火星の強い風の吹く渓谷の底を流れる川を利用する者達から、噂は街中に広まっていった。 「あの川を渡るとき、時おり女の声の唄が聞こえる。それに聞き入ると引きずり込まれるから耳を塞いで通り過ぎろ」 谷の近隣の住民は、噂を信じ、怖れ、耳を塞いで川を利用した。 幼年期を地球で過ごした老人が、ひとり渓谷に暮らしていた。 老人はノミとカナヅチでこつこつと、毎日、岩に穴をあけていた。 時間をかけてこの渓谷の風を把握した老人は、笛の原理を利用して、幼い頃、母に教わった地球のメロディーを谷に再現しようとしていた。 谷行く人々に地球のメロディーを。あの懐かしい調べのメロディーを。 老人はこつこつと作業する。老人は街の噂を知るよしもない。 |