作/久遠
「やっほ〜 久遠さん」 「どうも、みかりんさん。遅くなりまして」 「いいの。いいの。できれば。でも‥‥ なんかへ〜ん」 「変? どこらへんが、でございましょう? 」 「だって、第2部って? 第1部は?? 」 「細かいところを気にしちゃいけない」 「しかも、『邪食集団』すかぁ〜 」 「クーンツが好きだから、いいの」 「そうかぁ? そうかなぁ?? 」 『あの日もこんな天気だった‥‥ 』 私はどんよりとした分厚い灰色の雲を眺めながら、憮然としなが らそう思った。湘南のみならず、日本中を震撼させた「ショウナニ アン事件」を記憶にとどめる者はまだ多いだろう。 舞台となった湘南一帯はクトーニアンの眷族であるショウナニア ンとクトゥルーの眷族であるダゴンの闘いにより、いまだ荒れ果て たままだった。 先日調査に行った時も事件からすでに半年が過ぎるというのに、 周囲は腐った海の臭いが満ち、そこここでむき出しになった地面は 爛れたような不気味な色を見せていた。そのところどころに痩せこ けた貧相な茎の、見るからに邪悪で不快な植物が茂り、人の住める 土地ではない。 全ての原因は一冊の魔道書にあった。東京の、とあるアメリカン スクールに通っていた狂える高校生ジェイムズ・ダールが書き残し た詩集『根暗の蜜柑』。ダールは千に及ぶ詩を三日で書き上げ、原 稿を一冊の本にまとめた。その装丁は自らの股の皮で作られ、ほの かな暖かみを、持つ者に感じさせるという。 その装丁も異様だが、問題なのは中身だった。詩の形式はとられ ているものの、内容は邪悪に満ち、しかもそのうちの数編は悪意あ る異界に通じる道を開く呪文だと言われている。ダールとダールに 心酔する何人かは渋谷のハチ公前で、突如動き出したハチ公に食い 殺されるという、奇怪で悲惨な死を遂げた。 「ショウナニアン事件」の時、私はその魔道書にあと一歩のとこ ろまで迫っていた。が、ショウナニアン教徒に襲われている間に、 「Q」と呼ばれる人物が『根暗の蜜柑』を持ち去った。 ショウナニアン教団からもダゴン秘密教団からも「死の使い」と 恐れられている「Q」についての情報は、ほとんど無い。捕らえた 教徒たちの言葉、「熱砂の王」、「無貌の神」と呼ばれていること から、別の教団の者と推測されるが定かではなかった。 八月だというのに異様に寒い北海道の空港で、私は空を再び見上 げた。一機の旅客機が降りてくる。私はロビーに向かった‥‥ 「久遠さん! 俺、いきなり『狂える学生』っすか。しかも、す ぐ死んじゃうんですか!! 」 「きゃはは! DARLさん、ハチ公に食われちゃうんだって。 渋谷、行かない方がいいよ」 「俺は怪人か。いいね、いいねぇ」 「Qさん、ずりぃ〜なぁ〜 」 「でも、出番は少しね」 「そうなのか! 」 「出っ放しなのは‥‥ 」 昼の中途半端な時間にもかかわらず、ロビーは込み合っていた。 夏休みということもあり、若者の姿が目につく。若者たちの騒がし いおしゃべりを聞くとはなしに聞きながら、私は待ち人を捜した。 しばらくすると、私が待つ人物が現れた。金色の髪、碧眼は珍し くはないが、その巨体に周囲の人は何か危険なものを感じ、道を開 ける。 「クオンサーン! 」 男はスキップしながら私に近づくと、いきなり抱きつき、顔を近 づけた。 「オーヒサーシブーリネー! 」 「わわわ! 」 タワシのような髭が私の顔に突き刺さる。 「やめてくれ! ポンチエ教授!! 」 ミスカトニック大学在学中、私に神学を教えてくれたシャルル・ ド・ポンチエ。彼は口伝の民間伝承に造詣が深かった。そして、偉 大なシュールズベリ教授の残した数々の蔵書の研究家であり、良き 理解者でもあった。 