『月の呪い』



「私、別れることに決めたよ。」
 風が冷たい夕暮れ、約束の時間より少し遅れて喫茶店に来た僕に、彼女はいきなりそう切り出した。
 いつもは僕の恋愛の相談役をして貰っている。僕が彼女の相談に乗ることはまずない。
 彼女は外の景色がよく見えるいつものお気に入りの席に座り、大きめの目を伏せ目がちに珈琲を所在なげにかき回している。僕は濃いめの珈琲を注文し、息を整えてから言った。
「でも好きあってるんでしょ。」
「うん。とっても。」
 彼女は、にっと笑った。歳は僕より上なのは確かだけれどこんな風に笑顔を見せられると、見ようによっては20代前半にも見える。そこの所は本人も充分わかっていて冗談でよく自分の事を妖精に例える。
 何故?といぶかしがる僕の顔を確認してから彼女は言った。
「いずれ別れなきゃならない人だし。このままずるずるとしてるのもね。」
 彼女は僕と違っていつも答えははっきりしている。僕の相談にも、ずばりと言ってくる。むっと思う事もあるけれど、まぁ正解なんだな。
 そんな彼女が今日は僕に話しを聞いて貰いたいらしい。
「このままあっさりと別れたら彼にとって都合が良すぎない?」
 わざと意地悪い質問をしてみる。
「私の願いは、彼が幸せになること。彼の婚約者が彼を幸せに出来るんなら、それで良いんだ。婚約者にそれが出来なきゃ、私がその役をする。」
「無理してない?」
「彼がそれを願ってるもの。彼の願いが叶うのは私もうれしいんだよ。彼の願いが私の願い。」
 ふぅん。そんな愛もあるのか。日頃の彼女からは想像もつかない古風な感覚だな。僕は意外に思った。
「私、今からお別れが楽しみになって来たんだよ。」
「というと?」
「彼に呪いをかける。」
彼女は楽しそうに笑った。
「呪い?」
 やっぱりね。このまま大人しく引き下がる女じゃないんだよ。
「そう。呪い。婚約者がいるくせに私に手を出した罰。」
「どんな?」
「うふふん。」
充分にじらしてから話し出した。
「お別れするときにね。こう言うの。」
「うん。」
「私ね、月を見るのが大好きなんだよ。 昼間の白い月。夜の月。針の様に細い三日月、半月、満月、おぼろ月。 月をみたら私を思い出して欲しいの。その時、私もみてるかもしれない。 強く思ってくれたら私わかるから。月をみたら私を思い出して。」
 そう言って彼女は一気に珈琲を飲みほした。
「これで一生、月を見るたびに私を思い出す。忘れられなくなる。これが呪い。」
「随分ロマンチストなんだね。」
「そう?私は現実主義なんだけどな。」
「一生解けない呪いか。」
「お別れする時に呪いをかける。だから今から別れが楽しみになってきたんだよ。」
「楽しみにする所なんかはちょっと怖いかも。」
 喫茶店の窓から見える空は、暗く冷たい。月は見えないが、雲の一部が明るく光って、そこに月があるのだろうと容易に想像出来る。
「数ヶ月後、彼は婚約者と一緒になる。それまで私の方が夢中になりすぎない事。 私が夢中になったら月の呪いが自分にかかっちゃう。」
「かかっちゃえば?」
「私は妖精。妖精はね、人間を夢中にさせなきゃ。」
自分の事を妖精と言うのは彼女の癖だ。
「僕も誰かに月の呪いをかけてみようかな。」
「あはは。きみには無理だよ。月の呪いは誰にもかけられるって訳にはいかないんだ。 今、現在、彼が私をとても愛してくれているのが分かるから。私達は嫌いで別れる訳ではないんだよ。だからこの呪いがかかるんだ。」
「そうか。」
「今までの私ならまわりが見えなくなって彼の元に走ってどろどろ関係になっていただろうね。 年月は、かつての馬鹿娘にもいくらかの思慮深さを与えたようだ。月の呪いをかけることが出来るまで成長させたんだからね。そう思うと感慨深いな。」
「僕も呪いをかけられるくらいに成長したい。」
「うふふん。きみはまだまださ。」
そう言って妖精はにっこりと微笑んで、空っぽの珈琲カップをつまらなそうに見た。
「店、出る?」
「私はもうしばらくここにいるよ。」
「呪いの言葉を完成させるんだね。」
「うふふ。そう。呼び出してごめんね。」
 ああは言ってるが、彼女は精一杯強がってるんじゃないかと思う。 それでなきゃ僕をわざわざ呼びだして月の呪いの話しなどしないだろう。 そう思って彼女の目をのぞき込んだ。 その目は僕などの想像もつかない不思議な所をみている様に感じた。
 妖精だからな。
 そう思うことで僕はそれ以上彼女の気持ちを詮索するのをやめた。
「じゃ、悪いけど僕はこれで。」
「じゃね。」
 彼女が自分の世界の中に入って行ったのを見届けてから僕は店を出た。 晩秋の空は、来たときには明るかったのが嘘のように暗く、暖かい店を出たことを後悔させた程、外は冷えていた。
 振り返ると店の窓から彼女が見えた。外を見ている。僕を見ているわけではない。もっと上の方。あの席がお気に入りな訳だ。あそこからは月が見えるのだ。
「あっ、雪。」
 見上げるとゆっくり落ちてくる雪と、雲間から出てきたばかりの青白い十三夜の月。
 ひょっとして彼女は落ちてくる雪を見ていたのかな。いや、そんな訳はないか。月を見て呪いを完成させる事で頭がいっぱいで、初雪に気付いたかどうか。 僕は、肩にかかった数片の雪を払いのけて、家路へと向かった。 青白い月は、僕の歩調にあわせてどこまでもついてきた。







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