見えて減ってきている。吉宗公は見てみない振りをしてくれている。そればかりか「不便があれば何なりと申せ。」 とまで言って下さるが、財政面から見ても楽ではないだろう。家臣の中には面と向かって康之介にそのような事を言う者もある。しかし康之介にはどうすることも出来ない。


 川べりで水浴びする象様を熱心に見に来る若者が二人いる。名を源助と弥助と言う。共に近在の中野村(現在の中野区)の裕福な百姓の次男坊だ。

「いいなぁ。象は。」
「あぁ、大きいなぁ。おっ、こっちを見て笑ったぞ。」
「馬鹿。笑うもんか。オラんとこの足の利かねぇ婆ぁちゃんにも、見せてやりたいなぁ。」
「オラも、そう思うことがあるぞ。象を色々な人に見せるんだ。象っていうのは見るだけでなんかこう、うまく言えねぇけどいいぞ。」
 この二人は、いつしか憂鬱な表情の康之介と親しくなる。普通なら身分違いでとても対等には話す事などあり得ないが、象様に寄せる思いがこの若者達を近づけていった。

 康之介は二人に話す。
「実は今、お城では象様の扱いに困っている。何しろ食べるのだ。凄いぞぉ、まぁあの体だからだからな。そればかりか今、城内の緑が荒れてひどいのだ。象様の仕業だ。 城でも困っている。清国皇帝からの贈答物でもあるし粗末に扱う訳にもいかぬ。」

 また興が乗るとこんな話しを二人に向かってする康之介がいた。
「象様は本来、群で生活する動物だという。私は思うのだが、象様の故郷はなんて豊かなのだろう。仮に一群十頭としても一群しかいない訳ではあるまい。何百、ことによると何千もの 群がいるのだ。それらが皆食べている。象様のように。それに比べて我が国では一番力のある将軍家でも一頭の象様を持て余している。のう、源助、弥助、海の向こうは、世界は広いのう。」
 三人は急速に親しくなっていった。


***


「康之介様。オラ達、考えていることがある。聞いてくれろ。象様を色々な人に見せたいと思うんだ。オラ達いつも象様と一緒にいられる康之介様が羨ましい。夢のまた夢かもわかんねぇけど 象様を連れてあちこち旅をしながら色々な人々に見せることが出来たらなぁ。」
 二人がこのような話をする事が多くなった。どうも本気らしい。お城はますます困窮している。自分が橋渡しになってやろうか。その方が象様のためかも知れぬ。
「もしそうなった場合、餌はどうする。暮らしはどうする。」
「そうさな、生活は、やはり見せ物になるだろうな。軌道に乗るまでオラとこでも弥助の所でも援助はしてくれるだろうし。家は割と大きな百姓なんだ。人参や芋ならたんとある。」
「裏の荒れ山の木ならぼろぼろにしても構わねぇし。軌道にのれば商売としてもうまくいくさ。」
「うむ。」

 お城のお堀で康之介が象様を洗っていると将軍様が見物にいらした。
「毎日の世話さぞかし大変であろう。」
「とんでもございません。私はすっかり象様が好きになってしまいました。好きな事をやらせて戴いてとても幸せです。」
「そうか。象が好きか。余も象は好きじゃ。だが喰うよのう、この体格では無理もない。」
「お城の緑を荒らしてしまい申し訳なく思っております。」
「その事じゃ。余も少し困っておる。何か良い案はないか。」
「・・・少々考えがあります。」
「申してみよ。」
「城下の者に払い下げてはいかがでしょう。」
「応じる者などいまい。」
「私に心当たりがあります。」
「ほう。」


***


 康之介は、寂しい気持になってる。三日後には源助と弥助に払い下げられる事が決まった。 象様係りはこれで終わる。思えば長崎の出会いから今日まで、色々思い出されて妙に切ない。
 この気持をどう表現したらいいのか。信じてもらえないかもしれないが象様との関係は友情という言葉が一番近いかも知れぬ。 そして先程からある考えに取り憑かれて自分でも持て余している。「お城勤めを辞めて源助弥助と共に象様と旅をする。家は兄が継いでくれるし自分は独身だし、誰も困らない。」 康之介はすっかり考え込んでしまった。

 廊下を騒々しく走る足音と一緒に大声が近づいてきた。
「康之介、康之介はおらんかー! 」
「父上、そんな大声を出さなくてもここにいます。何事です? 」
「聞いたぞ、お前は! この親不孝者が!お城勤めを辞めて象使いになりたいだと! 許さぬぞ! 将軍様から直接お声かかりの旗本の我が家系からよりによって見せ物師なんぞに なる者が現れるとは! あぁぁぁ、ご先祖様に申し訳が立たない。」
「父上、象様は素晴らしい生き物です。最近では私に牙も触らせてくれるんですよ。この感動を人々に伝えたい。象様は私を必要としているし私もしかりです。」
「何をたわけた事を! 」
「私は城を出ます。」
 家の者も城の者も驚いて止めたが、康之介は象様と一緒に城を出てしまった。


 幕府も象様には本当に困っていたようです。この八十五年後の1813年にもオランダ船が一頭の象を将軍家に献上する目的で運んできましたが、幕府は「その儀に及ばず」と受け取りませんでした。 原因はやはり食べ物だったようで、余程の事だったのでしょう。ニュースは庶民にも流れ、残念に思う人も多く、画家の酒井抱一のこんな句が残っています。

     狭いやら
        象は南へ  帰るなり


***


「こうやって毎日大きななりを見せていたら銭を払ってまで誰も見ませんよ。皆、只見ですよ。」
「隠してちょっとの時間だけありがたく見せなくちゃ銭にならんか。」
「こんな大きな動く象様をどうやって隠すんです。広い柵を作って布でも掛けて隠すんですか。」


***


 この後の記録は残っていません。たぶん三人と一頭は、仲良く楽しく当人達は至って真面目だけれど傍目には騒々しくも馬鹿馬鹿しく暮らしていったのだと思います。



おしまい



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