湯の怪


湯船を熱心に掃除をしてもしなくても、湯はいつも綺麗なことに湯屋の主人は気付いていた。

 店は繁盛していた。近隣からも遠方からも客が来る。どんなに大勢の客が来た日でも、湯は濁ることなく綺麗なままだった。

 時々、妙な噂がたつ。
「湯がいつも綺麗なのは、湯船の中に湯の怪がいるから。それは一年に一度ほど客を喰らうんだ」

   湯屋の主人は、噂を無視していた。店が繁盛していればそれで良かったのである。たとえ、一年に一度ほど、閉店時に服と靴がひとり分残っていたとしても。
持ち主はどうしたのだろうと思いながらも、丁寧に服を畳み靴と共に風呂敷に包む。そういう風呂敷包みがいくつも納屋にある。家族に尋ねられても「お客の忘れ物だよ」と言うだけである。

「うちの亭主が朝から湯屋に行ったきり帰ってこない。湯に飲み込まれたんではないか」
ある日、近所の顔なじみがそう言って怒鳴り込んできた。
「ここの湯には何かいるんだろう? みんな言ってる」
「根も葉もない噂には迷惑している」
 湯屋の主人は、内心「顔なじみはまずいな」と思ったが、今日は持ち主不明と思われる服は見ていない。
「今日は混んでいて、誰が入ってもう出たか、いちいち覚えていない。その内、家へ戻るのではいないか」
 怒鳴り込んできた女房は「また来る」と言い残し、納得のいかない表情で戻っていった。

 閉店間近になり、脱衣所は込み合ってきた。戻らないという亭主を目で探したが、それらしい男はいない。
 最後の客が「良い湯だった。また来るよ」と言った所で、湯屋の主人は片づけはじめた。散らかった脱衣かごを集めていると、脱ぎ散らかした服を見つけた。先程言われていた服装と同じだった。まさかと思って玄関に行って下駄箱を見ると、靴が一足揃って行儀良く並んでいた。

 そこへさきほどの女房が来た。
「すまんね。うちの人が裸んぼうで納屋で震えていた」などという。
 話を聞くとどうも正気ではないらしい。「化け物に喰われそうになったが逃げてきた」などと言い、うなされて寝込んでいるという。
 湯屋の主人は靴が見つからないような位置にさりげなく体を移動してから、じっくり話を聞いてやった。女房は「あのばか亭主。どこかでたちの悪い女に騙されたに違いない」と毒づき、先程の非礼を詫びて帰っていった。

 湯屋の主人は、丁寧に湯船を洗う。そんなに洗わなくても、いつも湯は綺麗で、店が繁盛することは知っていたけれど。







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