どこかから刺すような視線を感じた。ふざけていたポンチエも体 を離し、緊張した面持ちで周囲を見回す。一人の青年に目を止め、 私に尋ねた。 「カレ、シッテマスカァ? 」 僅かに見えるだけだが、燃えるような赤い長髪が目立つ。目深に 被った帽子のせいで、顔の半分は見えない。 「いや‥‥ 」 私たちの会話が聞こえたわけではないだろう。が、青年は意を決 したように私たちに近づいてきた。細身の背の高い青年は、まずポ ンチエを眺め、そして、私を見た。 「久遠さん、ですね。マイケル・イートです」 柔和な顔立ちに似合った優しい声で、青年は私の名を呼んだ。 「かっこよすぎ。久遠さん」 「そぉ〜 」 「かっこ悪すぎ。あたし、こんなですか」 「ぽんちえさんって、あんななの〜」 「ちっがいまぁ〜す。久遠さん、人が悪いですねぇ。それに引き 換え、いとうさんは! 」 「久遠さん、俺、あんなでいいんすか」 「ああ、もう、うるさい」 空港のそばのレンタカーショップでワゴンを借りると、私とポン チエはマイケル・イートと名乗る青年と共に、札幌の外れにある村 に向かった。わたしとポンチエが当初向かおうとしていた場所では なかった。が、マイケル・イートは、あの「ジェイムズ・ダール」 の友人だったという。 「久遠さんは話の通りなんで、すぐに分かりました」 「私のことはどこで知ったんだ」 「大学の湘南分校の友人から聞きました。ジムは僕の後輩なんで す」 「そうか」 「ジムの‥‥ ジェイムズ・ダールのことを調べてると聞いて。 彼は『アル・アジフ』に匹敵するものを世に送り出すって言ってま した」 ワゴンに乗ると、すぐにイートは話し出した。その話の中に馴染 みの名前が出て、私とポンチエは緊張した。 「どうしたんです? 」 「ダールは『アル・アジフ』と言ったのか」 「ええ。北の魔王になると」 私は黙り込んだ。ポンチエはうなっている。 「『アル・アジフ』って、何ですか」 「知らないのか」 私は驚いて尋ねた。ポンチエが低い声でつぶやく。 「マドウショ。『ネクロノミコン』ノ、ベツノナマエデス」 「『ネクロノミコン』? 何となく嫌な語感ですね」 「語感だけじゃないのさ。嫌な本だよ」 私とポンチエは考え込んだ。イートは言葉を選ぶようにして話を 続けた。 ダールの信奉者の生き残りの一人が大学を辞めたのは、2週間前 のことだった。その少女は平凡な日本人だったが、故郷の村で突然 外人になったという。実家に何回か電話をしたが、通じないという ことだった。 「どういう意味なんだろうね」 「ガイジン、フカイナコトバデスネェ。ニホンジン、ヘンクツデ スネェ」 ポンチエが面白くなさそうにつぶやいた。 「実家には両親と弟が住んでいるらしいんですが、電話がぜんぜ ん通じません。それで訪ねる気になったんです」 「一人で、か」 「ええ、まぁ‥‥ 」 イートは微笑を浮かべた。 「それほど危険はないと思ったもので」 村の外れにワゴンを止め、私たちは夜を待った。買っておいたパ ンと缶コーヒーで中途半端な食事をする。 「人気がないな」 「ヘンデス。ヘンデス。ダレモ、イナイデス」 持ってきた双眼鏡で村を眺める。村は静まり返り、動くものは何 もない。 「廃虚、みたいですね」 イートが不安そうに言った。 日が沈むと私たちは行動を起こした。街灯があるが、一つも灯ら ない。それぞれが懐中電灯を持つ。星明かりさえない暗闇の中を、 私たちはゆっくりと歩いた。 しばらく行くと、どこからか歌うような声が聞こえた。 「きれいな声だ」 イートにはそう聞こえたようだった。が、私とポンチエの肌は瞬 時に粟立った。 「くそっ! 何か召喚しているぞ」 「イケマセンネ。キケンデース」 私たちが走り出すと、イートも慌てて後に続いた。 声の主は村の中央を走る道を歩いていた。 「待て! 」 私は大声で怒鳴り、懐中電灯でその人影を照らした。 歌が止んだ。 「女王たるわれ、アナスターシャ・ミカーリンを呼び止めるは誰 か」 涼やかな、だが怒りを含んだ声だった。金色の髪の美少女が振り 返った。 「オオ! ビッジン!! 」 ポンチエが叫んだ。 「でへへへ。これ、私すかぁ〜 」 「そです」 「ぐへへへ。美人すかぁ〜 」 「一応」 「なんか、奥歯にものがはさまったような‥‥ 」 少女は走り出した。道を外れ、小高い丘に向かう。私たちは追い かけたが、少女は飛ぶように速い。 深追いしすぎたことに気づいた時は、すでに遅かった。 前方に背の高い人影が現れた。妙に動作が鈍い人影は、少女と私 たちを遮るように立ちはだかった。 「どけ! 貴様ら‥‥ わっ! 」 その風体を見て、私は立ち止まった。あとから走ってきたポンチ エの体当たりをくらい、無様に地面に転がる。イートが前方を照ら した。 一応、人間の姿をしているが、頭髪は逆立ち、青々としている。 その下の顔は無表情で妙に青白い。 「”葱人”」 ポンチエが後ずさりした。 「”葱人”? 」 私は立ち上がりながらポンチエを見た。 「シュブ・ニグラスヲ、シンポウシテマス。クワシイコトハ、ワ カリマセン」 それが、ゆっくりとした動作で手を伸ばし出した。ポンチエが絶 叫しなければ、私が叫んでいただろう。 指にあたるところで、無数の白い蛆状のものが蠢いている。 私たちは危険を感じて逃げようとした。だが、すでに後方も”葱 人”たちに遮られていた。 手を伸ばした”葱人”が近づいてくる。 「触るな! 」 私は近づいた一人の顔を殴りつけた。冷たいぬめりを帯びた皮膚 の感触。同時にその顔が潰れた。体液が飛び散る。 「ウッワァァアァァ! 」 騒々しいポンチエの叫び声を聞きながら、凄まじい悪臭に耐えか ねて、私は気を失った。 暗い部屋で私は目覚めた。壁で二本のろうそくが揺れている。 「土間? 」 「気がつきましたか。洞窟みたいです」 近くで、イートの声がした。 「大丈夫ですか」 「頭が痛い」 「クサイデス。クサイデース」 壁を背にポンチエがぼやいている。私は体を起こし、同じように 壁に背をつけて座った。 目が慣れると、そこが狭い洞窟だと分かった。洞窟の出口は粗末 な木の壁で仕切られ、ドアがついている。そのドアを守るように、 五人の”葱人”が立ちはだかっている。不快な青臭い臭気で、洞窟 はむせ返るようだった。 ドアが開き、アナスターシャ・ミカーリンが入ってきた。のろの ろとした動作で、”葱人”たちは頭を下げ、壁際に寄る。 「私に用があるの」 少女が私たちに話しかけた。鈴のような声とでもいうのか。魅惑 的な声だが、どこか邪悪なものを感じさせる。 「ふ、ふ、ふ。おまえたちはもうどこにも逃げられない」 笑顔で面白そうにつぶやいた。 「あんたが室谷魅香か」 マイケル・イートは恐れ気もなく問いかけた。 「その名で私を呼ぶな。私は”葱人”の女王、アナスターシャ・ ミカーリン」 私は立ち上がった。 「『根暗の蜜柑』は悪魔の書だ。すぐに焼き払え」 「これのこと? 」 少女は面白そうに一冊の本を懐から出した。話に聞く薄茶色の装 丁の本を目の前にして、ポンチエがうなった。 「ネクラノミカン! 」 「その本を捨てるんだ」 「あなたたちに何が分かるの。この偉大な書の! 」 「何が偉大だ」 「村人はみんな”葱人”に変えたわ。彼らはもう何も悩むことは ない。おまえたちもすぐにそうなる。あとは‥‥ 」 アナスターシャの身振りで”葱人”近づいてくる。座り込んでい るポンチエの前に来ると、”葱人”は立ち止まった。 アナスターシャの目がぎらぎらと光っている。言葉を切り、高揚 した気持ちを落ち着かせるように深く息を吸う。薄地のドレスの豊 かな胸が上下した。すぐにその異様な光は消えた。 「この本を作った人はユーモアもあるわ。しおりのことを考えた ことがあって? 」 アナスターシャは軽やかに笑うと、部屋から出ていこうとした。 「センノ・タマネ・ギヲ・ウミシ・ハ・タケノ・ナガ・ネ・ギ」 ポンチエがつぶやいた。アナスターシャは振り返った。 「何故それを! 」 アナスターシャは驚愕し、目を見開いている。私も同じような表 情だったに違いない。 「千の玉葱を生みし畑の長葱」。それは「狂気の野菜」、「大地 を呪うもの」と忌み嫌われる邪神ネ・ギの召喚呪文だった。 「ひっどぉ〜い」 「何が? 」 「葱に憎悪むき出し」 「天知る、地知る、人の知る。葱なんか食い物じゃな〜い! 」 「久遠さん、葱、嫌いなの」 「大っ嫌い」 「変なの。変なのぉ〜 それで、『葱色空間』に来てんの」 「『葱問答』に負け続けて悔しくて」 「きゃはははは〜 」 ポンチエの呪文に、”葱人”は一瞬虚をつかれたようだった。捕 らえている者が、彼らにとっては神聖な言葉をつぶやくとは思わな かったに違いない。ポンチエは立ちはだかっている”葱人”に何か を投げつけた。”葱人”は初めて声を上げた。それは苦痛の悲鳴の ように聞こえた。 「ミスカトニックダイガクデヲ、ナメテハ、イケマセーン」 勝ち誇ったように笑い、スーツのポケットに両手を突っ込んだ。 「コレヲ、クラウデース」 私とイートの回りに何かをばらまいた。それがあたると”葱人” たちは再び悲鳴にも似た甲高い声を上げた。私やイートとは違い、 ”葱人”たちにあたったそれは落ちることなく、体内に食い込んで いく。”葱人”たちは皮膚が破れるほど強く、体をかきむしってい た。 「クオンサンニモ、アゲマース」 旧神の印を印刷した小さな銀のコインだった。私は胸ポケットに それを入れた。 「ニゲルデス。コッチデース」 イートはアナスターシャを捕らえた。激しく抵抗する少女の首筋 を私は叩いた。ぐったりした少女をポンチエが担ぐ。 外は意外に明るかった。空を覆っていた雲がいつの間にか薄らい でいる。月明かりが大地を照らしていた。 私たちはワゴンまで走った。ポンチエはアナスターシャを後部に ほうり込んだ。助手席にイートが座る。私はキーを回した。 エンジンがかかり、私はタイヤが鳴るほどのスピードでバックさ せると、すぐにギアを変えた。札幌に向かい、全速で飛ばす。 誰も何も言わない。暗い風景が飛ぶように後方に流れていく。 バックミラーに何かが映った。 「マイク。後ろを見てくれ」 私は嫌な予感を感じた。 「久遠さん。急いで! 」 後ろを見たポンチエが叫んだ。 「デタ〜! ”葱人”デース」 メーターはすでに百二十キロだった。さらに加速するが、バック ミラーに映る”葱人”たちは徐々に近づいているように見える。 「エルダーサインのコインは」 「モウ、シナギレネ。イクツモ、ナイデース。トバスデス! 」 後部にいるポンチエが運転席の背後を蹴った。シートだけではな く、運転している私の首も揺れる。 「逃げられないわよ」 いつの間にか意識を戻したアナスターシャが半身を起こした。勝 ち誇ったような笑みを浮かべている。 「トバスデース! トバスデース! 」 ポンチエが蹴り続けるとシートが壊れ、私はハンドルに叩きつけ られた。ワゴンは道路から外れ、畑に転落した。 「久遠さん、しっかり」 どのくらい気を失っていたのか。周囲に長葱の青臭い匂いが満ち ている。体中が痛む。 「どうなった」 「”葱人”の奴ら、アナスターシャを助けて、札幌へ」 「くそ。ワゴンは」 「だめです」 「ハシルデース。サッポロマデハ、タッタノ三キロ」 ポンチエが走り出した。 「ちょっと待て」 「大丈夫ですか」 「大丈夫じゃない。が、走るしかないだろう」 「ハシルデース。ハシルデース」 月明かりの中、私とイートは飛ぶように走るポンチエを追って、 走り出した。 吸い込む大気の冷たさに私たちは喘いだ。息を整えるために立ち 止まる。札幌は静まり返っていた。家並みは電気が消え、街灯も消 えている。微かに青臭い匂いがする。ポンチエが大気を嗅いだ。 「コッチデス」 いつもの陽気さは消えている。険しい表情で音を立てないように 歩き出したポンチエに、私とイートが続いた。 時計台の前にアナスターシャは立っていた。周囲は”葱人”と化 した札幌市民が守るように蠢いている。 「トケイダイ、『ビッグ・ベン』ミタク、オオキクアリマセーン ネェ。ニホンジン、セコイデスネェ」 ポンチエがぶつぶつ文句を言った。イートがポンチエの前に立っ た。 「ちょっと、行ってきます」 「おい、待て」 私の手を振りほどき、イートは走り出した。 アナスターシャは『根暗の蜜柑』を開き、その詩の一節を朗読し ているようだった。が、私のいる場所には聞こえない。 「やめるんだ! 」 勇気という言葉の意味を、私は初めて知った。 イートの声に”葱人”が反応した。彼はすぐに”葱人”に取り囲 まれた。アナスターシャが何かを命じたようだった。”葱人”たち はイートを取り押さえただけで、それ以上は何もしない。 しばらくすると、目の前のコンクリートの道路が盛り上がった。 時計台が一段高くなり、コンクリートの裂け目から腐臭のような玉 葱の猛烈な悪臭が漂い出した。 「何かが出てくるぞ。こりゃあ、どうしようもない」 「クオンサン、ヨワキハ、イケマセーン」 ポンチエはシャツから手帳を取り出した。すぐに目的のページを 見つけたらしく、楽しそうな笑みを浮かべた。 「コンゲツ、コンヤノ、コノトチハ、ヤツノ、トオリミチデス」 ポンチエが叫んだ。そのまま、奇怪な身振りをしながら、何かの 召喚呪文を叫び続ける。私は体中の痛みをこらえながら、ポンチエ に近づいた。 「なんの通り道なんだ」 「『ウェンディゴ』」 「『ウェンディゴ』だぁ! 風の精、冷気のイタカを呼び出した のか! 」 ポンチエは聞いていない。 「やめろ! 」 私は驚き、ポンチエから手帳を取り上げようとした。 「なんか、俺、かっちょよくないすねぇ」 「ぽんちえさんのことかっちょよく書いてるじゃん」 「そっかなぁ〜 これでは狂言回し‥‥ 」 「狂言回しって? 」 「道化ですか‥‥ 」 「きゃは! わぁ〜い! 道化師、道化師!! 」 「ちがうで〜す」 ポンチエは片手で私を押え込み、さらに手帳を読み続けた。 闇をさらに暗くした巨大な何かが地上に降りつつあった。外気の 温度が急速に下がりだす。イートの声が聞こえた。 「アナスターシャ、やめるんだ」 ”葱人”たちは寒さで溶け始めていた。皮膚が垂れ下がり、本来 肉のある場所から、無数の繊維が腐りながら流れ出している。イー トは”葱人”を振りほどき、アナスターシャのそばに走った。 黒い影は急速に密度を増していく。それと共に、さらに温度が下 がる。 「おい、ポンチエ教授。あれを何とかしろ! 」 「サムイデスゥ〜 」 「『ウェンディゴ』を元いた場所に戻すんだ」 「ネムイデスゥ〜 」 「寝たら死ぬぞ。おい」 巨体が揺らぎ、倒れた。近づくとポンチエは幸せそうな笑顔を浮 かべ、眠りについている。髭に霜が降りていた。 「なんてこった! 」 闇を圧するように、漆黒の巨人が地表に降り立った。凍てついた 外気が白い結晶となって舞い落ち、それは本格的な雪に変わった。 私はポンチエをそのままにして、時計台に向かって歩き出した。 顔は引きつるような痛みに襲われ、目は冷気で開けていられない。 私は道路に倒れた。体温が急速に失われていく。顔を上げられた のは奇蹟に近い。 アナスターシャ・ミカーリンとマイケル・イートは氷像と化して いた。アナスターシャが頭上に掲げる『根黒の蜜柑』は猛吹雪の中 で湯気を上げている。氷雪が本に触れると、瞬時に蒸発しているよ うだった。本を持つアナスターシャの指だけが凍っていない。艶め かしく見えた。 背後から足音がする。足音は私を無視して、通り過ぎた。絵描き のような姿をした男が、寒さをものともせずにアナスターシャに近 づいていく。 「ここには、もういらん、な」 不気味で不快な呟き声が聞こえた。男は『根暗の蜜柑』に手を伸 ばした。軽い音と共に、アナスターシャ・ミカーリンの指が凍りつ いたところから折れて、落ちた。 「待て」 私はかすれた声で呼びかけた。冷気で喉が痛んだ。 男は振り返り、すぐに前を向くと歩き出した。闇の中へ。 私もまた、忘却の闇の中へ落ちていった。 夏は終わった。 秋もなく冬に入ったことを、けげんそうに「異常気象? 」とつ ぶやく者もいた。が、真相を知る者はいない。 私たちのほかには。 気を失った私は小樽の病院の一室で目を覚ました。そばに心配そ うにポンチエが座っていた。 「オタルトカ、トマコマイトカ、ムロラントカカラ、タスケガキ マシタ」 ポンチエは簡単に説明した。私はうなずいただけで、それ以上は 聞かなかった。私たちは真相を誰にも語らず、黙したまま病院での 二日間を過ごした。 異常気象。そうとしか言いようがなく、それ以外に説明の言葉も ない。その日、外気はマイナス二〇度まで下がったという。生存者 は少ないようだった。家屋の外で倒れていた私やポンチエのような 人々はほとんど死に、生き延びることができたのは奇蹟に近いとい うことだった。 胸ポケットの中で粉々になっていた「旧神の印」が、私を助けて くれたのかもしれない。が、それこそヨタ話にも似た奇蹟だろう。 あるいは‥‥ いつかは真実が白日の下に語られる日も来るのか もしれない。だが、そのおぞましい悪夢を誰が信じるのだろう? シャルル・ド・ポンチエはスキップしながら母国に帰った。土産 に渡したマリモが、ことのほか気に入った様子だった。 アナスターシャとイートは凍死していた。 「根暗の蜜柑」は再びどこかに消えてしまった。あの猛吹雪の中 に垣間見た絵描きの男が、「Q」であることは間違いなかった。 「根暗の蜜柑」を持つ凍ったアナスターシャの指をためらいも無 く無造作に折り、「根暗の蜜柑」から剥がした「Q」。振り返った その顔を覚えているような気がして、私は脅えた。 暗く、闇に覆われていたあの時。 光がなかっただけではない。 顔のある場所には、絶望の虚空と邪悪に光る幾つかの星々しか見 えなかった。 夢、と思うのはたやすい。だが、夢が現実ではないのかどうか。 私には分からない。 私はホームに入った寝台特急に乗った。また今日も悪夢にうなさ れるだろう。私は未知なる「ヒツマブシ」の謎を探るため、名古屋 に向かう。 安寧な日々が、いつか来ることを信じて。 「はぁ〜 」 「おしまいで〜す。皆さん、お疲れ様でした〜 」 「どうもですぅ〜 でね。久遠さん」 「なに? 」 「これ、珍しいから買ったんだけど。知ってる? 」 「ほんのりあったかいね‥‥ うっぎゃあ〜 本物の『根暗の蜜 柑』!! 」 「ふ、ふ、ふ。おまえはもうどこにも逃げられない‥‥ 」 ※ 作中の登場人物はたぶん架空の人物だと思います。 - 了 - |